そうしてゴドーと猫は旅に出たのだった。

     01
 黒猫が車に轢かれそうになっていたので助けたら喋った。嘘じゃない。
「ありがとな」
「はあ、はあ、……はぁ?」
「俺な、あのな、名前あるんよ」
「うん……はあ、うん」
「せっかくやで覚えてほしいんやけど……。ええか? いくで? エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー……」
「長い!」
 こちとら遅刻回避のために自転車ガチ漕ぎしてた上に迫りくる軽トラからネコを助けて息も絶え絶えなのだ。そんな息継ぎが何度も必要になるような名前は願い下げ。もっと簡略化してくれないと無理。ぼくは黒猫の、眉間だけが白く禿ているところを睨みつけて
「エルヴィーンでいいだろ」
「いやもっとちゃんと全部」
「エルヴィーン!」
「……しゃあないな」
 エルヴィーンがしぶしぶ了承したのを見届けてぼくは倒れた自転車を起こす。
「じゃあぼく学校行くから。エルヴィーン達者でな」
「ああちょっと待って」
「何? 急いでんだけど」
「遅刻やろ?」
「分かってんならとめるなよ」
「大丈夫大丈夫、俺がどうにかしたるって言っとんのやからあおあおあおあぉああああぉぉぉぉおおぉおおおおおええぇぇぇええええいじじじじじじじじじじじじじじじじじ

 じ。

 手のひらに確かな感覚。沈黙した目覚まし時計を確認すると朝六時で、ならもう一寝入りできると思い、寝返りをうったらぎゃっ、と声がした。
 薄目を開けると猫がカーペットの上で伸びている。黒くて、眉間に白いはげがあった。
 目が合う。
 黒猫は喋った。
「朝やで」

     02
 だんだんとぼくは夢の中の記憶を回復させていった。この点こそがこの夢と普通の夢との相違点だろう。時間が経つほど夢は忘れ去られるけれど、この奇妙な正夢はどんどん記憶の中に定着していく。
 朝食を食べ終え家を出るころには、それは半ば確かな過去の出来事になっていた。
 ぼくは自転車を回す。エルヴィーンはいない。色々と訊きたいこととか話すべきことがあるからと思って一緒に学校まで行くことを申し出たけれど、カバンの口を開けて示したとたん彼は抵抗した。
「ぬいぐるみやないんやで……」
 彼は呆れた、というふうだった。
 一方ぼくには疑問が募る。
「……まあ、遅刻しなくてすんだからいいけど」
 つぶやいて、ぼくは自転車を止めた。別に信号があるとか、いきなり川が氾濫したとかいうわけじゃない。目の前にあるのは要塞街――いわゆるゲーテッド・コミュニティの中央門。格子状の中に枝か何かをモチーフにとった飾りがついている。いかにもこじゃれた西洋風という感じで、それはこの鉄柵に囲まれたゲーテッド・コミュニティ内に立ち並ぶ家々と意匠を同じくしていた。一見一つのまとまった建造物にも見えるほど統一された家々や、周りを取り囲む鉄柵塀に、これらが造られ始めたときはとてもどきどきさせられた。ここにはきっと、外国のお姫様とかそういった類のひとたちが住んでいるんだ、と。もちろん歳をとってここに住んでいるのはただの一般人だと分かったけれど、お姫様が住んでいるという一点においては、あながち間違いとも言いきれなかった。
 まだ彼女が出て来るまでには時間がある。ぼくはそれまでに、今日はどんなことを喋ろうかと思いめぐらせた。現在筆頭に挙がっているのが、エルヴィーンのこと。あの黒いネコと不思議な現象に関することなら、彼女は面白がって食いつくに違いない。だいたい彼女はネコが好きだし、家でも飼っていると聞いている。
 ぼくにとってのお姫様。
 山科(やましな)かえでのことを、ぼくは待った。

     03
 待っていた。けれどめちゃくちゃ遅かった。周りにはぼくと同じような、ゲーテッド・コミュニティに友人をもつ児童や中高生がわんさと集まってしまっていた。時間が遅くなるとこういうふうになってしまうから、ぼくらは早めに待ち合わせをしていた。彼女が遅れるなんてめったになくて、ぼくが自転車を回してここまでやってくると、三つ編みを二つ結んだ彼女が門の前で待っている、なんてこともままあったのだけれど。……
 ぼくは時計を確認した。
 朝のHRが始まるまであまり余裕がない。まわりにいた出待ち達も次第にはけていく。
 ぼくは心配になる一方で、すこし嬉しいような気持にもなった。時間が遅くなるのも悪いことばかりではないのだ。ぎりぎりになれば彼女も急いで、普段絶対にさせてくれない二人乗りを了承する。このあたりは坂が多くて危ないけれど、しかし二人乗りの青春らしさとその危険性は比べるべくもないわけで、にやにやしていたら、門から駆け出してきた黒猫と目があった。
 眉間にある、特徴的な白いハゲ。
 エルヴィーンだと思った。
 同時に後方から、ブレーキの音。
 エルヴィーンは四つの足を止めていた。
 けれど。
「だめ!」
 追いかけてきたのだった。彼女は心優しいことに、この黒くて眉間のハゲたネコを助けるために、ローファーの底をすり減らして駆けてきたのだ。そしてそのまま勢いを殺しきれず、小刻みにステップでも踏むみたいに、道路に身を躍らせた。
 ぼくは一歩も動けなかった。
 ネコを助けたときあれだけ動いた足が、肝心なときにかぎって動かなかった。その動かない間を、時間はひどくゆっくりと過ぎて行った。いちいちぼくに、動かなくっていいんですか? いいんですよね? と念を押してくるみたいだった。そのくせ、動きたいと選択肢を選ぶと、強制的にカーソルを逆位置へとずらしてくる。
 そして彼女は弾け飛んだ。
 五メートルくらい吹っ飛んで、背中からコンクリートに落ちた。
 カバンの中身が道路に散乱していた。
 ぷあああああと、ばかみたいにクラクションが鳴り続けた。

     04
 命に別状はありません。
 そんな言葉は、ドラマを安っぽくするためだけに存在するものだとばかり思い込んでいた。けれど扉を通した先の部屋からは、そんな言葉が聞こえてきて、山科かえでの両親が安堵の息を漏らすのが分かった。
 ぼくも少しだけ安心した。
 けれどそれも、時間が経って、山科かえでの病室に入れてもらうまでのことだった。
 病室の彼女は、脚を吊り、腕を厳重に固められ、そして頭に傷を負ったためか、長かった髪の毛を切られてしまっていた。ほかにも細かい傷をたくさん作っていた。
 山科かえではぼくを認めるなり泣き出した。
「痛かったよ」
 山科かえでの両親は気を利かせて、ぼくらを二人にしてくれた。ぼくはベッドのそばにあるスツールに座って、山科かえでの自由な方の手を握った。
 ぼくらはそれから事故のことや学校のことや、そのほかたわいもないことを喋った。事故が起きる直前までに用意しておいた話は、とてもじゃないけれど話せなかった。
 この会話の中で分かったのは、山科かえでは事故のときぼくがすぐ近くにいたのを知らないということだった。おそらく事故の衝撃で、事故前後の記憶があいまいになっているのだろう。何故黒猫を追いかけていたのかと聞くと
「あのネコ、うちの子なの」
「あの黒い、眉間がハゲてるやつ?」
「は、ハゲじゃないよ、ちょっと色素が薄くなってるだけで……」
「ごめん」
「ううん……。なんかね、朝起きたらいなくなっててね、家ネコだから、外なんて出たら危ないし、気になって探してて」
「追いかけたら、ってこと」
「うん」
 ぼくはもう、ほとんど泣きそうだった。半分予測して、でも必死で否定してきたことが、真実として暴かれてしまった。つまり、山科かえでは気付いていないけれど、この事故が起きたのはぼくのせいだ。ぼくがむやみに時間を戻したりしなければ、このようなことは起きなかったわけでしょう? おとなしく遅刻しておけば山科かえではこんな怪我を負わなくって済んだわけでしょう?
 山科かえでは言った。
「髪型、変じゃないかな」
 その上目遣いはすごく不安そうで、声も震えていた。ぼくはなんとかして彼女を安心させたかった。だから彼女の髪に指を入れようとしたのだけれど、やめた。そんな資格はぼくにあるはずがない。そのまま振り返って、病室から出ようとした。山科かえでは「待って」と言った。ぼくは「待っててね」と返した。
 病院を出るとエルヴィーンがいた。
 ぼくはその首根っこを掴んで持ち上げた。
 エルヴィーンは気まずそうな顔をしていた。
「なにゃ」
「ネコのふりすんな」
「噛んだだけやわ、あほ」
「山科かえでが怪我した。理由とか、色々あるけど、エルヴィーンは分かってるよな全部。……これから何するかってことも」
 エルヴィーンがくりくりした目で見返してくる。
 ぼくは宣言した。
「時間を戻すぞおおおあああおおおあえああえあえあえあえあえああああえあえあああああああああいんだだだだだだだっだんだだだんだん

 だ。

     05
「要するに、明日の朝までにエルヴィーンが山科かえでの家に帰ってればいいわけだろ」
「やろな」
 ぼくとエルヴィーンは夜道を自転車で走っていた。エルヴィーンは中にタオルを敷いたカバンのなかにおとなしく収まっている。
 今回の事故は、ぼくが時間をさかのぼったことに起因している。そしてその遡行により、エルヴィーンはぼくの目覚ましが鳴るときまで、ぼくの部屋にいることになった。どうやらエルヴィーンは単独での時間遡行は行えないらしく、そして時間遡行を共にするものの時空へと飛んでしまうらしい。
 だから、遡行を行っていない一番初めの世界で、朝になってゲーテッド・コミュニティの中をうろついていたエルヴィーンは、一回目の遡行によって朝までぼくの家にいる羽目になり、そして今回の遡行によって、この深夜の時点でぼくと行動をともにしている。ぼくのいる空間に飛ばされたせいで、この世界におけるエルヴィーンの過去の行動に何らかの変化が起きるのではないかとも思ったが、そこら辺はエルヴィーンも分からないらしい。今まで特別に、何か不具合が起きることはなかったのだと。
「事故とか……起こると思わなんだ」
「ぼくも」
 ぼくらが目指すのは、遡行もなにも行っていない最初の世界に全てを回復させること。そしてそのためには、エルヴィーンが山科かえでの家に帰っていないといけない。
 自転車を漕ぐ。
「なあエルヴィーン」
「なんや」
「なんでエルヴィーンは山科かえでの家から出ていこうと思ったわけ?」
「……別に、あいつの家から出たかったわけやない」
「じゃあ」
 そのとき段差を越えて、自転車が軽く跳ねる。
「じゃあ、なんで?」
「閉じ込められるのがいややったで」
「閉じ込められる?」
 エルヴィーンはカバンの中に身を潜めて
「どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している……。あの娘がきてな、スーと持ち上げられてなんだかフワフワしとったうちにあの柵の中、あの家やったわ」
「ふぅん」
「あの家は好きやけど、柵の中はあんま好きやない」
「ごめんな」
「ええんやで」
 いくらか時間がかかって、ぼくらはゲーテッド・コミュニティまでたどり着いた。
 ゲーテッド・コミュニティは一辺が二百メートルくらいの正方形だ。その南側にメインの中央門、東側に小さな予備門がある。西側と北側は門がない。代わりに監視カメラがあるけれど、少なくとも守衛のおっさんに視認されることはないだろう。
 ぼくは西側の壁に自転車を停める。カバンからエルヴィーンを引っこ抜いて、鉄柵の隙間に頭を押し付けた。人の身体には狭すぎる鉄柵も、猫ならいとも簡単に通り抜けられる。と思ったからだったのだが
「ちょ、いたいいたい、やめえっ!」
「ごめん」
「上から入れてくれればええて」
 玉入れの要領で、ぼくはエルヴィーンを投げ入れた。エルヴィーンは軽く飛んで、柵のあちら側にふわりと着地した。
 振り返る。
「ありがとな」
「うん。じゃあ、ちゃんと帰れよ」
「わかっとる」
 エルヴィーンは首を軽く振って、生け垣に頭を突っ込んだ。続けて前足が消え、腹が消え、お尻が生け垣に消える。最後にしっぽが消えて、完全にエルヴィーンはあちら側に行ってしまった。
 これでぼくにできることは終わり。あとはエルヴィーンが無事に帰ってくれることを祈るだけだ。
 自転車にまたがり、ぼくはゲーテッド・コミュニティを後にしようとしたのだけれど、なぜかエルヴィーンの声がした。
「待ちん! 待ちんさい! 待って!」
 エルヴィーンは生け垣と鉄柵の隙間で体を削りながら走ってきた。
「いかん、ハゲが増えるわ」
「……どうしたの」
「分からん」
「は?」
「家が分からん」

     06
 どういうことか訊いた。そしたら、家がみんな同じに見えて分からないと言う。
「分かんないって、柵の向こうはエルヴィーンの庭だろ?」
「箱ではあるが庭ではあらへん」
「ええ……そうだ、エルヴィーン、表札読めないの?」
「いやあ俺、文盲やもん」
「そんな言葉知ってるくせに、山科の字も読めないのかよ」
「だいたい表札って高いところにあって首疲れるんよな」
「そんな……」
「やでついてきて。な?」
「ついていくって……」
 ぼくは柵を観察した。膝くらいまでレンガが積まれていて、そこから上が鉄柵になっている。鉄柵の最上部は先端を尖らせたデザインで、槍が上を向いているかのようだった。もちろん本物ではないから串刺しになることはないだろうけれど、これを乗り越えるのは難しい。乗り越えられたとしても、その上生け垣も越えなければならない。
 そして一番のネックになるのが
「監視カメラ……」
「それは大丈夫や。俺がしれーっと前横切って、見えんようしたるで」
「本当に?」
「まかせときゃあ」
 ぼくは頷くしかなかった。エルヴィーンが山科かえでの家が分からないというなら、どのみちこの柵は越えなければならない。守衛さんに頼むという手もあるだろうけれど、こんな夜も更けた頃にやってきてネコを届けてくれだなんて、ほとんど両手首をくっつけて差し出すようなものだ。
「じゃあ、頼むよ」
「おう」
 エルヴィーンが走って、監視カメラのそばにある木に登っていく。十分な高さを確保すると、監視カメラに向かって飛び降りた。お腹を打ちながらもレンズの前を身体で覆う。
「はよー」
 エルヴィーンがそう声を上げる。
 しかし、意を決して鉄柵を掴んだとき、低い警報と同時に懐中電灯の明かりが鉄柵の中を走査した。
 ぼくは迷うことなく走った。エルヴィーンが状況を理解できずに騒いでいる。焦るとあいつ、ネコの鳴き声出すんだ、と思った。
 走ったぼくはそのまま角を曲がり、南側の正面門に駆け寄った。勢いそのままに、門の上端を掴み、体を跳ね上げる。エルヴィーンがそうしたようにふわりと着地し、その衝撃の返す刀で、脇にある生け垣の奥に体を埋めた。
 ……こっそりと目だけを、守衛室へと向ける。
 案の定守衛はどこかに電話をかけていた。その表情は不安から解放されたかのような笑顔であり、より具体的に言うならば「監視カメラに異常があったから泥棒か何かかとおもったらネコでしたわはは」という表情だった。守衛は受話器を下ろすと、腰を下ろして棚をいじる。その隙にぼくは、守衛室の前から逃げ出した。
 エルヴィーンと合流すると、彼はすごく興奮した様子だった。
「ふがっ、がっ、ふ、ふんがっ」
「ごめん、でも急がなきゃだったから」
「ふふーっ、ふ、……降ろせ!」
 ぼくが降ろすなり、エルヴィーンはお餅が伸びるみたいな走り方で走っていった。そしてとある家の、ポストの下に隠れた。
「エルヴィー……あ」
 ぼくはそのポストにかかったローマ字の下げ看板を読んだ。
 YAMASHINA
 ここだ。

     07
 山科かえでの家には、以前一度だけ来たことがある。二階建ての、庭と駐車場付きの家だった。周りの家がそうであるように西洋風で、これはゲーテッド・コミュニティであるがゆえなのだろうけれど、隣の家との塀が無い。生け垣と芝生で緩やかに繋がっており、アメリカの家みたいだと思った覚えがある。
 今いるのも、まさにそこ。ただ前に来たときは夕方に帰ってしまったため、夜の姿は知らない。
 ぼくは庭を崩さないよう、慎重に山科家の敷地を進む。エルヴィーンの話によると、よく風呂場の窓が網戸だけになっているという。人は通り抜けられないけれど、網戸さえ外してしまえば、エルヴィーンならくぐれる。
 ぼくがエルヴィーンを持ち上げると、こんどこそエルヴィーンは帰ることができた。
 暗い風呂場から、ふたつの輝く瞳が見返してくる。
「これで大丈夫だよな?」
「たぶん大丈夫やろ」
 ぼくらは頷きあう。
「じゃあ、またな」
 ぼくはエルヴィーンをおいて、山科家から離れていった。
 手ごろな生け垣を探して、その奥に隠れる。
 最初から分かっていたことだけど、明日の朝になるまで、ぼくはこのゲーテッド・コミュニティから抜け出せない。もう一度守衛の目をかいくぐるなんて無理だ。
 さあ、あと六時間ほど。
 そう自分を励まして、ぼくは夜の闇に融け込んでいった。

     08
 目が覚めた。
 時間を確認すると六時で、これならもう一眠りできるな、と思ったら生け垣の中だった。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 ぼくは生け垣の中で軽く体を起こし、いつここを出るか思案する。できることなら山科かえでと一緒に登校して、無事であることを確認したい。けれど、そのためには一旦家に帰って、制服に着替えて来なければならない。なら急いで帰るか、とも思ったけれど、この格好のまま中央門をくぐるのは難しいだろう。一番簡単なのは、出待ちの多くなる八時前後。
 それまで待っていたら完全に山科かえでと一緒に登校なんてできない。すごく惜しいし、第一、山科かえでを怒らせてしまうだろう。けれどそれもしかたないな、と思った。腹をくくるしかない。
「となると……」
 ぼくは再び生け垣の中で突っ伏した。
「あと二時間だけ……――」

「――……おい」
 と声がかかった。目ぼけ眼を向けると、そこには眉間が白くハゲた黒猫がいた。
「もうかえでは学校行ったぞ」
「ネコが喋った」
「どうや驚いたやろネコが喋るんやでー、って今更かい!」
「のりつっこみだ」
「もう一回言うけどな、かえでは学校行った」
 ぼくはその言葉に時計を確認した。
「ひちじきゅうじゅっぷん、やな」
「しちじよんじゅうごふんって読むんだよ、これ」
「ほーん。へぇー!」
「ねえエルヴィーン、周りに人いる?」
「おらん」
「よし」
 ぼくは立ち上がった。身体や頭についたごみを払った。十分綺麗になったら、胸を張って中央門へと歩いていく。
 守衛は疲れた様子で頬杖をついており、ぼくは小中学生の群れにまざって堂々とそこを抜けていった。
 お腹が空いていたからすぐ近くのコンビニでおにぎりを買って、それからゲーテッド・コミュニティの西側に放置してあった自転車を回収した。またがってたらたら漕いでいくと、一台の軽トラが、車体をがたがたいわせながらも通り過ぎて行った。
 これで誰も傷つかなかったんだな。
 そう思った。

     09
 だれもが傷つかないわけじゃあなかった。家に帰るとお母さんが物凄い形相でぼくを睨んだ。そりゃそうだ。朝帰りなのだから。
 ぼくはこんこんと説教を喰らったのち、おしりを蹴られるようにして学校へと送り出された。家を出た時点でもう九時を優に回っていて、ゆっくり行って二時間目から参加しようと思った。
 古本屋で立ち読みしているときにメールが入った。山科かえでからだった。
『どうしたの? 風邪?』
『ううん、ちょっといろいろあって遅刻。心配してくれてありがとう。それとごめん、今日、一緒に登校できなくって』
『どういたしまして。連絡くれればよかったのに。……ずっと待ってたんだよ』
 そのメールを受けてぼくははっとした。たしかに、メールを入れておけばよかった。そうすれば、山科かえでを無駄に待たせることはなかったのに。
『ほんとにごめん』
『本気で謝ってる?笑 学校来たら、ちゃんと話してね』
 まるで浮気を疑ってるみたいだった。たしかに朝帰りという点においては当たらずも遠からずである。
 ぼくは携帯をポケットにしまうと、漫画の続きを読み始めた。

「待ったよ」
 といって彼女はお弁当箱の包みに手をかけた。一方ぼくは、お母さんがお弁当を用意してくれなかったのでまたコンビニのおにぎりだった。
「それで、いろいろあって、ってなに?」
「うん、それね……」
 と言いつつぼくは困ってしまった。今日という長い日を説明しようとすると、どうしても多くの言葉が必要になる。適当に要約するにしても、まさかきみが軽トラにはねられてしまったからぼくは遅刻したんだ、なんて言えない。
 だからぼくは考えに考えて、このお話の原因と結果を繋ぎ合わせて
「遅刻したから、遅刻した」
 山科かえではぽかんとした顔になった。
「ん? ……ん?」
「うわこれじゃトートロジーだ、なんでだろう。いや、でもこれ、ちょっとトートロジーと違うんだよ」
「違うって、どう違うの?」
 山科かえではお弁当の包みを開ける手も止めてぼくの話に前かがみになった。ぼくはしめたと思った。「だからね、例えばね……」
 その冒険譚を話し終えると、彼女はちょっと感心したような表情だった。
「それ、夢かなにかのお話?」
「うん……? まあ、そんなところ?」
「けどすごいね、そんなお話よく思いついたね」
「でしょ」
「からあげ一個あげる」
「やった」
 ぼくは山科かえでの箸先につままれたから揚げに食いついた。ぼくがあまりに嬉しそうにするからか、山科かえでもちょっとだけ、口の端っこに笑みが漏れていた。
 ぼくはそれを見て、さらに嬉しくなった。やっぱり山科かえでは、悲しげな顔をしているより、笑っている方がいい。
 けれどそんなことを思ったとたん、彼女はその笑みをすぼめて、悲しげな顔をしてしまった。
 驚いた。
「……どうかした?」
「ううん、なんていうかね、よく考えたらなんだけどね」
「うん」
「今の話、ちょっと悲しいね」
 え?
 ぼくはぽかんとして山科かえでを見返す。
「え、でも男の子は頑張って女の子を助けられたじゃん?」
「うん、そうだけど、男の子は女の子を助けたけどね」
 ぼくは分からなかった。何がそんなに、彼女を悲しくさせているのか。今のぼくの選択が、彼女にとっては正解じゃないのだろうか? ぼくがすべて出し切って出したはずの答えが、間違っている?
 山科かえでは箸を置いて言った。
「タイムリープっていろいろあるでしょ? そのお話が、過去を修正して、それで本当に世界がいい方向に進んでるならいいよ。でも」
「でも?」
「……なんていうかさ、いい方向に向かってるのは、この世界だけなんじゃないかなって、思っちゃう」
 ……ぼくにはよく分からなかった。
「どういうこと?」
「なんか変な言い方になっちゃったね、なんていうかね男の子は時間を遡行して過去を変えたって思ってるでしょ。でももしかしたらだけど、遡行するたびに、世界が変わってるんじゃないか、違う世界にいってるだけなんじゃないか? って、わたしは不安になるんだ」
 彼女はちいさく息継ぎをして、その先を続ける。
「で、そんなときさ、男の子は三人の女の子に会ってるんだよ、実は。最初の遅刻で待たせちゃってるはずの女の子も、一回目の遡行世界で怪我しちゃった女の子も、それから二回目の遡行世界で守れた女の子も、同じに見えるけれど、存在する世界は違うの。だから、男の子はたしかに女の子を助けたけれど、怪我しちゃった女の子は、まだ一回目の遡行世界で、病院のベッドの上で、すごく不安なんじゃないかな」
 ぼくははっとした。
 そして思い浮かべたのだった。
 あのときぼくの背中に「待って」とか細い声ですがった彼女。
 もう三つ編みを編めない彼女。
 あの白い病室で一人不安でいる彼女。
 ぼくが本当に守りたかったのは、そんな彼女だ。
「それでもしね、もしだよ? もしわたしがそのお話のヒロインだったら、わたしはきみにね、戻ってって言うよ。
 一番不安で仕方がないのは、きみの守れなかったわたしだから、だから守ろうとなんてしなくっていいからさ、ずっと一緒にいて」
 最後に彼女は、すこしだけ照れくさそうにして言った。
「……わたし、ベリーショート似合うかな?」

     10
 学校を抜け出すと、校門前にエルヴィーンがいた。
「なんかな、来た方がええかと思って」
「その通りだよ、エルヴィーン」
「じゃあ飛ぶんか?」
「うん」
 エルヴィーンは素直に、ぼくの腕に抱かれた。
「よっしゃ、行くでおおおおおおおおおおあおああおあおあああああああうあうあえあえええええええるううううううううううううううううううららっららあら ら らら  ららら

 ら。

     11
 どこかに吸い込まれるような感覚の中、ぼくは色んなことを考えた。彼女にどう伝えるか。彼女の不安をどう拭い去るか。彼女をどう笑わせるか。いろんなことを考えて、けれどそのどれもに「彼女の」という言葉がくっ付いていた。
 とりあえず最初に言っておこう。
 ぼくはベリーショートになったきみも大好きだ。
 その次にしっかり謝るのだ。
 待たせてばっかりでごめんなさい。
 その上で今までのお話を聞かせよう。
 ぼくが話すにはちょっとこんがらがりすぎているけれど、そのなかで彼女が少しでも笑ってくれればそれでいい。
 ずっと待っていた彼女には、笑っていてもらいたかった。
 そうだ。いつだって彼女のためだった。
 そうしてぼくとエルヴィーンは、待ちわびる彼女のために旅にでたのだった。

 おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?