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京大卒の考える Q1.世の中は才能か、努力か。【A.才能】

今回は、才能と努力というありがちなテーマについて深掘りして、人生を幸せに生きるための考え方を示していきたいと思います。

「世の中は才能か、努力か。」
こんな問いをよく聞きます。
これに対して、私は迷わず「才能だ」と答えます。
だけど、「"人生は"才能か、努力か。」という問いであれば、
迷わず「努力だ」と答えます。
この答えの違いには、努力と才能についての考察、人生の捉え方が関係してきます。
その考察について、誰にでもわかるような言葉で、解説をしたいと思います。


憧れの先輩、上司みたいに、いつでも相談できる頼れる人になれるように。芸人のように人を軽快なトークで笑わせられるように。
おしゃれな友達が着ている服を真似して、自分もおしゃれに。
芸能人みたいに。モデルみたいに。あのプロ選手みたいに。
憧れの気持ちを原動力にあれこれ努力してみたけど、上手くいかなかった。自分を見失っていくばかり。そんな経験のある人は、この記事がその悩みの根源をきれいに言語化して、解決する糸口を提供できると思うので、読んでもらえたら嬉しいです。

Q1.世の中は才能か、努力か。 A.才能。

まずはよく問われる問い、「世の中は才能か、努力か」。
これ、意外と人によって答えが違ったりしますが、私は「議論の余地なく、世の中は才能だ」が答えだと思っています。
しかし、私の上司や同僚でも、努力すれば人は変われるっていう人は結構多いです。正確には、才能はもちろんあるけど、決定的な差は生まない、というのが彼らの考え方のようです。

才能という現実から目を背けるな

顔がいい人の方が得する。
面白い人の方が好感度は高まる。
周囲の人間を少し観察するだけでも、この程度は肌感覚でわかります。
さらにわかりやすい例を見てみましょう。

・どれだけ努力をしても藤井聡太のようにはなれない。
・小学生低学年にして新しい数学の定理を証明してしまう天才少年に、ほとんどの小学生はなれない。
・どれだけ努力してもウサインボルトのように早く走れない。

このように極端な例だと、世の中には天才がいる、ということを理解しやすいですね。「世の中には、生まれつきどうにもならないことが必ず存在する」という現実は、こうして誰もが認識しているはずなのに、才能という現実から多くの人が目を逸らすことができているのは、彼ら天才を、テレビの中だけに出てくる「化け物」のように神格化して、同じ人間ではないかのように認知を歪めているからです。その方が気が楽ですからね。
(人間は、群れの外の存在を、別の生き物であるかのように扱いがちです。○○している人は嫌い、と思っていても、それを友達がやっていたらなんか許せたりするし、自分も若かりし頃は何か過ちを犯してしまっているのに、回転寿司で備品をぺろぺろするという過ちを犯してしまった少年を、取り返しがつかないレベルまで叩き、炎上させようとするのが人間です。)

かけ離れた天才の存在は認めるのに、そのグラデーションとして、結構才能がある人、そこそこ才能がある人が当然いることを認められない。これは、才能という不公平で残酷っぽい現実から逃避している状態だと言えます。

藤井聡太らの大天才は、たまたま才能というグラデーションの中の最大値だったから異質なまでの存在になっているだけであり、彼らほど目立ってはいないものの、世の中でそれなりに活躍している人たちは、才能のグラデーションの中でもそれなりの才能を授かっていると考えるのが自然です。

むしろ才能を直視することが希望を生む

こうした現実逃避は、社会の中で多くみられます。頭の中では、どうしようもない才能の存在を理解してはいるものの、それでは”救いがないから”と、無意識的にその考え方を排除して、「世の中は努力でどうにでもなる」という、非論理的な結論に至っています。
ただ、そもそも私は、才能の存在を認めることは、逃避するよりもむしろ救いのあることだと考えています。
なぜなら、才能というどうにもならないものの線引きを明確にすることで、努力でどうにかなるものが浮き彫りになるからです。
この線引きができていれば、どうにもならないものへの無駄な努力を減らし、努力すべき方向に向かってひたむきに努力することができます。

現実逃避し続けるより、現実を直視して、自分の人生で何ができるかを考える方が、よっぽど意味のあることだと思います。

Q2.人生は才能か、努力か。 A.努力。

まず、ここまで議論してきたように、世の中は才能である程度決まってしまいます。

では、人生についてはどうでしょうか。人生とはつまり、あなた自身、私自身の生活です。生まれてより、死ぬまでの過程です。この過程は、才能によって決まるか、努力によって決まるか、どちらでしょうか。

これに対して、「生まれた瞬間に、ボルトよりも早く100m走を走る人生があり得ないことが決まってしまうのだから、人生も才能ではないか」という声も聞こえてきます。これはごもっともです。
ですが、その結論は私の人生にとって全く意味を成しません。なぜなら、私にとっての”人生”とは、自分がどういう人生を送りたいか、もしくは、自分がどのように生きれば幸福感を得られるか、というビジョン、目的に対しての生き様のことであり、そんな私にとって、ボルトよりも早く100mを走ること、なんていうないものねだりは、理想にはなり得ないからです。

この考え方の根底には、「世の中は才能」を直視した思想があります。
そして、それを「◯◯ができない」というネガティブな意味ではなく、持っている才能を手札のように考えて、活かせそうな才能で、且つ興味を持てるものを見つけて、それをうまく使って生きていきたい、ありのままの自分の延長線上の人生を謳歌したい、というポジティブな思考に変換しています。
そう考えると、むしろ、才能によって手札=人生の可能性は大枠決まっているけれど、その手札をどう切って、その枠のうち、どの人生を歩むかは、努力次第で大きく変わると言えるんです。というか、努力でしか変わりません。才能は変えられないのだから。

生きているとよく、自分の身の丈に合わない(才能とのギャップがありすぎる)理想を持って、それが叶わず苦しんでいる人を見かけます。
最たる例は、上司、先輩、有名人への憧れを、自分の目標に投影してしまっている人。
怠惰でしっかりものにはなれそうもないのに、軽快なトークをするのは得意ではないのに、体型や骨格がまるで違うのに、しっかりもので面白く、スタイルも良くおしゃれな憧れのあの人のようになりたい、という気持ち。すっっっごくわかります。僕自身。才能の線引きができるようになるまで、同じようにもがき、迷走してきました。(キャラじゃないボケをかまして、反応に困らせたり。。)

その憧れの感情は決して悪いものではないし、なくす必要はないけれど、ここまで話してきた、才能というものの”残酷さ”を直視して、世界を新しい視点から見つめ直すこと、自分が人生で何ができなくて、何ができるのかをざっくりとでも線引きをすることで、憧れと自分の人生は全く別で、切り離した方が幸せになれるな、ってことが実感できてくるはずです。憧れは、常に自分の人生の可能性の範囲内にあるとは限らず、むしろ可能性の範囲外にありがちだからです。

人生は、努力以外では変えようがありません。才能は生まれた瞬間には決まっていて、手のつけようがありません。もう生まれているのだから、生まれた後にできることを考える以外仕方がない。だから、世の中は才能、だけど人生は努力、なんです。

予告:努力の才能、努力の努力

ここまでのお話は、才能と努力の二元論でしたが、実際には、”努力の才能”という、努力と才能が入り混じったような概念も存在します。イチロー選手なんかは、努力の天才、なんて言われることもありますね。
努力とは何か、ということを深掘りして理解し、「うまく努力する力」を身につけると、人生のあらゆることに役立ち、生きるのがとっても楽になるので、次の記事で解説したいと思います。
(僕自身、自称進学校の公立高校から、京大に、予備校に通わず現役合格できたのは、受験期の間に”うまく努力する力”について磨くことができたからだと思っています。

では。ここまで読んでいただきありがとうございました。

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