私はいつも惜しみ過ぎる

就職先が決まった。

実家からとても近い会社の事務だ。人事の人は、はきはきとやさしく喋るふくよかな女性で、私の好きなタイプ。電話口の方も丁寧に話して下さる。雰囲気は良さそう。条件はまあ悪くなくて、そこで働くことに決めた。がんばろう、たのしくぼちぼち、とぼんやりおもって、それから、すこし吐きそうになる。

実家に戻る。

実家から出るために、2年ほど前の私がどんなに必死だったか、理解できるのは世界に私しかいない。

なのに、実家に戻る。

ひどい裏切りだ。2年前の私は私を何度殴ってもいい。何度も何度も殴っていい。


円満な家族なんてこの世にそうたくさんないということは、この年になって分からないはずもない。家庭の不和のつらさというのは、その重さの割に万人にありふれている。

だから、そのことについて、さも被害者のように語るというのは、いけない。あんまりに子供っぽい。まだ自分の傷を指さして、「みて!まだ治ってへんねん!」などと叫ぶのはかっこう悪い。

けれどこれは私の日記なので、その事について今回は書く。私は24歳の子供なのだ。


私の短い24年という道のりは、怒りと戦いの道程だったと思う。私はいつも怒っていた。

いつも言われっぱなしの母に。女性を差別して大きな音を出して私達を威嚇する父に。言いたいことを封じられて泣く母を庇わない兄弟に。母に嫌味しか言わない叔母に。会社の従業員に差し入れをした母を怒鳴りつけた祖父に。母から母の父の遺影を取り上げた長男の嫁に。母の不出来を未だに責めたてる母の母に。

まだまだある。足りない。わたしはそのたびに全身が焦げ付くような怒りの中で、戦った。すこしでもなにか良くなるように。ガキは黙ってろと言われて、せめてと母の隣、その手を握った。女のくせに口を効くなと言われて、私は理路整然と正論で父を糾弾し返した。どんどん咆哮のような声になる父が怖くて怖くて私は泣いた。でもその日から飯を食わせてくれなくなったとしてもいい、と怒りは焦げ付いて、私の口は止まらなかった。兄弟達は自室に隠れてちらりとも出てこなかった。

そういう思春期だった。

その後家業を畳むことになり、父は少し穏やかになった。母は強くなり、言いたいことをいえるようになった。兄弟達もちゃんといろんなことを考えていた。

私が家を出て2年経った。

兄弟は大学生になっている。父はすぐ怒鳴らなくなった。母が言ったのだ。怒鳴ると子供たちが逃げるよ。話が出来なくなるよ、と。力関係は逆転していた。


あの日々はなんだったんだろう。

と、最近ずっと虚しい。


今は私が戦ったこと、寄り添ったことが、無かったことになっているのが、わかる。私の必死だった思いは、当時同じように必死だった父や母は、忘れてしまったんだなと、思う。しようがないことだ。

兄弟ばかりずるいと思う。戦いもしなかったくせにのうのうと平和になったあの家で暮らして、と、私は身勝手にそう思う。

うつになったのは仕事のせいじゃない。高校生の時から病院に通っていた。母と父といういきものに両側から体を引かれて、ちぎれそうな痛みの中にいたことを、言ったところで何が変えられたと言うんだろう。お小遣いで買った薬でここまでだましだまし生き延びた。いつかぷつんといくだろうと他人事のように思っていた。それが今年だっただけだ。


お金を貯めるために実家に1度もどるよ、とまかちゃんに言ったら、「お金貯めて何するん?」と言われた。「親にお金をたくさん借りたから返さないといけないんだ」と、言えなかった。彼女は優秀だから。恥ずかしくて言えなかった。


私は両親に愛されていると思う。間違いなく。お金も時間もかけてもらった。十分に与えられた子供だ。

なのに帰りたくない。親不孝者やなと思って笑った。


1人で暮らしていた街を気に入っていた。近くに商店街があって、わたしがすきなお店が沢山あった。友人が近くに住んでいて、家に遊びに来てくれた。それで、一緒にあなたの番ですの犯人を1晩かけて考えたりした。ポケストップが沢山あって、散歩するにはもってこいの街だった。部屋まで聞こえてくる電車の音が好きだった。


実家に帰りたくない。全て私のせいだとしても。



24のこどもだけれど明日にはおとなに戻るよくあることだ/菅沼ぜりい



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