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ジャンヌ・ダルクの生涯と転生

「乙女はただの羊飼いなれど,武勲(いさしお)はいかなるローマ人(びと)にも勝れり」(詩人クリスティーヌ・ド・ピザン)
 

ジャンヌ・ダルクの勝利


フランスの状況


 ジャンヌ・ダルクが生きた15世紀のフランスは,百年戦争(1337~1453)の時代でした。しかもフランスは,イギリスの攻勢にあい,国土の多くを侵略されていました。それだけではありません。1407年,王弟ルイ・ドルレアン(オルレアン候ルイ)が暗殺。しかも,国王シャルル六世は精神に異常をきたしていました。国内は派閥争いに明け暮れ,その隙にイギリス軍がフランス北部及びパリを占領してしまったのです。

 北部を占領したイギリス軍と南部に追いやられたフランス軍。その境にある町オルレアンは,フランス攻略の要衝地でした。1429年,そのオルレアンが,イギリス軍に攻囲されてしまったのです。この絶体絶命の時,神はオルレアンに一人の乙女を遣わし,滅亡寸前のフランスを救いました。その乙女(ラ・ピュセル)こそ,ジャンヌ・ダルクだったのです。

乙女の性格


 ジャンヌは,評判のよい立派な農民の父母の下に生まれました。父母はともに信心篤いカトリック教徒で,当然ジャンヌも父母の信仰を受け継ぎました。ジャンヌの故郷ドンレミ村の記録によると,彼女はすべての人に愛されていたそうです。気立てがよく,信仰とよい躾の中できちんと育てられた娘でした。畑仕事・家畜の番・糸紡ぎなど,よく働きました。村人の証言によく出てくる言葉があります。それは「皆と同じように」です。つまり,ジャンヌは普通の子どもと同じであり,救国の英雄になるような片鱗は少しも見受けられなかったのです。
 しかし,一つだけ,普通の子どもと違う点がありました。それは,並外れた信仰心です。彼女の代父であるジャン・モローはこう証言しています。

「彼女はすすんで頻繁に教会に通いました」

また,地元のフロン神父もこう証言しています。

「自分の教区には彼女よりも素晴らしい女の子は見当たらない」

「乙女ジャンヌが,とても敬虔な態度でこの教会にお参りにやって来るのをよく見かけたものでした。朝のミサにあずかると長い間お祈りを捧げていました。円天上の下に跪いて,聖母マリア様の像をまっすぐ見つめたり,その前で頭を垂れたりしている彼女をよく見たものです」(ノートルダム教会参事会員ジャン・ル・フェミュー)

 ジャンヌの敬虔深さは並外れており,同級生にからかわれるほどでした。同い年の農夫ジャン・ヴァトランは,幼少時代を回顧してこう証言しています。

「我々が一緒になって遊んでいるときには,よく彼女は一人離れて神さまに話しかけていましたよ。私にはそう見えましたけどね」

「私や他の者はジャンヌをよくからかったものですよ」

ジャンヌ・ダルクの聖召


 ジャンヌはある日,殉教した聖女や大天使ミカエルが顕われる神秘体験をします。以下の文言は,異端裁判におけるジャンヌ自身の証言です。

「私の目の前におられたのは聖ミカエルでした。それもお独りではなく,何人もの天使を従えておいででした。・・・ちょうど皆さん方も見ているように肉眼で見えたのです。聖ミカエルが天使たちを連れてお帰りになる時,私は泣き出しましたし,一緒に連れて行って欲しいと思ったものでした」

 また,異端裁判の記録には,書記の視点でこう記されています。

「彼女が家畜の番をしていると,一つの“声”が彼女に呼びかけた。“声”は彼女に,神はフランスの民を大いに憐れんでおられると言い,そしてジャンヌ自身がフランスに赴かねばならないのだと言った。それを聞くと彼女は泣き出した。するとまた“声”がして,ヴォークルールに行けば,そこには彼女をフランスにいる国王のもとまで安全に送り届けてくれる隊長がいる,それはゆめゆめ疑ってはならぬと言った」

 神の使者から告げられたジャンヌの使命は,二つありました。第一に,攻囲されているオルレアンを解放すること。第二に,聖別・戴冠を受けさせるため,国王をランスに連れていくこと。つまり,王国は主のものであり,王太子が王となって王国を管理するよう主が欲しておられる。それを伝え実現させることこそ,ジャンヌの使命だったのです。宇宙を統治する全能の神は,赤い上衣を着たドンレミの百姓娘に,フランス国の救済を託したのです。

王のもとへ


 ジャンヌは神に導かれるまま,ヴォークルールに行きました。すると,有名な将軍ボードリクールの兵士に遭遇しました。以下は,ジャンヌとその兵士の対話です。

兵士「おねえちゃん,こんな所で何してるんだい?王様なんか追っぱらって,みんなイギリス人になった方がいいんじゃないのかい?」

ジャンヌ「私はロベール・ド・ボードリクールが私を王様の所に連れて行ってくれるか,誰かに送らせてくれるかしてくれるように頼もうと,王様の味方をしているこの町までやって来たの。でも彼は私にも,私の言うことにも注意を向けないわ。でも四旬節の第三週の木曜日までには足を膝まですり減らしてでも王様の所へ行かねばならないの。本当に誰も,王も候もスコットランド王の王女様も,その他の誰であろうとフランス王国を立て直すことはできないのよ。私以外の者には王国に救いの手を差しのべることはできないのよ。こんなことは私の仕事じゃないんだから。本当は気の毒なお母さんの側で糸紡ぎをしていたいのだけれど・・・でも私の主がそうするようにと命じておられるのですもの。私は行かなきゃならないし,そうしなきゃいけないのよ」

兵士「君の言うその“主”って誰のことなの?」

ジャンヌ「神さまのことよ」

兵士の回想「それを聞いて私は乙女の手にわが手を重ねて誓いを立て,この私が神の助けを得て彼女を王のもとにお連れすると約束した。そしていつ頃出立したものかと彼女に尋ねたところ,彼女はこう答えた。『できるなら明日より今日,ずっと遠くなるよりは明日がいいわ』」

 こうして,将軍ボードリクールは6人の護衛隊を組織し,野盗や敵兵からジャンヌを守りつつ,彼女を王のもとに出発させました(計11日間の旅だったそうです)。王のもとに着いたジャンヌは,彼女を威圧するために集められた300名の騎士と廷臣たちの前で,謙虚かつ素朴に,王にこう告げました。

「いとも貴き王太子殿下,あなた様と王国とをお救い申し上げるべく,神さまより遣わされてやって参りました」

王は当初,百姓娘の言葉に半信半疑でした。しかし,ジャンヌは国王に“神以外に誰人も知るはずのない,知ることのできないある秘密”を話すことにより,王の信頼を得たのです(その秘密が何だったのか,歴史書には記されておりません)。

オルレアンの解放


 イギリス軍を打破すべく,ジャンヌはイギリス王に宣戦布告します。

「イギリス国王よ。もし汝らが汝らの国に立ち戻らずんば,われも一軍の将なり。フランスの地において貴軍の兵と遭遇致しなば,いずれにおけるとも遠慮会釈なくこれを立ち退かしめん。逆らうにおいては全員これを斃(ほ)ふるものなり。われは天上の王,神より遣わされし者にして,汝らをフランス全土より駆逐せんがため身命を惜しまざる者なり」(1429年3月22日の手紙)

 ジャンヌはどの戦でも常に陣頭に立ち,躊躇する隊長たち(貴族)を叱咤激励しました。不思議にも,ジャンヌが励ますとフランス軍は力を得たのです。

「この戦闘を指揮するのは神である!」

「神のお気に召すときが一番の好機。まず行動を起こせ,しからば神の御計いを得ん!」

 ジャンヌはいつも,軍旗を手にしていました。なぜ,剣を持たなかったのか?それは,誰も殺したくなかったからです。また,仮に剣を手にしたところで,戦闘経験のない百姓娘が屈強な男相手に渡り合えるはずがありません。ジャンヌ最大の武器は,不思議な感化力にありました。ジャンヌが激戦の中旗をふると,兵士たち全員は彼女のもとに集結し,再び激しく襲いかかりました。やがて砦は彼らの手に落ち,敵勢は要塞を放棄。フランス軍はオルレアンの町に入ったのです。1429年5月7日,レ・トゥーレル要塞の陥落です。兵士たちの証言によると,ジャンヌは勝利に酔うことなく,亡くなった大勢のフランス兵のためにひどく泣き始めたと伝えられています。

国王の戴冠


 以後,ジャンヌ率いるフランス軍は連戦連勝し,国王を連れてランスに到着。1429年7月17日,国王の聖別式が行われました。「これで神の御旨が成就された」と,ジャンヌはむせび泣いたと記録されています。
 私は,奇跡物語が好きではありません。中世の迷信や大衆の大袈裟な伝聞が,話を大きくしただけだからです。しかしながら,ジャンヌ・ダルクの行ったことは,まさしく奇跡に値すると認めざるを得ません。立ち直ることができないほど打ちのめされていたフランス人が,突然起き上がり,苦心惨憺の末,侵入者によって仕掛けられた戦争を受けて立ち,遂に彼らをロワール川に投げ込むに至ったのです。しかもそれは,16歳か17歳にしかならない小娘の音頭取りでできたことなのです。これを奇跡と言わずして,何を奇跡と言うのでしょうか。
 フランス国の救済に成功したジャンヌ。しかし,彼女に待っていたのは,勝利の美酒ではなく,壮絶な殉教でした。そもそもの発端は,ジャンヌと国王の“見解の相違”にありました。ジャンヌの希望は,フランス人の結集によりイギリスに勝利し,祖国を復興することにありました。一方で,国王シャルル七世の計略は,イギリスとの調停と休戦にありました。年代記作者をして「移り気,猜疑心,その上をゆく嫉妬」と称されたシャルル七世。悲劇的なことに,国王を救ったジャンヌは,他ならぬ国王により裏切られることになるのです。

ジャンヌ・ダルクの殉教


捕縛と監禁


「一年は生き永らえましょうが,それ以上は無理です」(ジャンヌ・ダルクの予言)

 1430年5月23日,イギリス軍と激戦の最中,フランス軍は一時退却することになりました。そして,殿軍(しんがり)をつとめたジャンヌ・ダルクは味方の裏切りにあい,敵に包囲され捕えられてしまったのです。

「“声”は私に言いました。聖ヨハネの祝日以前に生け捕られるであろうし,そうなることは決まっている。しかし,私は神に感謝しなければならないし,神も私を助け給うであろう」

 通常であれば,国王は捕虜になったジャンヌを救うべく,身代金を払い彼女を取り戻すべきだったでしょう。しかし,忘恩の権化である国王は,ジャンヌ奪還のために何一つアクションを起こしませんでした。
 ジャンヌは,ヘンリー六世の戦時捕虜としてルーアン城内の牢屋に入れられ,5人のイギリス人に監視されました。記録によると,「両手は縛られ,足は鎖でつながれ」「大きな木の塊をひきずり」「寝るときはベッドに身体を固定され」「すべた,淫売,アルマニャックの不見転(みずてん)と罵られた」そうです。
 ある日,ジャンヌは高所にある牢から飛び降りました。自殺しようとしたのです。

理由は二つありました。第一に,コンピエーニュの全市民が,7歳の子どもにいたるまで火あぶりにされ皆殺しにされた知らせを聞き,あのように善良な人々がひどい殺され方をした後に生きていられないと思ったから。第二に,自分がイギリス人に売られたことを知り,敵のイギリス人の手中にあるよりは死んだ方がましだと考えたから(ジャンヌは,フランスの貴族ジャン・ド・リュクサンブールからイギリス人にトゥール貨1万リーヴルで売られたのです)。

異端裁判


 その後,ジャンヌに対し宗教審問が行われました。裁判官の興味は,主にジャンヌのいう“声”に集中しました。“声”について聞かれたジャンヌは,こう答えています。

「神が私に与え給うた啓示については,今までわが王シャルルにしか打ち明けたことはないし,首を斬られるとしても,それを明かすつもりはありません。私の受けた啓示によって,それは秘密にしておくべきであることがわかっているからです」

「あなたに答えないことより,“声”に気に入らないことを言ってしまい,“声”を裏切る方がこわいのです」

 これを聞いた裁判官は,ジャンヌにこう問いました(後世,有名になる問答です)。

裁判官「神の恩寵に浴していると思っているのか?」

ジャンヌ「もし私が神の恩寵に浴していないのなら,どうか浴させて下さいますように。もしもそこに浸っているのであれば,いつまでもそのままにしておいて下さいますように。もしも神の恩寵に浴していないとわかれば,私ほど不幸な女はこの世にいないでしょう」

 執拗な宗教審問は何日も続きました。が,裁判官はこう結論せざるを得ませんでした。

「彼女,ジャンヌの内にはいかなる悪しきものも見当たらない。それどころか,謙虚・純潔・献身・誠実・素朴といった善きもののみを持ち合わせている」

 しかし,1431年5月14日,ジャンヌは背教者・嘘つき女・離教の徒・異端者として火刑を宣告されました。罪状は,「男物の衣服を身につけたことが“教会の不服従”に該当する」です。つまり,そんな些末な事柄を取り上げなければならないほど,ジャンヌの信仰心には隙がなかったのです。

ジャンヌ・ダルクの死


「喜んですべてを受け入れなさい。殉教を恐れることはない。最後には天の王国に迎えられるのだから」(ジャンヌの聞いた声)

 通常であれば,異端裁判の後,世俗裁判権に引き渡される規定でした。が,ジャンヌを早くこの世から抹殺したかった教会は,彼女を俗権の手に渡さず,さっさと火あぶりにしてしまいました。民衆の暴動を警戒した800名の兵士に囲まれ,ジャンヌの刑は足早に執行されたのです。

「ジャンヌが敬虔なお祈りをしながら悲嘆にくれているとき,イギリス兵がやいのやいのと私を急かしました。彼らの隊長の一人が早いとこ彼女を死なせるために,さっさと自分たちの手に引き渡せとせっついてくる。桟敷の上で彼女に慰めの言葉をかけているこの私に対して,こんなことを言ってくる奴がいる。“どうした坊さん,このままここで晩飯まで食わせる気か”そして彼らは即刻,裁判の形式や手続きをふまずに,彼女を火刑台に連れていき,刑吏にさっさとお勤めを果たすよう命じました。かくして彼女は火刑台に縛られながらも神と諸聖人への賛辞と信心より発する嘆きの言葉を叫び続けていました。彼女はいまわの際には“イエズスさま”と最後の言葉を大声で叫びました」(ジョン・マシューの証言)

「ジャンヌは,炎の中でも最後まで大声でイエス・キリストの名を叫び続け告解するのを決して止めなかった」(イザンバール・ド・ラ・ピエール修道士の証言)

 ジャンヌ・ダルクの壮絶な最期を見たイギリス国王の秘書ジャン・トレサール師は,悲痛の涙を流しながらこう言ったと記録されています。

「ああ,我々はもうダメだ。我々が焼き殺してしまったのは立派な聖女だったのだ」

フランスの復活


「7年以内にイギリス人はオルレアンで失ったよりもずっと大きなものを失い,フランスにおけるすべてを失うであろう。・・・そして神は偉大なる勝利をフランス人に贈られるであろう」(ジャンヌ・ダルクの予言)

 1431年12月16日,フランス王シャルル七世に対抗し,イギリスの幼王ヘンリー六世の戴冠式がノートルダム寺院にて行われました。イギリスは総攻撃を仕掛けましたが,フランス軍はモン・サン・ミッシェルでの防御戦を経て,遂に団結を決意。1435年9月21日,フランスとブルゴーニュの合同一致を表明したアラス条約が制定されました。ジャンヌが望んだ「永続する確固たる平和の再来」が成就し,フランスは遂に一つとなったのです。
 1436年4月17日,フランス軍はパリに入城。1449年11月10日,イギリス諸島に面するノルマンディの回復によって,フランスは遂に独立を回復しました。

ドンレミ村の証言


 偉大な奇跡を起こしたジャンヌ・ダルク。彼女の人となりを想像する時,故郷ドンレミ村の人々の証言が役立ちます。そして,村人の証言において,最もよく登場する言葉が「喜んで」でした。

「彼女は頻繁に喜んで教会や聖地に行きました」

「よく喜んで教会にお詣りしたものです」

「父の家の家畜の面倒を喜んでみていました」

「喜んで告解に出かけて行った」

「彼女は喜んで働き,色々な仕事に没頭しました」

 これら村人の証言によってわかることは,日々の営みの平穏さに喜びを感じる乙女の姿です。また,彼女のやさしく温和な性格も多く伝えられています。

「彼女は率先して施しをし,貧しい人たちを喜んで迎え入れた。自分はマントルピースの下に寝て,貧しい人々を彼女の寝台に休ませようとした」

「彼女は手に入るものは何でも喜んで神への愛のために他人に与えていた」

「実は子どもの頃,私自身病身だったものですから,よくジャンヌが慰めに来てくれたものでした」(シモナン・ミュニエの証言)

 温和で心優しく平穏な日常を愛する少女が,なぜかくも大きな戦功をあげることができたのか?それは取りも直さず,神の力でした。彼女は,自分自身を神の器と為して神から絶大な力を受納し,神の力によって神から与えられた使命を果たしたのです。「(声は)私にとってなくてはならぬものだったのです」と,ある日ジャンヌはため息まじりで言ったそうです。「毎日私を慰めてくれるあの“声”がなかったら,私は生きていられなかったでしょう」とも。不撓不屈の勇気の源泉,それは神のみに縋ろうとした信仰心にあったのです。

ジャンヌ・ダルクの転生


古代イスラエルの大士師


 ジャンヌ・ダルクの前世は,旧約聖書に登場する士師(政治・軍事的指導者)の一人,女預言者デボラです。イスラエル人を異邦人の支配から救った救国の英雄でした。

旧約に伝わる「デボラの歌」には,デボラ率いるイスラエル軍の奇跡的勝利と神の力で戦う信仰心がよく表現されています。

「天からは星が下って戦った。その軌道を離れて,シセラと戦った」(士師記5-20)

「主よ。あなたの敵はみな滅び,主を愛する者は力強く日がさし出るようにして下さい」(士師記5-31)

イギリスの「戦う女王(ウォリアー・クイーン)」


 ジャンヌ・ダルクはその後,20世紀のイギリスに生まれ変わっています。イギリスの首相を11年務め,様々な改革を断行した「鉄の女」マーガレット・サッチャーです。

 当時のイギリスは,極端な国有化政策により政府が肥大化し,機能不全に陥っていました。信じられないことに,電気・ガス・水道・通信・鉄道のみならず,鉄鋼・造船・自動車・航空機・エネルギーや旅行代理店まで国有化されていたのです。サッチャーはこれらを民営化し,経済に自由主義を取り入れました(ハイエク流の自由主義政策)。俗にいうサッチャリズムです。
 しかし,サッチャーがやったことは単なる民営化ではありませんでした。サッチャーが目指したこと,それは国家と個人の間の境界線を引き直し,キリスト教的な「個人の自由」を中心に据え,国家を改造することでした。個人は神から与えられた本分を果たすために自由であるべきである。つまり,「強壮な徳性(vigorous virtues)」の復興こそ,サッチャリズムの本質でした。

「経済学は方法に過ぎません。目的は魂を変えることなのです」(サッチャー)

 イギリスの危機とは,極端な国家の介入ではありませんでした。それは結果に過ぎません。イギリスの危機の本質は,国家に頼ろうとする精神,国民の不信仰から発する道徳的退廃にあったのです。ですから,サッチャリズムの目的とは,個人の経済的自由を最大化し,国家の介入を最小化することにあったのです。財政赤字の削減も減税も国営企業の民営化も,各種の規制緩和も公共サービスにおける市場的解決の導入も,はては金融市場の改革(証券取引所の自由化)も,国民の資産を最大化することが目的でした。
 サッチャーの人生観の根底には,燃えるようなキリスト教的信仰があったことを忘れてはなりません。

「私は,実用的で,真剣で,熱烈に宗教的な家庭に生まれた」

「メソジズムを中心に回っていた」

「この世のことは究極的に個人が神の恩寵にどのように応えるかによって決まる」

 信仰とは,神の前における個人の責任です。国家への依存ではありません。そして,個人の責任を土台にして,健全な相互扶助が成り立ち得るのです。個人の自由と責任を侵害するあらゆる思想・勢力に対し,宣戦布告をすること。こういう視点に立つ時,サッチャーの行動が明確に理解できます。彼女が「内なる敵(enemy within)」と呼んだNUM(全国炭鉱労働者組合)と徹底的に戦ったのは,彼らの集団主義を破砕するためでした。アルゼンチンの軍事独裁政権と対峙し,フォークランド戦争を起こしたのは,国家の独立こそ個人の独立の基盤であると考えたからです。イギリス独自の核抑止力に踏み切ったのも,国家の独立を確保するためでした。また,アメリカのレーガン大統領と協力しソ連の共産主義を打倒したのは,個人の道徳的義務を脅かす全体主義を打ち砕くためでした。

この魂の使命


 士師デボラ→ジャンヌ・ダルク→マーガレット・サッチャーと転生した魂の使命は,国家的危機の時代に生まれて,祖国の自由と独立を守ることにありました。彼女は,神の側近くに仕える座天使の一人です。

「私が今までいた神のみもとに戻して頂きたいものです」(ジャンヌ・ダルク)

座天使とは,政治的・軍事的方面において,神の国建設に貢献する大天使の一団です。オランダ独立の英雄オラニエ公ウィレムや奴隷解放宣言で有名なリンカーンなども,座天使に属しています。
 不思議なことに,イギリスは多くの偉大な政治的指導者を輩出してきました。清教徒革命の指導者オリバー・クロムウェル,最も偉大な民主的政治家グラッドストン,ヒトラー率いるナチス・ドイツを打倒したウィンストン・チャーチル,そして大国病からイギリスを救ったサッチャーです。クロムウェル・グラッドストン・チャーチルの使命や転生については,電子書籍にて紹介しておりますので,ご興味がある方はどうぞ。


 

↑ クロムウェルに関して

↑ グラッドストンに関して

↑ チャーチルに関して

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