小説「巻き戻せないから」

 一週間くらい前に作ったシチューがまだ腐ってなくて美味しかったから、たぶんこれは、何もかも大丈夫だということの示唆だと思う。明日、きーちゃんと別れなくてはいけない。クズだから、捨てなくてはいけない。さゆがそうしろって、カフェで話してても電話でもメッセージでも、あまりにもうるさく言うから、さゆは本来、人に指図するような性格ではないのに、言いづらいことを口を酸っぱくして言ってくれてるんだろうし、親友だし、きーちゃんよりさゆのほうがまともな人間であることは確かなので、さゆの言葉に従ってきーちゃんをフることにした。実は、きーちゃんをフろうとしたのは今回が初めてではない。今まではフッてもまた言いくるめられてしまった。
 『紗雪に指図されたんだろ。あいつ、レズビアンでお前のこと好きなんじゃねーの? だから、俺が邪魔で、俺とお前が別れるよう仕向けるんだろ』
 きーちゃんが思い描いているストーリーは本当であるようにもまるで的外れのようにも思えた。どちらにしても、私はさゆと付き合うことはできない。きーちゃんが好きだからではない。私がさゆを恋愛対象として見れないからだ。
 『なんか、ごめんね』
 私が言うと、きーちゃんは
 『なんかって、なんだよ。わかってねーのに謝ってんなよ、馬鹿女が』
と言って、ふて寝してしまった。本当は私のこと殴りたかったろうに、と思う。きーちゃんは意外と優しいのかもしれない、と錯覚しそうになって、危ないところだった。
 明日、ちゃんときーちゃんをフれるだろうか。きーちゃんと別れてフリーになった途端にもし、さゆに付き合ってほしいと言われたとして、ちゃんと断れるだろうか。後者は杞憂だ。
 私は寝て、翌朝、ドリップコーヒーを淹れて、マグカップに注いで、牛乳を入れて、スプーンでぐるぐる掻き混ぜながら、時を戻す方法について考えていた。たとえば、このマドラーを反時計回りに回したら時を戻せるとして、私はどんな風にやり直したいだろうか。きーちゃんと出会う前に戻りたいだろうか。出会ったあと、ちゃんと愛し合える二人になるよう、関係性を築きなおしたいだろうか。それとも、さゆと……さゆとは特にやり直したいことはなかった。でも、時間は巻き戻らないから、私は、時計回りに、前方に、一方向に進む世界を、自分の手で前方向に向かってまっすぐ倒すことしかできないのだ。ドミノを倒すようにして、斜めに倒れないように、ちゃんと次のステップにつながるように、指先に神経を集中させて、私は私の世界を前へ倒す。
 今日、このあと、喫茶店できーちゃんをフる。なるようになる、ってこれはさゆじゃなくて私の主義だ。きっと、フったら今より幸せになって、あとからたくさん、きーちゃんへの恨みが後出しで湧いてくるんだろうなと思う。ぱちん、と洗脳が解けるようにして。そしたらいっぱい愚痴聞いてね、って喫茶店に向かう道の途中でさゆにメッセージを送った。

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