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一生思い出すだろう

この数ヶ月、まともな文章を書いておりませんでした。投稿しなかったのは、何を書いても全てが気持ちの悪い訳の分からない文章になってしまったからです。

最近諦めがついてきたのかもしれないなと思いました。夢を追う事や、普通の生活、人としての営みのことです。私にはできないのだというより、もう諦めた方がいいかもしれないという諦念です。

ずっと美大藝大に行きたかったのですが、諦めました。厳密に言うと、「諦めよう」と自分に日々声をかけています。使っていた画材やスケッチブックは常に手の届く場所に置いていました。精神を病み使わなくなってからも、自分にはまだ活力とこの好きだという気持ちがあると信じて、手の届くすぐ傍で埃を被せていました。しかし、先月ほど前から完全に引き出しにしまいこんでいる。引き出しのなかに、煙草と一緒にいれている。もう禁煙して一か月以上経ちます。もう目に映ることもないでしょう。

姉に会うたびに、自分がいかにドロップアウトしたのかを見せつけられます。被害妄想的な話ですが、実際には蔑まれたり鋭い言葉をぶつけられたりしたわけではありません。ただ、姉は私とは対照的な人生を歩んでおり、その様は本当に明るいのです。私に気を遣っているところも含めて、心苦しい。

すこし前に、かけがえのない友人とお別れをしました。死別ではありません。永遠の別れと断定されたわけでもありません。ただ、あの人には私がもう必要ないらしいという事。

旧い友達のことを思い出します。どうしてるかな、会いたいなと思います。でも、この惨状を知られたくないので会うことはありません。会っても何も解決しない上に、感情が有耶無耶に、そして揺さぶられるだけでしょう。酒なんか飲めば、私は泣きながら本音を漏らすはずだ。
「またみんなと一緒に歩きたい」と。

たくさんの恩を裏切ってきたのだなと、吐きそうになっては何かを貪り、また吐きそうになります。様々な人から驚かれるほど、私は大学の先生にお世話になっていました。でも、結果としては不登校になって中退が確定しています。会わせる顔がありません。弁明することもできません。泣く権利もありません。あれほど面倒を見て頂いた手前、こんなことを言うのは失礼極まりないのですが、大学になど行かなければ良かったと思います。友達のこと、学費のこと、家族のこと、夢のこと、将来のこと、先生のこと、そして恩義と私の成すべきこと。泣いて解決する年齢ではないにせよ、他の選択をしていれば泣く回数は減っただろうと思わずにはいられない。

何となく憧れるという呪いも、もう消してしまおうと思いました。創作や記述という営みが好きで机の上には常に大量の本が積まれていたのですが、最近片づけました。新しい小説を買うことも無くなりました。過去に拘るのはもうやめようと声が聞こえます。それで納得していたのですが、先日本屋さんに行ったとき、こういう「生活」も失うことになるのかと思いました。
電車賃だけを残して小説を二冊買って、跳ねるように帰った夜のこと。日傘をさして目当ての本を探し歩いた夏の日の古書店街。あの人に教えようと、最後のページを捲った午前五時。

おやすみなさい。

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