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人格的成長とその目安


抑圧した自己


心の構造


 人間の心の中には,意識と無意識があります。意識とは,感覚・思考・感情・直感を司る領域であり,一般的に自我(エゴ)と呼ばれています。無意識とは,意識されない心の領域であり,良心(超自我)が許せない欲求を押し込めた世界です。この抑圧された欲望を,心理学では影(シャドー)と呼びます。
 フロイトの著作では,性犯罪者である牧師の話が登場します。この牧師は,善良かつ真面目な人間であり,村でも聖人のように尊敬されていました。しかし,無意識に押し込めた性的欲求は彼を動かします。牧師は,夜な夜な町に繰り出し,女性をレイプしていたのです。そして次の日,この牧師は罪滅ぼしのために,再び善良な人格者を演じるのであります。善人とレイプ魔が一人の人間に同居する理由は,コントロールできない無意識の力にあるのです。

投影理論


 悪の根源は,悪い行為ではありません。悪行は,悪の結果に過ぎません。悪の根源は,無意識に抑圧した欲望です。すなわち,無自覚のまま放置されている影です。では,どうすれば,抑圧した自己を自覚できるのでしょうか?
 無意識は,意識されていないからこその無意識であり,意識の側からは無いも同然です。それが意識化されるためには,無意識を外部に投影する必要があります。つまり,抑圧した自己を投影する外的事物(象徴)が必要になるのです。すなわち,人間が無意識の影を克服し人格的に成長するためには,象徴との相互プロセスにより自らの内側に沈潜し意識化を遂行せねばなりません。

性的対象と心理的経験


 投影は通常,その人間の異性観に反映されます。つまり,人間の性的対象こそ,人格的発達の鍵となるのです。男性の場合,理想とする女性性(アニマ)に投影します。女性の場合,憧れる男性性(アニムス)に投影します。今回は,男性の立場から,人格的成長の過程を追ってみましょう。

①  反人格的段階


 最も未熟な人間は,性的に刺激される女性を理想とします。この人のアニマは遊女であり,肉体的かつ動物的な傾向が重視されます。彼の心の中には,「人格」という概念がありません。なぜなら,彼にとって,女性は性的快楽の道具に過ぎないからです。そういう意味において,彼は反人格的であり,性的刺激を求めつつ,自らの人格をも毀損しているのです(ローマ書1-26~28)。

②  非人格的段階


 人格的に成長する時,彼の性的対象は社会的傾向を帯びます。動物性から社会性へ。理想的な女性にロマンティックな願望を持つようになり,肉体よりも性格的傾向性を重視するようになります。さしずめ,魔性の女から可憐な少女へ,という感じでしょうか。しかし,彼の心の中にも,人格という観念は存在しません。なぜなら,彼は目の前の女性を愛しているのではなく,ある性格的パターンを愛しているに過ぎないからです。その証左に,若かりし純粋無垢かつ一途な愛も,最終的には結婚によって客体化され,味気ない結婚生活に解消されてしまいます。

③  準人格的段階


 さらに成長した人格は,高尚な愛を抱くようになります。彼はもはや,肉体的外形や性格的パターンを重視しません。彼は,彼女の内奥にある本質を愛するようになります。肉体的愛から心理的愛へ,そして,霊的愛へ。彼は,崇高な美を愛し,気高い品性を愛するようになります。ユングは,この段階のアニマを「マリア」と呼びました。「宗教的な無私の愛」を美しいと感じる境地です。

④  人格的段階


 無意識にひそむ影を自覚する時,男性は内なる女性性と統合し,本当の人格を手に入れます。聖書に「神の国には男も女もない」と書いてある通りです。つまり,成熟した人間は,男性性と女性性を統合し,両性具有の人格と化すのです。福音書を読んでも,イエスに性別を感じない所以です。この時,男性の中のアニマは,女を下に見た遊女でも,気高い母性として憧れたマリアでもありません。男と女は対等な同志となります。人格が求める唯一の存在は人格です。神に創造された唯一無二の人格は,対等で自由な愛を求めます。彼の理想とする女性性は「叡智的なアテネ」であり,芯の強い霊的な友となります。

⑤  人格の退行


 今まで人格の成長を論じました。では,人格が退行した場合,人間はどうなってしまうのでしょうか?人格が退行する時,人間は性的倒錯に陥ります。人間は,全体として愛すべき存在です。しかし,人格を見失った者は,部分しか愛せなくなります。相手の顔だけ愛したり,相手の胸だけ愛したり,あるいは尻,あるいは足,あるいは声だけを愛します。挙げ句の果てには,履いてた靴を愛したり,匂いを好んだり,死体を愛したりします。性的倒錯はどんどん進み,覗き見ることを愛し,見られることを愛し,痛めつけることを愛し,痛めつけられることを愛します。すなわち,徐々に人間性を失っていくのです。最終的に行き着く先は,精神の完全な分裂です。
 いずれにせよ,私たちは,性的対象を通して己の影を知ることができます。自分が愛するもの,それこそ,抑圧した自己の象徴(シンボル)なのです。

「すべて移ろい行くものは,永遠なるものの比喩にすぎず。かつて満たされざりしもの,今ここに満たさる。名状すべからざるもの,ここに遂げられたり。永遠にして女性的なるもの,我らを牽(ひ)きて昇らしむ」(ゲーテ「ファウスト」神秘の合唱)
 

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