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2020年ロックダウン(MCO)中の引越しvol.1

個人的な記録としてup

誰もがCOVID-19に翻弄された初めの1年。
2020年、pandemicとなった最中、マレーシア国内で引越しをしました。

怒涛の引越しを振り返ってみたいと思います。
引越しとは無関係ですが、サバの景色をお楽しみください。

コロナってなぁに?3月のボルネオ島

kk sea

日本では豪華客船で感染者が出たり、マレーシアでも半島でチラホラ感染者が出始めていた頃。
私が住んでいたのはマレーシア、サバ州のコタキナバル。
ボルネオ島は感染者もなく静かな日常を送っていました。

予兆

kk sunset

4月末、新タームからペラ州カンパーのインターナショナルスクールに編入が決まっていて、3月末の引越しの準備をせっせと始めていました。

3/16 卒業式 gradiation 
3/17 終業式 farewell party
3/18 引越し片付け
3/19 コンドをレントアウトしてAnBへ
3/20 車を船に乗せる
3/21 飛行機でクアラルンプールへ

こんな日程を組んでいました。
ところが3月上旬、外国人が学生ビザをもらうために必要なマレーシア教育省からのレターが止まってしまったのです!
このレターがないとビザはおりません。つまり、外国人留学生の受け入れを一時停止ということになります。

州ごとにビザが異なる上、スチューデントパスは学校名が入るので、今の学校のビザをキャンセルして新規で取り直す必要があるのです。
次の学校に問い合わせると、ほとんど揃ってはいるがあと2通待っているところ、という状態でした。
しかし、処理途中のものがどうなるのか保証はありません。
学校側から全部揃うまでビザはキャンセルしないでね!と念を押され連絡待ちとなりました。

サバのビザはいつとっても12月31日で更新となります。
前年度更新する時に、あえて4月末までにしていました。
3月では次のビザは絶対間に合わない。
かといって12月までだと絶対サバでキャンセルしてからじゃないとならない。(もしくはビザのために一度戻ってくるか)
4月末なら、最悪一度タイに出て観光ビザで入り直すことができるので、どうしてもダメならその手でいこうと考えてました。

それが、国外に出たら入れない状態になってしまった!もとい国からも容易にでられない。
※この時マレーシア人は出国禁止
これは何が何でもキャンセルしないとならなくなりました。

ギリギリ、3/12にレターが揃ったと連絡があり、学校にキャンセレーションレターを発行してもらって、ビザキャンセルの書類が揃いました。

同じ3/12、サバで初めての感染者が出ました。
なんとなく雲行きが変わり始めます。

ビザキャンセレーション

kk immigration

ビザのキャンセルが当初の予定より遅れてしまったため、卒業式の後そのままイミグレーションへ。祝ってる状況でもありません。
念の為キャンセルする子どもたちも同行です。
誰が感染者か分からない状態で人がごった返したイミグレ。
マスクをつけて行きましたが、まだこの頃はマスクをしてる人もほとんどいない状態でした。

キャンセルなんてすぐ終わると思ったのに、フライトの予約表をつけろ、いや日本語じゃ分からないからマレー語にしてこい、だの、次から次にケチをつけられて、かなり手こずりました。しかも1つずつ言われるから腹が立つ。
「本当にキャンセルしちゃっていいの?」と何度も念をおされ、4時間かかって手続きがやっと終了。

shells

その日の夜、マレーシア政府からまさかの発表が!

3/18から2週間のMovement Control Order

完全ではありませんでしたが、実質ロックダウンの発表でした。

ビザキャンセルしちゃいましたけどー
まさかのタイミングです。

翌日の買い占め

grosser

数日前に、車を乗せるフェリーの日にちが早まった、と運輸会社から連絡がありました。
3/17の朝9時までにオフィスに持っていく事になっていたのです。

今このタイミングで車がなくなるのはかなりキツイのですが、船は月に1、2便。次がいつになるか未定な状態でした。
移動が禁止されたマレーシアでは思うように動けないことが明らかです。
1年経った2021年、今でも国内移動なのに州越えは禁止されてます。
子ども達を保育園と学校に送って、車を預けに行きました。

昨日の今日ならビザキャンセレーションを取消しに出来るかも!と、再びイミグレへ。
昨日長時間もめた担当のおばちゃんを捕まえて聞いたところ
「だから本当にいいの?って何度も聞いたじゃない」と冷たい一言。

だってロックダウンするなんて知らなかったんだもん

まったくもぅと言いながらも一応確認してくれました。
が、

「もう処理が終わってビザ切れてるわよ。1ヶ月のスペシャルパス出してあげるから、お金払ってらっしゃい」

仕方なく1人RM100のスペシャルパスを取り、子どもを迎えに行くことに。

ちなみに、
1ヶ月のパスで次のビザが間に合うのか?イミグレも明日から閉まるんでしょう?
と聞いたところ、
明日も明後日もやってるわよー
と言ってました。
しかし、3/30イミグレーションも閉鎖。
人が集まりすぎるのです。
こんな感じで予想して動いても、国の対応が津波のように早く、いろんなシュミレーシンをしながら必死で頭を回転させてました。

さて、我が家のキッチンは、というと、引越し前の1週間は外食で済まそうと思っており、もぬけのから。
全て送ったり人にあげたり処分した後の状態です。
残りは捨てていくフライパンと片手鍋、調味料少々と手持ち予定の炊飯器。
とりあえず、帰り道のgrab taxiを拾い、スーパーでおろしてもらいました。
このgrabも怖いんです。
密室だし、前に乗った人が分からないのだから。

スーパーに行ってみるも見事に何もない。
棚にいくつか残ったカップ麺とローカルの売れ残りの米くらい。
ありったけのカップ麺と米10kgを買い、再びgrabで帰宅しました。

家に残してきた子ども達は、かれこれ6時間くらい何も飲まず食わずでした。
荷物は全て片付けてあり、wifiもないのでさぞ退屈だったでしょうね。
ウォーターサーバーもあげてしまったので、飲み水もなかったんです。

ポリスレポートをもらいに

kk police station 

この日から厳しい規制生活が始まりました。
スーパーの前には店員が消毒液と体温計を持って立ち、人数制限の中並んで買い物をします。
ひと家族につき1名。
たまたま知り合いと会って話なんてしていると、1名だけよと注意されます。

州をまたぐ移動はもちろん不可。
この場合、ポリスでポリスレポートを発行してもらう必要があるとのこと。

スーパーで食材も買うことは出来たけど、作ってる時間がないので、カップ麺でごめんね、して1人警察署に出向きました。
持参したものはこちら。

⚫︎スペシャルパスがついたパスポート
⚫︎次の学校のオファーレター
⚫︎今の学校の転出証明
⚫︎ペラ州に荷物を発送した領収書
⚫︎車を船に乗せた契約書と領収書
sabah city mosque

ハンカチを口に当てた警官にこれらを見せて、ペラに行かないとならないことを熱弁してみます。
「その線からでちゃダメ!」
カウンター越しですが、50cmほど離れたところにビニールテープが貼られ、そこからこっちに来るなと言うことでした。
かなりみんな神経質になってきてます。

「ポリスレポートは必要なくなった」
「は?」
「昨日の夜、政府発表でポリスレポートがないと州が越えられないって言ってたでしょう」
「うん。でもいらなくなったの。今から空港行けばすぐ飛べるよ」
「、、、、でもね。私のフライト土曜日なの。今日は水曜日でしょう。明日、明後日、やっぱり必要になったって言われても、ポリスに来ている時間が取れないの。必要なくてもいいから出してもらえない?」

すっっごい粘りましたが必要ないものは出せないということで、ホットラインの電話番号を渡されました。

これがいくらかけてもつながらない!!

後日しりましたが、ポリスレポートは、前夜政府発表があった後から警察署に人が押し寄せてしまい、人が密集してしまったそうで。
そのため翌朝にはポリスレポート不要と決まったそうな。
なんともマレーシアらしいお粗末なお話でした。

コンドのレントアウト

pantai

オーナーから、今引越すのは無理だろうからもう少しいていいよ。とありがたい言葉をいただきました。
何人ものローカルの友だちに、che、今は無理よと言われる事態だったのです。
2週間のロックダウンという発表だったため、4月になれば元に戻ると思っていた人も多いでしょう。
でも、絶対2週間では終わらないであろう、先が分からない場合は動ける時に動くべきだと思ってました。

もう一点、何としてもAnBに移りたかった!
だって、家にあるものと言えば、炊飯器と塩コショウ、開けてない10kgの米。手持ちで持っていくDVDデッキにパソコン、卒業証書、着替え数着。
あと、ダンボールに詰められなかったライオンダンスの頭。

AnBで借りたコンドは目の前にスーパーがあるので歩いていけます。
パンを焼いてるカフェも入ってるので、それも利点でした。
全ての店が閉まる中、飲食店は全て開けても良かったのは幸いです。
レストランもがんばれば徒歩でいける場所にあるので、食べるものには困らないのです。
(店内飲食は不可で持ち帰りかデリバリーのみ)

学校が終わったので、ランドセル等を最後の荷物をダンボールに詰めてペラに送りに行きました。
近くの郵便局に電話で問い合わせると、ポスラジュ(日本でいうゆうぱっく)は今、本局だけしか扱えない、そうです。
友達に頼んでKK市場の前にある本局に向かいます。
毎日状況が変わるので、それに対応するだけで大変な中、快く迎えに来てくれた友人がいました。
すでにこの辺りは感染者が出ていて、戦闘状態です。気が抜けません。

この時に、誰かにあげようと思っていた日本の調味料も念の為送ることにしました。
もうそれぞれが自分のことでいっぱいいっぱいだったし、人に会う時間も余裕もない状態だったんです。

こんな作業でさえ半日がかり。

帰宅後、オーナーに鍵を返して移動です。
機内預け荷物も60kgほどあるので、大型の車の人に頼んでコンドへの移動を手伝ってもらいました。
ありがたい事におにぎりと卵焼き、麦茶の差し入れまで頂いて、久しぶりに食事らしい食事をしました。
考えることが多すぎで、ほとんど何も食べてなかった2日間。
めちゃくちゃ美味しかった。

10kg買った米は結局炊いている間も無く、オーナーにそっくりあげてしまいました。

健康診断書が欲しい

KLに入るには健康診断書がないとダメみたいだよ。
そんな話を聞き、友達の知り合いがやっている小児科に無理やり予約を突っ込んでもらうことに。

ここで次男に思わぬことが発覚。
「この子、asthmaだね」
え?asthma?聞き慣れない言葉にポカンとしましたが、思い当たるフシはありました。
熱を出す前は必ず喉が鳴るような呼吸をしていたんです。そして今もそう。
喘息でした。

吸入をしてもらい、吸入器を持っていた方がいいと勧められます。
、、、、荷物はすでにパンパンな上、小児用の吸入器って大きいんです。
手持ちバックになんとか押し込んで持っていく事にしました。
書類とパスポート4冊、携帯にお財布でパンパンなんですよ。

そして、この余裕のない中、翌日も吸入のためな通院することになってしまいました。

とりあえずメディカルレポートは無事に発行してもらい、これで半島に渡る準備は整った!

結論からいうと、メディカルレポートは誰にもチェックされないまま、1年経った今も引き出しに眠っています。

飛行機が飛ばない?

kk airport

フライトの欠航が相次いでいたのはどの国も同じでしょう。
日本だと4月は新学期。
日本に帰国する人たちは、フライトがとんどんキャンセルされ、毎日振り替えられ、自分がいつ飛べるのか全く分からない日々を過ごしていました。

国内移動の私も同様。
Air Asiaのアプリを見るとチェックインできる状態ですが、
でも、本当に飛ぶのだろうかー

この日は任期を終えて帰国する先生たちを空港見送りする予定の日です。
残念ですが、安全のため子ども達は残して1人で空港へ出向きました。

帰りにAir Asiaのカウンターで直接聞くことに。
「あー、、、このフライト今はまだあるけど、多分なくなる」
「え?なくなる??、、、私いつ飛べるの?」
「今のところ、朝10時と午後5時は飛んでる」
「じゃあ、10時のフライトで空きがある1番早い日に変更して!」

ということで、21日に飛ぶ予定が23日になりました。

実は、ポリスにもらった電話番号にマレー語が達者な友人に頼んでかけてもらったのです。
なかなか繋がらなかったそうで、KLのホットラインにまでかけてくれました。
結果、”州を跨いでも良い。ただし、どこかで泊まったりしないでダイレクトに目的地に行くこと”、との指示をもらっていました。

コタキナバルからペラ州のカンパーまで、ミニマムで6時間はかかります。
飲食店やスーパー、ガソリンスタンドと全て時間規制がある中では、午後のフライトでは到底辿り着けないのです。
日にちを延ばしてでも午前便で飛ぶ必要がありました。

シュミレーション

luggage

日本帰国の友達が、急遽翌日飛ぶ事になったとの一報が入りました。
なかなか帰れないのも困るけど、前日に決まるのもてんやわんやですね。

ちょうどフライト時間が午前10時前後だったので、見送りを兼ねて、grabが捕まるのか、空港までどのくらいかかるのかシュミレーションすることにしました。

お互い感染リスクがあるから休業しているドライバーは多いんです。
ロックダウンから数日経って、客が少ないからと休みにした人も多いようでした。
まして、朝7時台なんて誰もどこにもいかないから、許可されたタクシーでさえ働いてるひとも少ないことは想像できます。
医療、飲食、生活必需品を扱う店以外は全て休業命令が出ていました。

いつもなら数分で捕まるgrabが、15分たってやっとキャッチしてもらえました。
タクシーが来るまで更に5分ちょっと。
時間にかなり余裕を持てばいけそうですが、20kgの預け荷物が4つあるとなると、大型車が必要です。
これは無理なことを悟りました。

何もない1日

kk island

本当ならば今頃飛行機の中。
やるべき事、できる事は全てやった!
AnBもこの状態なので延長もすんなりできたし、追加の支払いも携帯からネット振り込みで完了。便利な世の中ですね。
KLの空港からカンパーまで送ってくれるgrab taxiの運転手も紹介してもらい、連絡がついています。

あとは運を天に任せるだけ。

AnBで泊まっていたコンドから徒歩5分くらいのところに住む友達が、(感染を)気にしなかったら遊びに来てと声をかけてくれました。

そこで、翌日から軍が出ることを知りました。
軍は国王に従事します。国に従事している警察よりも位置的には上なのだそう。
軍が出たら、やたら人に送ってもらうことも頼めない、、、、さて困った。

こういう時に下手に外国人がうろうろしない方がいい。
なんとなくこれは勘ですが、おそらく外れないと思います。

マレーシア人の知り合いで大きい車を持ってる人に送ってもらうことを頼んだら、快く引き受けてくれ、翌朝のgrab問題も解決できました。
あとは寝坊しないで起きるだけ!

そして、くつろぎすぎた4時半過ぎ。
携帯をチェックした友達が
che!今日からスーパー5時閉店だって!
えっ!!食べるモノ何もない!
5時前にはスーパーに着きましたが、すでに清掃に入ってました。

今日から5時までなの。

どうやら5時まで営業でなく、5時全員撤退ってことみたいです。
今日も塩おにぎりとカップ麺決定になりました。

旅立ちの時

朝7時、迎えに来てもらったバンに荷物を乗せ、空港に送ってもらいます。
別の友達がおにぎりとウインナーのお弁当を届けてくれました。
なんて嬉しい差し入れなんでしょう。

コタキナバルの外れにくると、軍が銃を構えて立っていました。
行き先を告げ、荷物を見るとすんなり通してはくれましたが、銃を持ってるとやはり身構えますね。

そんな中、学校の先生方や友達数人が見送りに来てくれました。
お彼岸だからとおはぎの差し入れまで頂きました。
そんなもの売ってないので、もちろん餡から手作りです。

大好きなコタキナバルを離れる日は、きっとしんみりするんだろうなぁとずっと思っていました。
が、実際はそれどころじゃありませんでした。
出られる保証がないんです。

行くべきか、残るべきか、情報を1つ得る度に考え考え悩み、できる限りの準備をして、まだやっと空港についたところです。
お別れをしてもサバから出してもらえない可能性があります。
サバを出国出来ても、半島に入れないかもしれません。
その時は、もう正規チケットを買って日本に向かう覚悟をしていました。

先の見えない中、お別れをして出国しました。

サバ出国

サバはマレーシアとは別に特別自治権を持っています。
従って、サバに入る時も出る時もパスポートが必要になります。

ガラッガラの窓口にパスポートを出して並びました。

「日本に帰るのか」
「半島に行く」
「え?!移動はできないよ」

ここで書類達の出番です。
「彼らはこの学校のオファーレター(入学許可証)をもらって、MOCレターも揃ってます。
サバのビザもキャンセルしてしまいました。
家も借りていて、荷物と車も半島についていますが、受け取り手がいないので、どうしても行かなきゃならないんです!」
書類をひっくり返して説明します。

幸いケチをつけられることもなく、無事に出国できました。いい人で良かった。
第一関門突破です。

この先いくつの関門が待ち受けてるのかは分かりませんが、おにぎりとおはぎを登場ゲートでほおばりながら、最後のサバの空を眺めました。

KLIAに到着

airport

いつもは絶対遅れるair asiaも、1日2便、人も少ないとなると定時で飛んでくれます。
機内食もオーダー通り出ました。
でも、おにぎりとおはぎでお腹いっぱい。
無事に着いたとしても、明日からご飯が食べられる保証がないため、機内食は持ち帰ることに。
とりあえず夕飯用です。

空港に降りてドキドキしながら出口を探します。
が、、、、サバからの出国は国際線、KLへの入国は国内線なので、まさかのスルー。
何のチェックもなく荷物を受け取り気づけば外に!
かなり身構えたので肩透かし。
1人でファミマに行き、おにぎりを買い込み、予約していたドライバーに連絡。
車を停めている場所まで荷物を押して移動です。

検問だらけ

引越し先の家のオーナーの知人でKLでgrab driverをしている人がいる、と紹介してもらつた人が迎えに来てくれました。
地元がペラ州なのだそうです。
事前に荷物の写真などを送り、人が4人と60kgの荷物が運べる車を用意してくれていました。

後は家の前まで送ってもらえます。
肩の力が抜け、爆睡していたのですが、高速を降りると検問だらけ!
街ごとに警察がテントをはって行き先を確認してます。
1番厳しかったのはまだ感染者の出ていないカンパーに入る場所。
軍が立っていてどこから来たのか尋ねられます。
「サバからきた」
「サバー?!?」
感染者0のカンパーに対して、サバはすでに100名近くの感染者が出ていました。
「家に帰るんだ!もういいだろう」
と検問を半ばぶっちぎっ通りすぎ、無事にカンパーへ。
これは自力では無理だった。uncleに感謝。

至れり尽くせりの日々

家に着くとオーナーが出迎えてくれました。

家は昨年12月のオープンスクールの時にいくつか見て、1月には借りる契約をしていたのです。
オーナーの家は隣。
部屋に入ると先に送っておいた段ボールを入れておいてくれてました。
そして、なんと夕飯まで!
冷蔵庫には卵、パン、牛乳の買い置きをしておいてくれており、自分たちも3日に一度しか買い物に行かないから、それまでご飯を作ってくれるというのです。
今日から1週間の自宅隔離になるためです。

この家はAnBとして貸していた部屋でした。AnBの中でもかなり充実した部屋で、食器類、カラトリー、なべ、調理器具、シャンプーやハンドソープ、タオルまで。
なんならエプロンもありました。
AnBとは違うから、と棚を置いてくれたり、収納スペースも増やしてくれていました。
ベットカバーは引越しに合わせて新しいものに!
次男がおねしょしても大丈夫なように、防水のベッドカバーまで敷いてくれていたのです。
何よりありがたかったのが、wifiの共有込みの契約にしていたので、すぐにwifiが使えたことです。

チャイニーズの美味しい家庭料理を毎日たらふく食べ、ベッドでひさびさに熟睡できました。

MCOになってから1週間、3kg痩せたのですが、どこにも出ず(敷地内は散歩したり、敷地内のミニマートに買い物は行きましたが)美味しいご飯を食べていた1週間で、見事に元に戻りました。

こうしてMCOの中、無事に引越しが出来ました。
たくさんの人の協力と心遣いに感謝しきれません。

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