漠然とした死について。

みなさんは、死にてぇ~と口に出したことはあっただろうか。
宝くじ外れた。死にてぇ~
受験落っこちた死にてぇ~
彼女に振られた死にてぇ~

こんなにも死という文字を見ると不快になるしゲシュタルト崩壊しそうになるだろう。かくいう私ももうこの字見たくない。

私は2~3年前からこの”タヒ”を意識するようになった。
些細なことや大きなことでいちいち
「私は生きている必要がないな」と。

これはもう、そう、逃げなのだ。理想が高く手が届かない。それなりの努力もせず口先だけ。

今までは能天気に生きてきたので、言葉を発さないで静かにするとみんなから心配された。体調悪いの?とさえも言われてた。
なんでこんなに落ち込みやすく暗く陰キャになってしまったんだろう。

友達も少ない、家族も微妙、バイトは普通。

自分が今の自分に納得できていない。変わる努力を億劫と感じる。

なんて矛盾しているんだろう。


でもなぜ、それらをすっ飛ばして、”タヒ”になるのか。

実際に私が死んだと仮定すると、何ら問題もないのだ。という結論に至った。
結局、市というのは周りが悲しむ苦しむだけであり本人(自殺または老衰など本人が望んだ死の場合)はなんともないのだ。現実と向き合うぐらいなら、現実でひどい目にあってもがき苦しむのなら、自分が綺麗なままで終わりたい。シンデレラだとしたら、綺麗なドレスを着て踊ったら死ぬ。魔法が解けて、またあの家についてから(王子様が迎えに来ない場合)死ぬよりかはよっぽどいいはず。

私が”タヒ”んだ場合。
家族:母→多分、一番悲しんで泣いている。が一年後にはちゃんと自立して生きている(彼女は強い)
その他:関心なし。塩水一滴もたらさない。葬式で偉そうに突っ立ってるんだろうな。
友人①:悲しんでくれるかも。多分、悲しんでくれる。でも彼女も強いので一週間後にはちゃんと生活してる。
友人②、③:ここら辺は付き合いが浅いためそもそも葬式に来るのか不明。多分、1週間後には忘れる。初めて死んだ友人になるかも。

バイト先:割り切りがいい人が多いので最初は驚くが1日後には忘れている。
ゼミ:真面目な生徒が一人減るだけ。

上記のコミュニティしかないため意外とすんなり忘れてもらえそう。

だがここで懸念点も上げておく。
①:バンドの25thライブを祝えない。仮に今年の夏まで生きたとして(8月末)20thはお祝いできても9月に死んでしまったら25thを祝えない。(そこまで続くかは謎)
②:バンドと仕事できない。私の夢である、好きなバンドと一緒に仕事が叶わない。現在大学生なので今年で死んだらそもそも就職もしていないということになる(まだ内定1つもないけどね)。
③:ペットが飼い主ロス。これが一番の不安要素。自分でいうのもなんだが家族の中で私が一番飼育しているペットに好かれている。飼い主がいなくなったらペットも傷つくのかな。

こうしてみると本当に今年の冬に亡くなっても問題ないくて草。

生きる意味がない≠死んでもいい
ということではないのは分かっている。
でも、何が楽しくて、何が嬉しくて、何が嫌で、という状態がわからなくなっている。
もう全てにおいて無気力である。

何事も行いたくない。


そんな自分が嫌いで変わりたいと思うのは、わがままだ。

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