こころのちからになる話3 後輩からの贈りもの

 細野恵美(えみ)は、アラサー女子一歩手前の29才。新入社員だったころの緊張感がようやく薄れ、仕事も何とか様になってきた。

 しかし、私用から自分のアパートに戻ってくるなり、はぁあ、と彼女は深いため息をついた。

 心がとても、もやもやしているのだ。

 理由は、私用が、会社で育てた可愛い後輩の結婚式だったからだ。

 後輩は一所懸命に恵美から仕事を覚え、入社して3年目、ようやくモノになろうというところで寿退社することになった。結婚自体はおめでたいことだ。一生のパートナーに巡り合えた後輩を、祝福したい気持ちはある。

 しかし、心にもやもやが溜まった。

 今まで教えたことは何だったのか、とか。今どき寿退社をさせてしまう会社の方針はどうなのか、とか。

 そして自分だ。仕事が忙しく、会社以外には家族しか人の出会いも無い恵美には、恋人を作る暇もない。

 もうすぐ30を迎えるというのに……。

 周りには、そろそろどう? なんていうお節介焼きのおばさんはいない。いたところで、仕事を理由に断るだろうとは思うが。

 大都会の片隅で、ひとり仕事を定年までやって、ひとり年老いて死んでいくのか。

 そう思うと、不安や疑念が頭の中に次々と浮かぶのだった。

 部屋の中で悶々とした考えにとらわれた恵美は、浮かない顔で引き出物の袋を開けた。

「あれ? ……何、これ」

 恵美は思わず声を出してしまった。

 カタログやほかの引き出物と一緒に、植物がひとつ、中に入っていたのだ。

「エアプランツ(ティランジア) イオナンタ」と、添えられた紙に書かれていた。

 後輩の可愛い文字で「名前を付けて、育ててあげてください」と追記がある。

 うわあ、生き物だったかあ。

 恵美は顔をしかめた。

 子どものころから、恵美は何かを育てるのが苦手だった。植物は枯らし、鳥は籠から逃がしてしまう。

 実は、このエアプランツにも一度挑戦したことはあった。そのときは、水のやり過ぎで腐らせてしまったのだ。

 それを後輩に話したこともある。知ったうえで、もう一度チャレンジしてみろ、というメッセージなのだろう。

 再挑戦か……。まあ、エアプランツなら、ほかの生き物ほど手間がかかるわけでもないし。やってみるか……。

 恵美はエアプランツを見つめた。

 葉がタンポポの花びらひとつひとつのように、中心からあちらこちらへ伸びた形。

 イオナンタ、という、初心者にも育てやすいエアプランツの代表格だ。

「どれどれ、育て方は……と」

 恵美は紙を読み進める。

 週に2、3回の霧吹きスプレー。たっぷりとやること。

 夏は昼間に水をやってしまうと、気温の上昇で温まってエアプランツの株が煮えてしまうため、朝夕に水やりすること。熱帯夜には必ずエアコンをかけたり通風したりすること。日本は湿度の高いところなので、それをしないと蒸れて腐ってしまうのだ。

 冬は、昼間のあたたかい時間帯に水やりをすること。

 そんな、簡単な説明があり、最後にまた後輩の文字で「あとはネットで調べてください!」と書いてあった。

「そうか、インターネットが普及してるから、育て方も調べられる時代になったんだなあ……」

 ちょうど平成に入った頃に生まれた恵美にとっては感慨深い。

 子どものころ、インターネットがあったなら、植物を育てるのも鳥を飼うのも、失敗しなかったかもしれない。

「で……名前かあ」

 恵美は考えた。名前を付けるなど、したこともなかった。

 しばらく考えると、ふっと心に浮かんだ言葉があった。

「フュリー!」

 恵美は青々としたエアプランツに向かって呼んだ。

「よし! 君は今日からフュリーだ! よろしくね」

 恵美は笑顔になった。

 29才の悩みや焦りは、すぐには解決するものでは無いが、こうして名の付いたエアプランツの世話をしようと考えていたら、不安やもやもやは、もう消えていた。

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