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気づきの遍歴 滝がすべてのはじまり

前回、noteをはじめることをお知らせしてみたら、いくつか共感や感想のコメントを直接いただいたりした。まだ「こういう感じで書いていきたいな」という予告のようなものだったけど…  まずはnoteで発信することに何かしら意味があるのだと感じられ、ありがたかった。ギフトだと思う。

さて、これから書いていくことについて、事前に具体的に内容をイメージしていたわけではなかった。「読まれなくてもいいnote」として書く、ターゲットとゴールを意識しないで書く、というスタンスだけは決めたが… 自分でつけていた縛りから解き放たれてワクワクもしている一方で、慣れていなさすぎて手探り状態でもある。

自由だからといって無軌道に書き散らかしていくだけというのは、私の性格上スッキリしない気がしている(わりと秩序が好きなタイプなので)。

自分にとっての真実と感じることを、自分の言葉で書き残しておく。その軸はブラさずに、コンスタントに無理なく自然体でnoteを綴っていけたらいい。となると、まずは何を書いていこうか。

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気づきの遍歴をまとめたい

やっぱり、これまで「自己検閲」で引っかかって表に出さずにしまっておいたものと向き合っていくことからはじめようかな、と思っている。

この自己検閲とは、主に自身のスピリチュアルな体験や気づきに関連することだ。

目に見えないけれども確かに存在するものたち。流れ、エネルギー(個人事業の屋号「Subtle Flow」はこの意味を込めている)。

過去を振り返ると、確実にそれらにサポートされてきたし、たくさんの気づきをもらってきているのに、そのことにちゃんと目を向けてこられなかったかもしれない。対外的な発信の際に「スピリチュアル自己検閲」を続けていたなかで、気づかないうちに意識の奥のほうにしまい込んでしまった記憶も多そうだ。

どの体験が、どんな気づきをもたらし、それがどのようにいまとつながって未来をつくりあげていこうとしているのか

それをいま、あらためて自分自身が理解しておきたい、そのことに感謝したいという気持ちになっている。

とはいえ、時系列に整理するのは難しいかもしれない。思い浮かんだものからバラバラとでも拾い上げて、とりあえず「気づきの遍歴」としてまとめて書いていってみようかと思う。

ちまちまとした段階的なスイッチ

いわゆる「スピリチュアルな目覚め」に至るときというのは、病気や事故、災害、臨死体験など何らか心身に対する大きなインパクトが強制的なスイッチになることが多いといわれているのだが…

私はまったく、そういうタイプではなかった気がする。

20歳から、20年かけての、ごくごくゆるやかな変化。ちまちまとした段階的なスイッチを踏みまくってのイマココ、ようやく強い確信につながってきたという感じ。よくこんなに多種多様なイベントを用意してくれているなあと感心するほど、細かい気づきスイッチの連続だった。一発ドーンと大きなイベントをつくっておくほうが人生のストーリーとしてもシンプルで楽そうなのに、それをしないのが私っぽいといえば、私っぽい気もする。段階的でゆるやかな変化なので、周りの人も気づきにくかったかもしれない。

この段階的なスイッチのなかでも、最も初期に発動して影響を与えていたものが何だったのか考えてみる。

それは、20歳の「滝との出会い」だった。そりゃそうだ、やっぱり滝だ。

滝から人生が切り開かれていく

滝めぐりを趣味として意識しだしたのは、20歳、大学2年生の頃だった。

東京に生まれて、自然とはほぼ無縁の環境で育った。20歳の頃もお酒ばかり飲んでいたし、大学ではろくに勉強もせずにアルバイトに精を出し、あとは愉快な友人たちと何をして遊ぶかしか考えていないフワフワした生活。

そんな私が、なぜかいきなり滝に惹かれるようになる

のちに「滝ガール」として活動をするようになると「どうして滝にハマったんですか?」という定番の問いを何度も投げかけられることになるのだが、正直にいえば「なんでだったんでしょうね?」と、自分のほうが聞きたいくらいだった。幼少期の原体験のような記憶もさして思いあたらないし、わりと脈絡なく、唐突に、気づけば沼にハマっていたという状態なのだ。

(インタビューとしてはストーリーがほしいだろうから、ちゃんと答えを用意するようになったが、本当のところは自分でもいまだ謎である。天の采配もそこに関してはやや雑なシナリオという感じがしなくもない…)

理由はよくわからないままだったが、滝というものが自分のなかに「特別なもの」として置かれるようになった。

それはあまりにもわかりやすく、滝が人生を良い方向に切り開いてくれる感覚があったからだ。

とにかく、滝に行くと気持ちがアガる。ワクワクする

滝の前で私はちょっといつもとキャラが変わってしまうので、友人も面白がってついてきてくれる。自己紹介で「趣味は滝めぐりです」と話すと、ギャップがあるからなのか、なんだかウケもよろしい。滝にいるときに大切なことにひらめいたり、滝にいるときに大切な人から連絡がきたり、ということもなぜかよくあった。就職活動でも滝の話をひたすらしゃべりまくることに決めたことで第一志望の出版社に内定をいただいたのだった。

滝がアンテナを浄化してくれていた

社会人になってからは、仕事もそれなりに忙しくなり、プライベートでも20代なりの賑やかな若者生活を謳歌していたが、定期的に滝にも出かけるようにしていた。旅行の際にはだいたい滝がある場所を選んでいたし、別の用事でドライブしていても地図で滝マークを見つけたら立ち寄ったりしていた。

とはいえ、その頃の滝との向き合い方は、いまと比べたらかなりライトだ。狂ったように日本全国の滝をめぐりだしたのは30歳くらいからで、まだ「滝ガール」として発信活動をしていたわけではないし、滝めぐりの仲間もいなかったし、「滝とは何か」ということも深く考えていなかったはずだ。

それでも、滝とつながり続けていたことが、私にとっては大きかったのだろうと思う。

日頃の都会生活がどんなにせわしなく、俗世のあれやこれやにまみれていたとしても、定期的に滝に行くことによって、心身が自然と浄化され、本来の魂とつながりやすい状況がつくれていたのではないだろうか。かろうじて。

もともとカンは鋭いほうではあったし、その直感にも従っていくタイプだったのだが、それをもっと促進するように、滝はアンテナのクリーニングの役割をしてくれていたのかもしれない。

人生の大きな岐路に来た時にきちんと間違わずに判断できるように。

鍵を持っている人に出会ったなら、それとハッキリわかるように。

そのように魂の感度を上げてくれていたのは、たぶん滝だったのだと思う。

こうして振り返ってみると「気づきの遍歴」という意味において、そもそも滝という存在がいかに大きいものだったか気づかされる。いや、わかっていたつもりだったけど… 私にとっては滝がすべてのはじまりだった。

そして、私はいま、「滝のように生きる」をモットーに掲げている。滝に導かれているうちに、もはや滝になりたい、とまで思うようになってしまったのだ。森の奥の小さなせせらぎが、長い時間をかけていずれ水を集めて大きな川となっていく。そんなイメージが湧いてくる。

滝にまつわる私のスピリチュアルな体験についてはおいおい書いていくかもしれないが…

まずはあらためて、20歳の私を滝に出会わせてくれた宇宙の采配(ちょっと強引だったけど)に感謝したいと思う。

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前回のnoteを書いてから、この滝と向き合ったらまたいつもと違うメッセージを受け取った

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