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【Report】「独裁者」ムガベと「英雄」マンデラの現地の評価比較と、またもひっくり返る正義

ジンバブエに関するレポートもシリーズ化してきた。

今回はアフリカ南部の政治経済の話。元大統領たちの実績・評価の比較から、私の中で正義というものがガラガラっと崩れたという話をさせていただきたい。

ムガベとマンデラ

さてさて、ロバート=ムガベはジンバブエの元大統領である。

ロバート=ムガベ

日本だと高校の世界史か政治経済か現代史あたりでギリギリ出てくる人物で、多くの日本人はよく知らないかもしれない。だが世界では凶悪な独裁者として扱われている。1980年にジンバブエが独立したときからジンバブエのリーダーで、その座を37年に渡って保持した。

今回は時短を図り、話題のChat GPTさんに頼って略歴を紹介する。

Q: ロバートムガベの略歴を教えてください

A: ロバート・ムガベは、1924年2月21日にジンバブエのマシュナランド地方のカトゥマ郡に生まれました。ムガベは、ローデシアと呼ばれていた時代にイギリスの植民地支配に反対する政治活動を始め、1950年代初頭にはジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)の創設メンバーとなりました。

1964年にムガベは、アフリカ民族解放戦線(ZANU)の副議長に就任し、その後、1975年にジンバブエの独立を目指すためのゲリラ戦争を開始しました。1980年にジンバブエがイギリスから独立を果たし、ムガベは初代首相に就任しました。1990年には大統領に就任し、以降、2008年まで務めました。

ムガベ政権は、初期には成功を収めましたが、その後は経済的、政治的、社会的に深刻な問題を抱えるようになりました。ムガベ政権は、反対派に対する弾圧、人権侵害、汚職、経済の混乱などで非難されており、国際社会から批判されました。

2017年には、ムガベ政権は軍によるクーデターによって打倒され、ムガベは大統領を辞任しました。ムガベは、2019年にシンガポールで亡くなりました。

一方、ネルソン=マンデラのことはご存知の方も多いのではないだろうか。

ネルソン=マンデラ

ジンバブエの隣国、南アフリカの元大統領で、アパルトヘイトの撤廃に大きな役割を果たした人物である。黒人のアフリカ民族会議の指導者としてノーベル平和賞を受賞し、その後、南アフリカ黒人発の大統領に選ばれた。

Q: ネルソン・マンデラの略歴を教えてください

A: ネルソン・マンデラは、1918年に南アフリカの東ケープ州に生まれた政治家であり、反アパルトヘイト運動家でした。彼は南アフリカの黒人に対する差別的な政策であるアパルトヘイトに反対し、自由、平等、人権を求める運動の中心人物として活躍しました。

彼は1944年にアフリカ民族会議(ANC)に参加し、1952年にANCの全国キャンペーン指導者に選出されました。彼は1956年に反逆罪で有罪判決を受け、1964年に終身刑の判決を受けて、ロベン島刑務所に投獄されました。彼は27年間の刑期を終え、1990年に釈放されました。

釈放後、マンデラはANCの代表として交渉に臨み、南アフリカの人種差別撤廃と民主化を推進しました。1994年には、南アフリカの初代黒人大統領に選出され、白人と黒人の間の人種的和解を促進するための政策を実施しました。

彼は2004年に政界から引退し、2013年に95歳で亡くなりました。マンデラは、平和と人権の擁護者として、世界中の人々から高い評価を得ています。

Chat GPTさんすごい、、これは物書きの仕事がかなり減る。かなり楽になって素敵であるのと同時に、AIにできないことをしないとなあと身につまされる思いである。

話を戻そう。Chat GPTさんの記述でもわかるように、西洋の世界でこの2人を比較するのであれば、明らかにマンデラの方が”良い人”として扱われる。マンデラはアパルトヘイトや黒人差別の話題には欠かせない人物だし、世界の人権問題のシンボルにまでなっている。

対してムガベは、国際社会からかなり非難轟々である。在任中にハイパーインフレを起こしただけでなく、多くの選挙で側から見たら明らかな不正を行ったり、テレビ局を国営一つにして情報統制を敷いたり、また時にはさまざまな暴力や権力を行使して自分の地位を保った。彼が行ったとされている様々な政治的抑圧は国際倫理やときには国際法に反するものも多く、西洋世界の反感を買うものだったのである。

ジンバブエは不正選挙や蔓延る汚職を理由に人権を侵害し、民主化プロセスを無視したとして欧米からの制裁を受けており、それはムガベ亡き今もムガベの側近たちに対して行われ続けている。これはオフィシャルには経済制裁ではなく個人への制裁であるとされているが、ほぼ経済制裁が存在するように感じる。ここに住んでいると欧米からの輸入品はばかみたいに高く、イギリス以外の欧米への国際便はほぼないに等しい。聞くところによると農作物の輸出に関しても何かしらの制限はかかるようだ。

Land reform program(土地改革)

悪政とされる様々な政策のなかでも、特に、土地改革と訳されるLand Reformは白人の反感を買い、議論を巻き起こした。

Q: ジンバブエの土地改革とはどんなものだったか、ジンバブエの歴史を踏まえて教えてください。

A: ジンバブエの土地改革は、1990年代初頭から2000年代初頭にかけて実施された、白人農場主から土地を没収し、黒人農民に分配する政策です。

ジンバブエは、かつてイギリスの植民地であり、独立後も白人農場主が土地の大部分を所有していました。1990年代に入ると、土地の不公平な分配に対する黒人農民の不満が高まり、政府は土地改革を進めることにしました。

1992年には、政府は「自発的土地移転制度」を導入し、白人農場主に対して自発的に土地を手放すよう要請しました。しかし、この制度は不十分であり、土地の移転は進まず、農民の不満は高まるばかりでした。

2000年、政府は強制的に土地を没収する政策を開始しました。これにより、数千人の白人農場主が所有する土地が没収され、その土地は黒人農民に分配されました。この政策は、多くの国内外からの批判を浴びましたが、政府は土地改革を進めました。

この土地改革により、黒人農民は土地を得ることができ、経済的に自立することができるようになりました。一方で、白人農場主の多くは失業し、政府の土地分配政策に反発するようになりました。

今日、ジンバブエの土地改革により、多くの農地が黒人農民の手に渡り、それに伴って彼らの生活水準が向上したという意見もありますが、農業生産性の低下や外国からの投資の減少など、土地改革による負の影響も指摘されています。

「強制的な土地没収」とあるが、これは当時のドキュメンタリー動画がYouTube上にもたくさん転がっている。

これは白人側を取材して撮影したであろうビデオ。タイトルも”White farmers evicted as deadline for land handover passes”「白人農家たちが引き渡し期限により立ち退きを迫られた」と白人側に寄った内容になっている。これをみると、彼らもジンバブエに長く住んでおり、家が突然なくなるということが痛ましい出来事である、ということを強調して描かれている。

一方で、黒人側を描いたビデオも一定数存在する。

こちらのビデオはタイトルが”Voice from the field”「現場からの声」となっていて、返された土地を彼らがどのように活用しているのかを描いているシリーズ。彼は「1980年にジンバブエは独立したが、それは本当の独立ではなかった:我々は土地を持っていなかった」と語る。「土地を得たことで、メイズを育て、売り、牛を12頭も買えた。牛が飲む水を貯めるようの池まで作ることができた。これができたのは、土地が返ってきたからなんだ」と話す。

白人からしたら、住む場所を突然奪ったムガベ。黒人からしたら、奪われた土地を返してくれたムガベ。ムガベは白人からしたら暴君で、黒人からしたらヒーローなのである。

一方、マンデラは、独立はさせてくれたけれど、土地を返してはくれなかった。そして、南アフリカ共和国ではいまだに黒人と白人の間でものすごい格差もある。ジンバブエは、特にインフレ前までは、南部アフリカ随一の低格差の国だったと言われている。現地の黒人にとって、マンデラはあまり何もしてくれなかった、「そうでもない」指導者なのかもしれない。

この土地改革自体は、経済的な目線から見るとかなり非合理的で、非難される点も多い。特に、かの有名なジンバブエのハイパーインフレーションはこの土地改革が大きな要因とされている。土地改革によって、ジンバブエを支えていた農業の生産ノウハウを持った白人が追い出されてしまい、黒人では農業生産を保つことができなかった。かつて外貨を稼いでいた農業生産が滞り、またほかにも様々な悪手が重なってインフレが進行し、2008年には年率220万%のインフレ率を記録した。

現地人から見たムガベ:独立の英雄

今のジンバブエは、インフレで経済が破綻し、直後は回復に向かうものの、その後長期的には右肩下がりで状況は悪化している。こんな状況でさえ、ジンバブエで仲良くなった50代の女性に話を聞くと、ジンバブエではムガベは”ヒーロー”なのだという。「確かに、最後の方(2000年前後以降を指す)はミスリードが増えたけれど、それでも私たちを解放してくれたのはムガベ」なのだと。

特に、50代より年上の、1980年の独立を実際に見ている人や、その当時の闘争を覚えている人にとっては、ムガベはヒーローであるということも理解できる。私たちのために戦ってくれた人。権利を勝ち取ってくれた人。教育を与えてくれた人なのだ。

当たり前だけれど、この国の歴史は、白人から見たものと真逆なのである。白人世界でもセシルローズは批判される世の中にはなってきたけれど、黒人世界では最初に不平等条約を結ばされたセシルローズが諸悪の根源、くらいに扱われている。私もそこに関してはそりゃそうだ、とは思う。

一方で、若い世代はここのところのジンバブエの状況に嫌気がさしている人も多そう。そういった人はムガベを必ずしも擁護しない気もする。ちなみに、この国で政治の話はタブーな感じがあって、実際に聞くのは難しい。なんと、秘密警察がいて、野党支持の発言をすると連れて行かれてしまう、と言うのが今でもあるらしい。秘密警察はどこにいるのかわからないので、みんな用心して公共の場や大人数の会では絶対に政治のことは口にしない。教えてくれるのはかなりプライベートな空間だけだ。かなりの情報統制を敷いていたことが伺える。

教育者としてのムガベ

ムガベは教育者であったということも支持を得るポイントの一つのようだ。元々教師で、投獄中も含めて多数の学士・修士号を取るなど、博学な印象を受ける。

そして、ムガべ氏のおかげで、ジンバブエでは教育への投資が結構進んでいるということは、皆口を揃えて言う。現在、数値で見ると小学校教育は100%の子どもが卒業している。そして小学校教育はショナ語の授業以外全て英語で行われるので、どんなに貧しい地区の人でも結構ちゃんと英語が話せる。識字率も近隣アフリカ諸国と比べてダントツで高い(少し古い2003年のデータだけれど、15歳以上男性で見たときジンバブエは95%、南アフリカ86%、ボツワナ78.9%、ザンビア79.9%、マラウイ61.8%、モザンビーク46.5%)。

これはムガベが独立後、教育分野に投資してきたからに他ならない。数値で見ると、1980年の独立後、年間予算の20%以上が教育予算に充てられてきたのだという。偏りすぎだと思わなくもないほどの予算が教育にふんだんに使われていたのである。これは間違いなく、ムガベの功績であろうと考えられる。

まとめ

世界では度々暴君扱いを受けるムガベ元大統領。私も日本でジンバブエに関する本を読んだときには「経済崩壊はムガベのせい」みたいな内容だったので、一国の主として全国民を貧困に陥れるなんて、どんなひどいやつなんだ、と思っていた。

だがしかし、ジンバブエに来てみると、その印象が覆された。現地の目線では、なんとなんと、ムガベとマンデラの評価が逆転するのだ。何ということだろうか。

きっとこの周辺の国では、ムガベに対する好印象をもつ貧しい層のアフリカ人が多い。世界でこんなに嫌われているムガベが、まあまあ好かれていて、ジンバブエの英雄として扱われている。対して、マンデラは西洋の世界で言われるほど、人気があるとか、英雄扱いされているというわけではなさそうだ。

私の信じていた世界なんて、正義の片側でしかなかったのである。世界は広いなあと、なんだか感心してしまったまである。

「正義」というのは、人間がいる側で簡単に逆転する。日本では正義を振りかざす文言が飛び交う。「それはおかしい」と、彼/彼女の正義の下に否定したり、「常識的に考えて〜〜だよね」と決めつけたり。私も無意識のうちにやってしまっているかもしれない。

けれど「”常識的に”ムガベは悪いから裁かれるべきだよね」と、この国の人の前で簡単には言えないのである。あなたの正義の念頭にあるのは一体誰の常識なのか、もう一度良く考えてほしいものだと思う。

おまけ:選挙広告

ちなみに、現在はムガベの腹心であったムナンガグワが大統領になっている。来る8月、大統領選挙が行われるため、与党がこんな広告を作っているのを発見した。

ざっとメッセージを意訳すると、”ジンバブエは私のリーダーシップのおかげで、アフリカで2つしかない小麦を自国で賄えている農業国に育った。大豆もメイズも作っている。メイズに至っては20年間もっとも高いレベルの生産量を誇る。テクノロジーを農家に与え、灌漑スキルもある。We did it!”

ということである。さて、8月の大統領選挙はどうなることだろうか?周りに聞いてみると、日本人もジンバブエ人も「まあ与党のまま変わらないんじゃなーい?」というリアクションが多い。さてさて、乞うご期待、である。


▼ジンバブエの国民性と文化の違いについてのレポートはこちら。


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