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生きてることが重なり合うということは、奇跡やとナチュラルに思う。

大学時代後半のメインの生息地は、図書館の地下3階の一番はしっこの席だった。

そこで自分は、思想や哲学系の本を読み漁っていた。ゼミでは東洋の政治思想を研究するゼミに入り、近代朝鮮の思想を勉強したり、個人的に思想家の本などをわからないなりに読んでいた。

そこで読む本は、時代も違うし、問題意識も違う。既に歴史が確定した現在からその時代を見るのではなく、まだどうなるかわからないものとして、その時代に身をおくようにして読まなければ、読めない。それは思想家においても同じ。既に死んでいる人の声を文章から読み取らないといけない。

だから、思想家その人になりきろうとしてたし、近代朝鮮に留学したつもりで本の中に沈滞した。

そういうところに長い時間、身を置いておいていたからか、こっち側に戻ってきたとき、自分は、「今生きている」というだけで、仲間意識を感じるようになっていた。

ふつうに会える可能性があって、肉声が聞けて、この今の時代の空気を一緒に感じるというだけで。

自分が長い間対話してきた相手はほとんどこの世にはいない。もちろんなんとか生きてる人もいるし、亡くなってる人も多い。自分がよく読んでいた人は、自分が読み始めたほんの2.3年前に亡くなっていた。

生きてることが重なり合うということは、奇跡やとわりとナチュラルに思う。

だからか、長いこの時間軸で、このタイミングで生きてるってだけで、親近感が湧く。

そして、さらにいえば、会ったなんてことになると物凄いことだ。このながい時間軸と、広大な空間の中で、人と人が会うということは物凄いことだ。

その奇跡の出会いに、年齢とか気にしてる場合じゃない。数十年差があっても同じみたいなもんだし、生きてることが重なりあってるだけで、タメみたいなもん。じいさんでも関係ない。

そういう感覚をどこかにもっているからなのか、自分は図々しいらしいところを持っているらしい。

でもこの感覚は嫌いじゃない。

地元が同じだったりしたら、仲良くなるように。

タメだったら急に親近感湧くように。

筋トレしてることがわかったら、筋トレ話に華が咲くように。

生きてるだけで、仲間感が生まれる。

「え、お前今生きてるの?」

「おれも生きてるんだよね!」

「まじか!」

そういって、知らん人と繋がれる。仲良くなる。そんなのも悪くない。

年齢気にしないとか言っておきながら、同世代に色々と先をいかれてるのを悔しいと思う俺。

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