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あいまいな喪失*私は何者なのか

ちょっと落ち込んでいる。

大学院の授業の中で
特にカウンセリング場面では
「今までのやり方を捨ててください」
指摘される。

授業の中で先生に
「あなたは社会人だからね」と言われるのがどういう意味なのか計りかねる。

社会人である前に私は私であるわけなのだけど
そしてちゃんと入試も受けて学費も払ってる学生なのだけど
「社会人」を強調されると
その評価は「一般的な社会人」としての指摘なのか
「私固有の癖」としての指摘なのか
どっちなんだい、ええ!?みたいなちょっと反抗的な気持ちにもなり。

でも小心者だから言えないので、ここで呟いているわけなのだけど。

そして、何とまだオンラインなのである。
オンラインだから、先生の指摘のニュアンスも、同級生とのやり取りも
どこかガラス越しなのである。

どうしてもそのガラス越しの真意をはかろうとしてしまうので
疲れる。

同級生と愚痴を言い合える関係になれればいいけど、
ちゃんと会う前にこんなに「社会人」を強調されたら
友達になれないじゃないか、なんかお互い気を遣うじゃないか!
みたいな、女子高生的な気持ちにもなってしまう。

学生を枠付けするやり方はどうなのか。
「社会人だから」って「男だから」「女だから」と同じじゃないか。(言い過ぎ?)
でもまぁ、私が学生らしさ(謙虚さ?)が足りないのかもしれず。

この微妙な落ち込みはなんなのか、
なんだかずっとモヤモヤしている。

そんな私が今
「あ〜なるほどな」と思う考え方がひとつある。
多分、このコロナの状況ともリンクしている。

それが「あいまいな喪失」という考え方だ。

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「あいまいな喪失」は災害後(特に東日本大震災で)の心理支援として有名になった。
元々はアメリカのポーリン・ボス博士が提唱した理論で、「あいまいな喪失」は喪失そのものが確証できない喪失であり、「はっきりしないまま、解決することも、終結することもない喪失」であり「喪失自体があいまい」でそもそも解決できない状況にどう向き合うかというもの。である。

あいまいな喪失には2種類ある。
①身体的(物理的)には存在していないが、心理的には存在している状態(サヨナラのない別れ)
→行方不明、家出失踪や災害後に身体が見つからない状況、より身近には転勤、異動など
②身体的(物理的)には存在しているが、心理的には存在しない状態(別れのないサヨナラ)
→認知症や昏睡状態、病気により人格が変わってしまったもの。より身近には、ワーカホリックな父など

東日本大震災で故郷を失った人たちは、捉え方により①タイプとも②タイプとも取れるらしい。
故郷は変わり果ててしまったが、自分の心にはある…となればタイプ①
そこに故郷はあるのに、これまでと違う…となっていれば、タイプ②

「あいまいな喪失」では、決定的な喪失と違って一見すると軽く捉えがちだけど、
このあいまいさゆえに「悲嘆が正常に進む」ことを妨げてしまう。
一縷の望みがある、とか、◯◯があるだけいい、とかそういう風に考えてしまうことで実際には傷ついていてもそれを正常に扱えない。それが強いストレス反応を起こす。

例えば、私が思うには、「卒業」という場面で「卒業式」を行うことはきちんと”別れの作業(喪の作業)”を行うことであり、きちんと卒業の悲しみを取り扱い一旦リセットする大事な作業である。
ここでしっかり悲しみを取り扱うことが大事なのだ。

コロナの状況を振り返ると、この「あいまいさ」に振り回された気がする。
決定的な出来事や終息の見通しなどがわからない…
緊急事態宣言でこれまでの日常が急に変わってしまって
「そこに街はあるけど」「自分の知ってる街じゃない」みたいな
「別れのないサヨナラ」を経験したような気がする。

例えば、部活動の大会がなくなってしまったのも、あいまいな喪失だと思う。
その部活ができないわけではない。でも目標はなくなってしまった。誰のせいでもない。
まさしくタイプ②なのではないかと思う。

こういう時に大事なポイント
①これは「あいまいな喪失」であると認識すること
②両価的な考え方をすること(AでもありBでもある)
③責任は外にあるのだ!と思って自分を責めないこと
④新しい愛着の形を見つけること

応用編としてこんな感じ。

①私は社会人というアイデンティティーの「あいまいな喪失」の場面にいる。
②私は社会人でもあり、学生でもある。(無理にどちらかになろうとしなくて良い。)
③コロナで入学式が行われてないし、ほとんど学校行けてないから、学生としてのアイデンティティーが適切に獲得できてない。
 でも、それは私の責任ではない笑
④今あるものに目を向ける。今持っているものに目を向ける。

こうして考えると、私はコロナの状況も相まって
アイデンティティーのあいまいな喪失と新しいアイデンティティーの獲得がうまくできない
只中にいる。らしい。
このあいまいさが不安の元なのかもしれない。
コロナで社会人として送別会もできなかったしね笑
入学式もできなかったしね。まだ、学校行けないしね。
ここまで、めっちゃ真面目に取り組んできたけど、ちょっと疲れた笑

「あいまいな喪失」の特徴は以下の通り

・あいまいな喪失はその喪失を確証できない喪失である。(例えば、災害等で家族が行方不明の場合、生存していることがわかるか確実に亡くなったことがわからない限り、生死を客観的に証明不可能な状態。また、家族が認知症になった場合、身体は生きているけれど、”これまでのその家族と異なってしまった”という意味で喪失と言える) 

・終結が不確実であること(その状態にいつ結論が出るのか、解決するのかは誰にもわからない。行方不明者は見つかるかどうか誰にもわからず、認知症の場合にも治るという期待を持つことが難しい)

これらは、愛する人だけではなく、ペット、家屋や畑、住み慣れた土地などの対象物も含まれる。(原発事故で住んでいたところは存在はするのに、実際には住めなくなってしまったような場合)      

以上ここまでの記事は全て

「あいまいな喪失と家族のレジリエンス 災害支援の新しいアプローチ」黒川雅代子他 誠信書房 

を参考に私見として書きました。

もちろん一般的には災害ケアに用いられる理論であり、程度の差は全く違うので、この理論をこの状況に当てはめたのは私の全くな勝手な理解です。でも、コロナの状況で起きてくる落ち込みも、私の今のような状況もこの理論で捉えることで、少しヒントにもできるのかなと。

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