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心の発達段階

秘密曼荼羅十住心論


 人間は,どのような過程によって,人格的に成熟するのでしょうか?人間の心は,どういう段階を経て,悟りの境地に至るのでしょうか?かつて,仏教史上,最大の思想家が日本にいました。平安末期の仏教僧・空海です。今回は,彼の主著「秘密曼荼羅十住心論」を通して,心の生長過程を観察してみましょう。
 まず初めに,簡単なロードマップを示しておきます。最も未熟な動物的心は,道徳的良心に目覚めます。そして,多くの苦しみ・悲しみを経て宗教的世界に心を開き,最終的には,最高位の曼荼羅世界を体験します。実体的な自我を否定して迷いの世界を去り,心の絶対的本性を知る。あらゆる執着から離れる。これが,最も成熟した心のあり様です。

Ⅰ.未熟な精神


①  異生羝羊心(いしょうていようしん)


 最も未熟な境地は,本能のままに生きる心です。無知な心であり,そこには善悪の区別もありません。関心があるのは性と食のみ。物事の因果関係(原因と結果)を考えることができず,動物的本能が心を支配している状態です。

②  愚童持斎心(ぐどうじさいしん)


 何かをきっかけにして,未熟な人間にも倫理が芽生えます。人倫の始まり,これが第二段階です。しかし,この人はまだ,高度な倫理性には至っていません。彼の心にあるのは,消極的な倫理です。簡単に申し上げれば,「人に迷惑をかけないこと」です。殺すな,盗むな,嘘をつくな,酒に溺れるな,礼節を守れ。いわゆる仏教の五戒,儒教の五常,モーゼ律のような基礎的倫理を修得した段階です。

③  嬰童無畏心(えいどうむいしん)


 この世の悪徳に染まった心は,いつしか,子どものような素直な心境に至ります。素朴に生きること,善良に生きること。それは,心安らかに生きる境地であり,何か偉大なもの(something great)に対して素朴な宗教心を抱く段階です。イメージとしては,小さな村の善人とでも呼びましょうか。

Ⅱ.自立した精神


 心は,次なるステージに移ります。今までは,目に見える世界をそのまま受け取っていました。しかし,成長した心は,目に見える事物の背後に「見えないもの」を想像するようになります。考えてみれば,人生において大切なものは,大抵目に見えません。神は見えませんし,愛も見えませんし,希望も勇気も見えません。いずれにせよ,人間はこのステージにおいて,高尚な理念に目覚めるのです。仏教用語で言えば,事法界から理法界へ。哲学用語で言えば,素朴実在論からの脱却です。

④  唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)


 人間は,何らかの挫折や失敗を通して,自分を疑うようになります。自我への懐疑。無知ゆえに自信満々だった未熟な心は,初めて,自己への懐疑を学ぶのです。と同時に,何らかの苦悩(誰かの死や病気など)を通して,人生の無常を知るようになります。命の儚さを知った彼は,この世の流行に惑わされることなく,自己確立を決意します。自立した精神の始まりです。

⑤  抜業因種心(ばつごういんしゅしん)


 自立した精神は,物事を自分の頭で考えるようになります。何を考えるのでしょうか?それは,事物の原因と結果です。一切には因果があり,悪しき原因を取り除くこと。こうした原因究明の態度こそ,自立の土台と言えるでしょう。今までは,自分の価値観が絶対の正義でした。しかし,この段階において,人間は自分の価値観を相対化し,己の善悪にはフィルターがかかっていることを自覚します。自分の無知を知る,これこそ知恵の始まりです。
 心は,自立と独立を手に入れました。しかし,何かが欠けています。それは慈愛の心です。彼にとって,彼自身が最大問題であり,隣人・社会・国家・人類など,どーでもいいのです。

Ⅲ.成熟した精神


 次なるステージにおいて,人間は愛を知ります。どうやって知るのでしょうか?それは,自らの苦悩を通してです。自分自身が苦悩の中でもがいたからこそ,他人の苦悩に共感できるのです。自らの苦悩を乗り越えて,思いやりの気持ちを抱く。仏教的に言えば,小乗(自己確立)から大乗(他者救済)への飛躍です。

⑥  他縁大乗心(たえんだいじょうしん)


 多くの苦悩を経験した心は,弱い者を慈しむようになります。利他の心,一切衆生に対する愛。仏教では,この境地を「菩薩(ぼさつ)」と呼びます。空海は言います,「人間はこの段階において,六波羅蜜を実践できるようになる」と。六波羅蜜とは,他者の救済に従事する者の六つの特徴です。他者に惜しみなく与えること(布施波羅蜜多),倫理的な決まり事を守ること(持戒波羅蜜多),どんなことがあっても耐え抜くこと(忍辱波羅蜜多),日々自己研鑽に励むこと(精進波羅蜜多),心の方向性を仏に向けること(禅定波羅蜜多),心の迷いをなくし真の知性に目覚めること(智慧波羅蜜多)。いずれにせよ,深い宗教的境地と言えるでしょう。

⑦  覚心不生心(かくしんふじょうしん)


 悟りを深めた人間は,内なる神性を自覚するようになります。それは,永遠不滅の霊魂です。もはや,彼の心を縛る外的事物は存在しません。死でさえも。心の絶対的自由,仏教的に言えば「空(くう)」を理解したのです。ちなみに空とは,神を超えた神です。
 神という言葉で表現できる神は,本物の神ではありません。神がもし神であるなら,人間の言語を超越しているはずです。残念ながら,エホバもヤハウェも,アラーも大日如来も,天之御中主之神(あまのみなかぬしのかみ)も存在(ウーシア)も,生ける神を表現していません。神は,想像を絶した存在そのものであり,「戦慄すべき愛」なのです。既成宗教の神から生ける絶対者へ。排他的一神教から統合的一神教へ。この境地に至った人間は,全ての宗教に敬意を表します。なぜなら,すべての宗教,いや,すべての存在の背後には,生ける絶対者が時々刻々と働きかけているからです。このように,この世のあり様に仏の働きを観る境地を,仏教では理事無礙(りじむげ)と呼びます。

Ⅳ.唯一無二の精神


 永遠不滅の霊魂を自覚した人間は,霊的独自性に目覚めます。自分が何のために創造され,いかなる理由でこの世に遣わされ,どのように生きるべきかを悟るに至るのです。

⑧  一道無畏心(いちどうむいしん)


 この境地において,主観と客観が合一します。主観があるから客観があり,客観があるから主観があるのです。では,主観と客観が分かれる前の意識とは何か?主客未分の心とは何か?これが,心の中の神性,本来的自己です。本来的自己は肉体に左右されませんから,彼は永遠の命を自覚します。つまり,死と死の不安が,完全に相対化されるのです。黙示録に「もはや死がない」と書いてある通りです。そして,神に創造された自己を知ることにより,生きる意味を知り,本当の意味で人間は強くなります。

※生きる意味を知らないから,人間は脆く弱いのです。ニーチェが言ったように,生きる意味を知った人間は,獅子の如く強くなります。

⑨  極無自性心(ごくむじしょうしん)


 この境地において,人間は世界観が一変します。哲学用語でいうところの「一即多」を理解するのです。今までの世界観は,いわば円のようなものでした。中心は絶対者である神仏です。周辺は動物・植物・人間を含めたすべての被造物です。一方で,極無自性心に至った人間は,創造者と被造物を分けて考えません。有機的に繋がった被造物そのものの背後に,創造主の御手の業を観るのです。これを図形に譬えれば,「一つの中心を持つ円」ではなく,「到る所が中心である無限大の円」と言えるでしょう。すべての存在が生かし生かされ,個性を失わずに一つとなった世界。華厳経にある事事無礙(じじむげ)の境地です。ここに至って,人間が心の中で信じていた「抽象的な神」は,目で見て手で触れる「現実的な神」になったのです。

Ⅴ.人格の完成


⑩  秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)


 心の旅路の果てに,人間は「神の子としての人格」に目覚めます。すなわち,彼は小キリストになるのです。そして,絶対者から啓示を受け,神の計画を遂行するよう召されます。超人格である神に接した人間は,様々な秘密を開示されます。創世の秘密,人間存在の秘密,歴史の秘密,転生の秘密。神のみが教示できる根本智,全存在が織り成す一大曼荼羅世界。動物的な感覚知から始まった意識は,遂に,時空を睥睨(へいげい)する根源知に至ったのです。


曼荼羅世界


心の遍歴


 おさらいをしておきましょう。獣から始まった心は,倫理の目覚めを経て人間になりました。そして,様々な体験を経て成熟した大人になり,苦悩の果てに神を信じるに至りました。心の奥へ奥へと沈潜した人間は,時満ちて(ガラテヤ書4-4)生ける神と出会い,神からこの世に遣わされました。それは,神なき世界で神と共に働く神人一体の境地です。このようなキリスト意識の覚醒を通して,心の旅路はゴールに達しました。聖書の言葉にある通りです。

「インマヌエル,神我らと共にあり」(イザヤ書7-14)

 しかし,心の旅路は再び始まります。なぜなら,キリストが私を救って下さったように,今度は私が誰かのキリストになるよう召されたからです。それは,十字架の道,贖罪の道です。今までは,神が人間に啓示しました。これからは,人間が神に啓示する番です。親は子を育てます。成長した子どもは,その姿を親に示し,親を驚かせねばなりません。これが,本来の親孝行です。それと同じように,神に創造された人間は,今度は自ら創造の業に従事し,父なる神を喜ばせます。これこそ,イエスが予言した言葉の成就です。

「あなた方は,わたしよりも偉大な事を為すであろう」(ヨハネ伝14-12)
 


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