昭和の暮らし:(8)庭と洗濯と縁側

玄関とは反対側、居間と床の間の部屋が並ぶ南側には庭があった。けっこう広くて、庭木などを植える植栽エリアもあった。

庭は、園芸、洗濯と物干し、金魚の水槽の水換え、子供の遊び場などの用途で使われていた。

居間からはセメントで土間のようなポーチのようなものが作られたエリアに降りられるようになっていた。居間と庭の間には木の枠の昭和の模様のガラスが入った引き戸と、重くて動きにくい雨戸がついていた。台風になると、その大きな雨戸戸袋からきしませながら引き出して、閉めていた。

セメントのポーチには洗濯機が置いてあった。
洗浄槽にローラーが2つついていて、洗濯物を絞れるようになっていた。父と母が休日にローラーを何度も修理して使っていたが、ついに壊れた日のことを、なぜか覚えている。
その後、遠心式の脱水機付きの洗濯機を買ったはずだが、二槽式ではなかったような記憶がある。

洗濯をするときに、色柄物を分けたり、汚れの酷いものを分けたりする時代だった。色落ちするからということだったが、お手伝いで洗濯するときに、ちゃんと分けずに放り込んでよく叱られた。

床の間の部屋の外側には縁側があった。木の板を何枚か並べた陽当りのいい縁側だった。家族でスイカを食べたり、足をブラブラさせて日光浴したり、とにかく明るい思い出が多い。
庭に近所の女の子たちが来て、妹と私と、お人形さんごっこをするときには、縁側とその付近を使っていたと思う。
高学年には理科の宿題で、青写真を焼く宿題を縁側でやったのを思い出す。

庭の真ん中あたりは「サラ砂」が取れるので、近所のお友達と砂団子を作った。雑草が生えるので、母が草抜きをしていた。
布団を干したり、洗濯物を干したりするのもその辺りだった。物干し竿は竹製だった。どんな物干し機構だったのか詳細は覚えていない。

庭の奥には植栽エリアがあって、もみじの木と沈丁花の低木のことは印象が強い。いい思い出は、いちごを育てて収穫して食べたことだ。朝「いちごが赤くなってきた」という母の声で庭に降りると、いくつかいちごが赤くなっている。それを母がもいで、お勝手でガラスの器に入れてくれた。牛乳と砂糖をかけて食べて思い出がある。
その他、花壇には、毎年、キキョウ、ユリ、すずらんが咲いたことを覚えている。しその葉っぱを作っていた時期もある。

私が小学校高学年になるころには、父が盆栽を始めた。かなり立派なさつきの木をたくさん育てていた。秋には菊の花が咲いた。
父に連れられて、名古屋城の菊人形を見に行ったのはよく覚えている。菊人形は怖かったが、菊の花はきれいだった。品評会で入賞した菊を見て、父は自分の育てた菊のほうが立派だと言っていたものだ。