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私がバーテンダーになったのは

大人になって幼なじみから聞いたことなのだけれど、「バーテンダーになりたい」と、私は中学生の頃に言っていたらしいです。そんなことはすっかり忘れて、現実とか社会に夢を見なくなった高校二年生の頃の将来の夢は、翻訳家でした。ゲームをするのが楽しいのと同じ感覚で、語学が好きでしょうがなくて、学生時代は語学オタクでした。早起きして朝はラジオ英会話を、夜はBBCを聞く、日記も英語、パソコンの設定も英語で、一番閲覧していたサイトはBBC Learning English、留学から帰って来ると夢は英語と中国語で見るようになりました。アメリカに移住した友人から私にとくれた1998年初版のコリンズコウビルドの英字辞書が宝物で、重いのも気にならないくらい手元にあるだけで幸せな気持ちで毎日学校に持って行っていました。

今でも宝物です。死ぬまで捨てません。
日本語の辞書が面白いように、英語の辞書が面白いこと知って、私は秘密裏に2つの世界を制覇した気分になってました。古い紙のいい匂いがします。

まあ、つまるところ、語学があれば私は生活に十分満足で、本当は将来のことなんかどうでも良かったんです。翻訳家と書いて提出物したのは、私ならいかにも書きそうな職業だと先生が揃って納得するだろうと思ったからです。

やりたい事が分からないから、周りは大学へ行ってそれを見つけるのだろうと思いました。しかし大学を卒業した大人は皆口を揃えて遊んでいたと言います。語学は趣味だし、わざわざ奨学金を借りてまで大学に行くことに、私は全く必要性を感じませんでした。もともと我儘で、親の言うことを簡単に聞く子供ではなかったのもありますが。納得がいくと言うことを聞くのですが、理由がよく分からないままに頭ごなしに何かをやらされるのがどうしても嫌でした。四人兄弟を女手ひとつで育てた母は、お前が一番大変だったと今も言います。

16歳の3月11日。東北大震災がありました。それで、私は「生きる」と「死ぬ」がいかに日常の中で薄皮一枚で繋がっているかを知りました。オッペンハイマーという人の事を本で読んだり、意味はよく分からなかったけれど量子論の本を読んだりして、高校生なりに何かの答えを求めていました。(それは、答えよりと言うよりかは、救いに近かったかもしれません。)震災を機に、亡くなった方を想うと、惰性でたらたらと時間を垂れ流す生き方は出来ないと感じるようになりました。休み時間に、どこのコンビニのパンが一番美味しいかなんて話題で馬鹿みたいに盛り上がっている今も、世界のどこかでは誰かが苦しんだり死んだりしている事実が頭を過ぎると、ビニール袋みたいにペラペラな笑い声をあげる友達に、怒りが込み上げてくるんです。最も彼らは全く悪くないのだけれど、行動や言葉一つひとつに過敏になり過ぎていた私は、怒りとか悲しみとかやるせなさとか理不尽さとか、他の名前も付けられない気持ちのやり場に困って、度々、授業中の誰もいないしんとした図書室に避難するようにしていました。語学だけが私を勉学と繋ぎ止めてくれてはいたけれど、教室という空間が苦手になり、学校という施設も、いつ壊れるかも分からない社会の、曖昧でぼんやりとした人間の集まりとしか思えなくなって、不登校気味になりました。

世界が嫌いで憎らしくて仕方なかったんです。

たくさんの人間が死んだのに、なぜその一週間後には映画館で感動できるの?

そんな簡単に忘れられるものなの?

情報社会の頼りなさに気付いたはずなのに、なぜ変わらず現状に身を委ねられるの?

それって考えることを放棄してるってことだよね?

疑問だらけの毎日が続く中で、「職業」と言う物も、結局は不安定な「社会」において、個人にラベルを貼ってカテゴライズする素材の一種なのだと定義することにしました。人はそうしてそれぞれラベルを貼られて生活をやり過ごすように世の中出来ているんだと、認識しました。この人は教師、この人はファミレスの店長、この人は清掃員……のように。

私はそんな簡単に十把一絡げに片付けられるのなんかごめんだ!と、その反骨精神で周りが何を言おうと大学受験はしませんでした。

しばらくはバイト、バイト、バイトの生活です。何かを新しく知ることが怖くて本はあまり読まなくなりました。考えるとぐちゃぐちゃになるから、バイトと寝るだけの生活にしたんです、気楽でした。けれど同級生は医学部に行ったり教育学部に行ったりして、順調にレールの上を進めている。それに比べると、自分の生き方は世間的にはあまり褒められたもんじゃないなとしばしば思いました。

いつも通り横須賀駅から鎌倉駅行きの電車乗ってバイト先に向かってる時でした。たまたま「学問のススメ」というラジオを聞いていて、石田衣良さんが新しく上梓したシックスティーンについてインタビューを受けていました。「今の16歳の子供たちに伝えたいことはなんですか?」という質問にこんな風に答えていました。

『社会に出たら正社員になった方がいい、派遣なんて四割くらいは覇権会社に給料が持ってかれる、もらえる年金も減ってきているからこれからは将来の為のお金のことも考えたほうが良い……』なんて、子供の時って先生や大人からそんな話を聞かされて勉強してるわけじゃないですか。そりゃあそんな暗い話しばかり聞いていたら、大人になりたくない、社会に出たくないと考えるでしょ。でも僕は、大人になると楽しいことがたくさんあるよって教えてあげたい。就職活動をする、でも続けられなくて辞める、これからどうすればいいのか。そんなのはね、好きなだけ悩んだら良いんですよ。20代のうちはたくさん悩んで、好きなことを思う存分したらいいと思うよ。腰を据えて仕事をし始めるのは、30歳になった時くらいでいいんだよ。僕がそうだったから。僕が20代の頃はレコード屋さんや本屋さんに通ったり、フラフラしてましたよ。だから16歳なんて年齢から、大人の言うままに、暗い将来のことなんて考えなくていいんだよ。考えるのは二十歳になってからでいい。大人は自由で楽しいよと僕はみんなに伝えたいね。

「20代はたくさん悩んで好きなことをしたらいい」その言葉では目からウロコでした。高校の頃から思い詰めて、深層で淀みとなり凝り固まっていた呪縛からその一言で解放されました。私は別に多くの人と同じような生き方をしなくても良いんだと思えるようになりました。「好きなことをしていい」という言葉って、こんなにハッピーになれるんだね。

その半年後くらいに、諸事情で、育った宇都宮に引っ越しました。宇都宮には「泉町」という繁華街があるのですが、小学5年生くらいの時に自転車に乗っていたら道に迷い、誤って入ってしまったことがあります。夜の街です。何人もの真っ黒いスーツの大人が歩きながら皆大きな声で何かを話したり、ゲラゲラ笑ったりしています。夜なのにネオンで明るくて気味が悪かったです。一本ずれて道を奥に入ってしまっただけなので直ぐに出られましたが、とても怖い思いをしたと思いました。同時に、大人の街に皆より早く踏み入れたことでドキドキ興奮していました。

引越し先は宇都宮の中心部の方にしたので、繁華街までは歩いて20分程でした。子供の頃に見たあのカラフルで恐ろしい場所の正体が知りたくなり、私は泉町に入りました。子供の時に来たときよりもだいぶ寂れたなというのが、最初の印象でした。繁華街といえばバーがある、それくらいしかまだ世慣れしていない私は知りませんでした。初めて入ったのは、フードのメニューも沢山ありお酒も安くて朝までやっている人気店でした。私がイメージしていたオーセンティックなバーとは全く違いましたが、朝の5時までやっていたので、すぐ後にバーテンダーになるとほぼ毎日そのお店で飲んで食べて帰っていました。

インターネットで良さげなバーはないかなと探すと、宇都宮には何軒もバーがあったので少し驚きました。普段生活している中で、バーを見かけることは無かったからです。(宇都宮はカクテルの街である事を一年後くらいに知りました。)

その中からヴァルスバーというお店が気になり、場所に迷いながらもなんとか見つけることが出来ました。真っ暗な道にぽつんとあるのです。それがオーセンティックバーとの出会いでもあり、大塚一人さんとの出会いでした。バーでは基本、若い人や一人の女性客はマナーが良いので歓迎されます。意外かと思われるかもしれませんが、一昔前の方々の方が酒癖が悪いひとが多いのです。私の場合もそうで、大塚さんは怖いお顔をされているのですが、私が一人オドオドしているのを見ると、ニコニコと接客して下さりました。その時私は、何度も刑務所を出たり入ったりしている半グレに恋をしていました。出会った経緯はともかく、若さ故か危ない人がカッコ良く見えたのかもしれないですし、はたまた池袋ウエストゲートパーク影響もあったのかもしれません。それが、初恋でした。何を飲みますかと聞かれ、カクテルが分からなかったのでおすすめをお願いしました。マスターが出してくれたのは「ジャックローズ」というカクテルでした。真の愛という意味があるんだよ、とお出ししてくれました。ジャックローズは、リンゴのブランデーをベースにライムジュースと柘榴のリキュールを混ぜたものです。私は父がイラン人で、幼少期はよく柘榴を食べていたので、このカクテルが大好きになりました。冬になるとフレッシュの柘榴で作ってくれるお店もあり、こちらは天に上るほど美味です。ジャックローズが、私の初めてのカクテルになりました。私が好きな人が風邪をひいてしまったから、何を作って持ってお見舞いに行けばいいかみたいな相談をしていたので、このカクテルにしてくれたのでしょう。

その後も、時計屋のアルバイトの傍ら使える貯金が少しあったので、私は色々なバーに通うようになりました。基本的なカクテルやウィスキーを知り始めた頃は、調子に乗って飲みすぎてお店に迷惑をかけてしまったことも沢山ありました。私の人生で最大に尖っていた時代です。黒歴史です。闇に葬り去りたいことも沢山あります。しかしなぜそこまで尖っていたかには、理由がありました。前述の引っ越しの理由が親戚の性犯罪で、私は心がすり減って人生にやけくそになっていました。不眠が酷くなり、夜一人でいるのが恐ろしくて仕方なると、逃げ込むようにバーに駆け込んでいました。

時計屋のアルバイトは身体に鞭を打ってやってました。夜に眠れないので、昼間は起きて仕事に行くがやっとでした。その頃は食べ物は最小限で、殆どお酒の糖分で生命を繋いでました。朝は泣きながら起きて、夜は飲み疲れて眠る。そんな日が続く中で、足繁く通っていたバー武井(武井さんは2023の秋に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。)で、武井さんの代わりにカウンターに立っていたバーテンダーの京介さんが、大会に出るから良かったらおいでよと招待してくださりました。そこまで興味はなかったのですが、たまたま東京へ用事があったので、大会を覗いてみることにしました。関東の大会で、参加人数は四十人はいたと思います。五杯分のショートカクテルを作れるサイズのボストンシェイカーという大きなシェイカーで、各々課題になっているお酒をベースにオリジナルカクテルを作り、味はもちろん、メイキングの所作や、五杯のグラスに均等に注ぐことが出来るかなどを審査されます。良かったら動画を見てみて下さい。

バーテンダーは、友達にも家族にも話せないことを話せる貴重な存在でした。一口にバーテンダーと言っても、お客さんとして一番お世話になったのはそのバー武井の京介さんでした。どこかGACKTのようなミステリアスな雰囲気がある京介さんは、作り笑い……ではなく、カウンターのお客さんの話を聞くのがお上手でした。たわいも無いことばかり話していたはずなのですが、美味しいお酒を飲みながら京介さんと色々お話しした後は、いつも帰り道の夜空が来た時よりも綺麗(ゆらゆら?)でした。彼は優しすぎると言うバーテンダーもいましたが、当時まだ26歳でお店を殆ど任せられ、私のような面倒な客も、何だかんだでお店に入れてくれる不器用な京介さんが私は好きでした。そんな京介さんが見たことないような真剣さでボストンシェイカーを振るっているのを見た時、「ああ、バーテンダーは生き方なんだな」と思いました。大会の後は会場の外でバーテンダー向けにお酒やバーツールなどが売られていました。その中にいい笑顔のバーテンダーが表紙のカクテルブックがありました。表紙の笑顔に釣られてその本を買いました。表紙に写っていたバーテンダーは、バーオーパ(門前仲町)の大槻健二さんという伝説的なバーテンダーで、四十後半でガンで亡くなられています。死期の前にバーテンダーは何を思うのか。そんな事を考えながら、電車の中、大会の緊張感の余韻を感じつつ食い入るように本を読みました。水割りを作る時に何回ステア(混ぜる)するか、同じジンでも種類によって冷蔵か冷凍で分けること、アイリッシュコーヒーへのこだわりなど、大槻さんのレシピを読んでいるうちに、私はなぜこんなにもバーテンダーという仕事を愛していた人の命を奪うのか、なぜこの人だったのかとやるせなくなりました。悲しいというよりは、悔しくなりました。夜に眠れないという事情はありましたが、それとは全く別に、「生きている私たちが大槻さんの遺志を繋がなければいけないんだ。カウンターの向こう側に立ちたい。」と、バーテンダーになることを決めました。厳しい世界なのは知ってる。拘束時間も長いし、お給料も安い。大槻さんのようなバーテンダーになれるかも分からないけれど、私はまだ若いからやってみようと思いました。背中を押してくれたのは、やっぱりあの時の石田衣良さんの言葉でした。「20代のうちはたくさん悩んで、好きなことをやったらいい。」

表紙の写真


そんな折、私は女性の方が経営されているというバーに行きました。スタッフはその女性バーテンダーも含めてアルバイトの男性の2人で、人が足りてないということを聞きました。右腕だった同じく女性のバーテンダーは、お客さんと結婚されて妊娠を機に退職されたそうです。20人は余裕で入れる箱でした。まだ退職届すら出していませんでしたが、私はそのオーナーに「私でもカウンターに立てるのでしょうか?」とお聞きすると、二つ返事で「全然ウチは大歓迎よ!明日からでもお願いしたいわ」と言って下さりました。履歴書すらいらないと言われて、大雑把だなぁと少し驚きました。その仕事の話になるまでに、一通りお酒を飲んみながら会話していたので、私がどんな人間かは何となく分かったのでしょうか。

今は合併してそのお店はありませんが、私は「バーバンビーナ」でバーテンダーとして雇ってもらえることになりました。月収16万で、週6で、18時から夜中のだいたい2時まで。接客や技術はこれから勉強させていただく身です、むしろ多すぎるんじゃないかとすら思った額でした。

かなり長くなってしまいましたが、これが私がバーテンダーになったきっかけです。それでも多くのことを私はバーで学び、沢山の出会いがありました。辛いことの方が多かったはずなのですが、それとは引き換えにならない程の事を学ばせていただき、毎日が充実していました。

残念ながら、今はバーテンダーではありません。理由はかなり親しい人にしか打ち明けていません。本当は今だってバースプーンを掴んでいたいです。いつか笑い話に出来るでしょうか。それとも、またカウンターの向こうに立つことがあるのでしょうか。

未来のことは分かりませんが、今の私があるのは、バーテンダーとして5年カウンターに立っていたからです。

先輩方や関係者の方々には、「台風」、「問題児」とお酒の場の肴にされるくらい多くのご迷惑をおかけしました。しかし何よりも、見放さずに懲りずに、いつも私を叱ってくださってありがとうございました。

バーテンダー時代は毎日がドラマのように濃厚で楽しかったです。働いている時のたくさんのエピソードも、これから一つひとつ小出しにしていこうかと思います。

長かったですが、最後まで読んでくださりありがとうございます!


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