Three bays song.

Garden企画内企画「Garden collection」提出作品。
拙宅のエドワードが箱庭へ飛ぶ前の一幕です。

-----

 春が去り夏が来る前の、ほんのわずかなこの季節。朝がこんなにも清々しいのはこのひと月だけのこと。だから少しでも長く味わいたくて私は早くにアラームをかけ、気に入りの茶葉をミルクで煮出す、カモミールの甘い匂いがキッチンに充ちるころ最初の客人が現れて、そのブレーキの掛け方やエンジンの音の具合なんかから私は彼らの正体を知るの。ハロー、フィリップス。おはよう、マリー。戸口まで出てあいさつをしたらまた小屋の中へと戻り、それぞれの好みに合わせて棚から茶葉の缶を取る。ポットを火にかけ、お湯を沸かし、小さなテーブルにカップを並べ、歓待の準備を整える。そうして彼らが帰ってきたら、紅茶に温められたくちびるがぽつぽつと語る言葉に、静かに耳を傾けている。
 街のはずれの教会に併設された霊園で、私は管理人の仕事をしている。出入り口の傍らに立つ、石造りの小屋が私の仕事場。中にはL字型のキッチンと狭いダイニング、それからお手洗いくらいしかなく、わずかに残ったスペースには木製の棚を取り付けてもらい好きな本や茶器を並べている。誰の訪問もない日なんかはうんざりするほど退屈だけど、人間関係に悩む必要も、リストラに怯える心配もないこの職業が、私は好きだ。それに、ここを訪れる人が話して聞かせてくれる物語は、いつだって私の心を揺らす。海の底からきた波が旅路の果てに湾へつき、岩肌をそっと撫でるみたいに、その揺らめきは心地よく私の胸をふるわせる。
 門の向こうに車の停まる気配がした。この音は確か、と日付を見れば、やっぱり今日は30日。月の終わりが近づいてくると、ほとんど毎月ここを訪れる彼は決まって、青い花ばかり束ねたブーケをひとつ、携えている。迎えに出ると、門のアーチの頂上から彼の額がはみ出していた。小柄な神父さんに合わせて作られた鉄製のゲートは、彼の背にはやや低すぎる。
「こんにちはエドワード」
「やあジョーゼット! ご機嫌よう」
 金髪碧眼、彫りの深い顔だち。飛び抜けて高い背に、案外がっしりした体躯、洗練された佇まいとそれに反して気さくな口調、――まさしく“王子様”といったところ。けれども少し関わってみれば、彼がむしろ自らのそうした印象を茶化すみたいにおどけ続けていることが分かる。彼の大げさな表情やどこかふざけた口ぶりはやがて、抱いた第一印象をきれいさっぱり拭ってしまい、残るのは妙な胡散臭さと、それでもなお人を惹きつける天性の魅力、この二つだけ。赤い布をひらひらさせて、触れようとすれば身を翻す闘牛士(マタドール)のようなひと。近づこうと迫ったところでかわされるのがオチなのに、彼そのものに興味を持たずにいることは、どうも難しい。
「会うたび魅力的になるね。それとも久々に会うもんだから、僕の目が君の美しさにいちいち驚いているのかな」
「相変わらずねエドワード。今日は何を飲む?」
「うーん、おすすめは?」
「ダージリンなんてどうかしら」
「いいね。一番素直な紅茶だ」
 私が何を提案しても彼は相応の同意を示す。好きな茶葉が何かさえ「おすすめは?」なんてはぐらかすのだから、どんな些細なことであれ“本音”は言いたくないらしい。もちろん彼がちょっとばかし芝居めいたひとであるだけで、ほんとうは何を隠してるわけでもないのかもしれないが、やはり私は疑わしく感じる。私は彼と向き合うと、遠くアイルランドの地に住んでいた叔父のことを思い出す。正確には叔父が飼っていた一頭の猟犬のことを。艶のある赤茶色の毛並みと固く締まった四肢を持つ彼は、いつも私を出迎えてくれたし、触らせても、撫でさせてもくれたが、ただの一度も尾を振らなかった。餌をあげても同じことだった。
「それじゃ、しばらく。またあとでね」
 花束を軽く掲げて墓へ向かおうとした彼は、ふと足を止め、小屋に覆い被さる樹々の枝葉を仰ぎ見た。教会の敷地を縁取るように植えられた樹々の一部がちょうど、小屋の裏手にも根を張っている。木漏れ日の眩しさに彼の瞳はわずか細まり、その碧眼と同じ色をした青葉の影が虹彩に落ちる。
 彼が再び歩きだしてから、私も空を見上げてみた。すっかり花を散らした桜は、存外に厚く強い葉を風に任せて揺らしていた。

 それは去年のこと。ようやっと陽が暖まり、桜のつぼみがおずおずと開き始めて来たころに、ひとつ、棺がやってきた。人手の足りてない時期で、神父さんに頼まれ私も葬儀の手伝いをしたのだった。分厚い蓋に杭を打つ前の最後の別れの時間に私も棺の中をのぞいたけれど、寝かされていた彼は正直、遺体というよりお人形さんみたいで、悼む気持ちや弔う気持ちがいささかも湧いてこなかった。天井からのライトを浴びて横たわる彼は若すぎて、なんとも偽物じみていた。ガラスケースが見えるようだった。
 私と違って生前の彼をよく知っていたはずの人々、つまりその日の参列者たちも、今ひとつ彼の死に実感を持てていない様子で、黒い棺を見送る瞳にちらりちらり、戸惑いがよぎった。でも一対だけ何も語らず棺を見つめる目があって、その物静かで緑の強い碧眼の持ち主は今、私が淹れたダージリンティーに砂糖をひとさじ落としている。
「どう? お口に合う?」
「もちろんだよ、素晴らしく香り高いダージリンだね。どこで買ったの?」
「フィルグローヴにあるお店。ちょっと奥まったところなんだけど」
「知る人ぞ知るって感じかな。僕みたいなミーハーが行ったら顰蹙のバーゲンセールになりそう」
 彼は紅茶にはレモンもミルクも入れない主義らしい。というより、そうやってあれこれ工夫を凝らして味に変化を求めることにさほど興味がないのかもしれない。多分私が勧めさえすれば難なく入れてみせるのだろう(と、思うから意地でも勧めないのだが。第一私こそ、香りを楽しむなら紅茶は砂糖だけが一番と心に決めているタイプなのである)。小窓からさす昼の陽が彼の金髪をまばゆく照らし、粒の荒い光の砂をあちこちに散らしている。
「金髪っていいわね。神様に愛されている感じがする」
「はは、どうも! 年がら年中キラキラしちゃって鬱陶しいこともあるけどね。僕は黒髪とか好きだなあ、聡明な雰囲気があるしそれになんだか神秘的だろう?」
「そう? 私には陰気な色に思えるんだけど、隣の芝かな」
「陰気な色、か。僕の友人もそんなようなこと言ってたっけなあ、昔」
 不意に、棺の中のお人形を、思い出した。髪の色だけで、憶測をいうのは如何なものかと思いつつ私は天啓に従い、素直に問いを投げてみる。それって、あなたが訪ねにきたひと?
 彼はひょっと目を丸くしてから、自然に笑ってご名答、と言った。
「よく分かったねえ、エスパーかい?」
「いいえ、単なる思いつき。お葬式のとき見た彼が、きれいな黒髪だったから」
「そうそう、きれいな色だったろう? でも彼自身に言わせれば、こんな髪色気が滅入る、だとさ」
 窓辺へ顔を差し向けた彼の瞳に陽が当たり、碧がほんのりとあたたまる。その色は、換気のために少しだけ開けてある背後のドアから覗く緑と、よく似ている。やがて彼はかぶりを振って、紅茶の液面へ目を落とした。
「眩しくってよく見えないや。裏に生えてるの、桜だよね」
「うん、そう。花びらは頼りないのに、葉は案外しっかりしているでしょう、分厚くて」
「そうだね。確かに意外なくらい」
「何か思い入れでもあるの? 今朝きたときも気にしてた」
「いや、」
 否定の言葉を口にしてから彼はふと考え込んで、ほんの2、3秒の沈黙ののちに今度はそれを否定する。いや、うん、あるとも、思い入れが。彼が個人的なことを――多分、――正直に話すのは実に珍しい、どころか今までに一度だってあったかどうか怪しいことで、私は知らず知らず身構えた。対して彼の双眸は、何も浮かべずに凪いでいる。南方の海。エメラルドグリーンの入り江。
「僕がこれから話すことは、まあ、ちょっとしたお伽話とでも思ってくれればいいんだけどさ」
 あらん限りの誠実さを、彼に差し出す用意をする。物語を聞く人間にできることといえば、せいぜい、語られるすべてのものへ敬意を払うことくらいだから。

 アイルランドの冬は、厳しい。樹木は灰色に枯れ、草は絶え、剥き出しに晒された地表に痛々しく氷雪がはびこる。ある朝いつものように愛犬と狩りへ出かけた叔父はそのまま、昼食の時間を過ぎても一向に戻らなかった。不審に思い叔父の狩猟仲間と連絡をとって捜索すると、彼は鳶の狩り場で倒れていた。死因は心臓発作だった。
 猟犬は叔父の死体のそばで獲物をくわえ控えていた。捕らえた鳶を食べるでもなく、放すでもなくじっとしていた。狩猟仲間の男たちはその忠実さをほめたたえつつ、主人の死を理解していないかのような佇まいに憐れを覚えていたが、賢い彼がよもや主人の死を悟らなかったはずもない。彼は叔父が死んでいることも、もう指令などでないということも、分かった上でずっとあの場に立ち続けていたのだと思う。獣が死をどう捉えるものか私には知る由もないが、弔う文化があるのだとすればあの態度こそそうだったのだろう。彼は、私たちが死体の始末を手配するのにあくせくしているうちに、いつの間にやらいなくなっていた。鳶は近くに残されていた。
 凍てつく大地と同じ色をした短い毛並みの猟犬は、一体どこへ駆けていったのか。聡く鋭い彼ならば険しい自然の中でも十分生き延びられたことだろうが、どちらにせよすでに寿命を迎えたに違いない。その眠りを想像する私の脳裏では彼の亡骸に、叔父のつけた赤い首輪が元の通りに嵌められている。
「さて、うん、どうしたものかなあ。くだらないことを話すのだったら得意分野なのだけど、大切なことを話すのは苦手なほうなんだ、僕は」
 彼はカップの持ち手の上、平たいところを親指で、引っ掻くように撫ぜている。たまに爪が表面に触れ擦れるような音を立てる。彼が押し黙ってしまえば、聞こえるものはそれくらい。一面に、張り詰めた静けさ。
「そうだな、何から話そうか、……うん、桜。桜の話をしよう。僕と彼とが出会ったのは本当に幼い時分のことで、僕は何歳だったかな、彼は確か五歳だったか。じゃあ僕もそうだ、戸籍上は」
 記憶をたぐり寄せる手間は、彼には必要ないらしかった。きっといつでも手に取れる場所にしまってあるのだ、あるいは片時も、忘れたことなんてないのかもしれない。一度きっかけを掴めば話は尽きず、しかし平時の彼と比べれば、苦手というだけあり、辿々しい。
「彼は桜並木の先でワンピースを着ていてね、体が弱かったものだから、そういう呪い(まじない)があるんだろ? 学園の校門の前、なだらかな坂の頂上で、彼の父親と話をしてた。彼は僕を引き連れていたメイドの声で気がついたのかぱっとこちらを振り向いて、……信じられないくらい青い目だった。僕は茫然としてしまった」
「そう、碧眼だったのね。彼」
「ああ、君は、瞼を閉じた彼しか見たことがないんだったね。そうとも、僕の知る限り、この世の何よりも青い目だ、君にも見てほしかったなあ。彼は桜の季節に生まれて、……どういう皮肉か同じ日に死んだ。嫌味の得意なやつだったけど自分まで皮肉ることないのにね、……まあだから、つい結びつけてしまうんだよ僕は、彼と桜を。花の好きな子でもあったしさ」
 彼らしくもなく、いくつかの途切れた間を置きながら、エディは今は亡き人についてたくさんのことを語った。生意気な割に気が優しくてからかい甲斐のある子だったこと、肺と心臓が弱く幼い頃は咳ばかりしてたこと、負けず嫌いだったこと、多少意地悪でもあったこと、本と星と花が好きだったこと、でも成長して障害を負い本は読めなくなってしまったこと、甘いものが大好きだったのにいつしか嫌いになっていたこと、頑張り屋だったこと、そのぶんたくさん無茶もしたこと、それゆえに、恐らく、命が尽きたこと。
 声音や口調は内容によって微細に変化していった。兄が弟を語るように、騎士が姫君を語るように、友が悪友を語るように、愛を語るように、恋を語るように。私の内にも様々な色彩を持つ青年の姿が、おぼろげにだが浮かび上がってくる。移り変わるイメージの中で最も鮮やかなのはブルー。ブーケの花と同じ色、彼の瞳と同じ、青。
「君はさ」唐突に彼は尋ねた。「これはもしも、もしもの、話だけど」
「ええ。なあに?」
「もしも、死んだ誰かにさ、一度だけまた会えるとしたら、……会ってみたいと、思うかい?」
 亡くした人に、もう一度? 私は私の亡くした人をあれこれ思い描いてみて、一人一人、あるいは一匹一匹(重要なのは二度と会えない大切な者であることだと捉え、私は飼ってきた犬やハムスターも勘定に入れたのだ)会ってみたいか、本当にそうか、ずいぶん長く考え込んだ。予想したより待たされたからか彼は小さく吹き出して、真剣に考えてくれて嬉しいよ、とからかい混じりに言う。
「分からない」挙句私の出した答えはそんなものだった。「会いたい気持ちはあるけれど、……怖い気がして」
 そう、と相槌を打つと彼は、紅茶のカップを持ち上げて再び窓の外を見遣る。それから瞼をやや伏せて、大方、僕も同じさ、と応えた。怖いんだ。彼にもう一度会うのが。
「無論恋しいとも、また話せるのなら、触れ合えるなら、彼がそばにいるなら、少なくとも満たされはするよ。でもさ、それだって結局は一時の夢に過ぎないんだ、要するに僕はいずれ“もう一度”彼を失うことになる、……正直、耐えられる気がしない。慣れるものでもないだろうし」
 お伽話にしては、妙に、実感の篭った口ぶりだった。たとえ話ではないかしら、近しい事態がまさに彼の身に降りかかっているのでは? 愛した人を“もう一度”亡くしてしまうようなこと。また失うと知っていて、その体温を肌に感じること。
「それにね、」口をつけぬまま、彼はカップをソーサーへ戻す。
「僕は一体何をしたらいいか、何を言えばいいか、皆目、見当もつかないんだよ。彼を、――カートを。目の前にした時に」
 私も、何か言おうとして、そのままゆっくりと宙を食む。励ましにしろ反応にしろ相応しいものが見つからない。否応無しに会話は途切れ、空白が漠と広がっていく。辛い思いも悲しい思いもほとんど知らずにいる私には、出せる品はなく、途方に暮れる。
 すると沈黙に満たされた狭い狭い石造りの小屋に、どこからか犬の吠え声が、ばう、とひとつ飛び込んだ。偶然風に乗ってきたのか一声きりで聞こえなくなったが、思い出すのには十分だった。言葉を丁寧に選り分けて私は喉を震わせる。
「何も、しなくてもいいと思うの」
「……と、言うと?」
「つまり、――“何もできない”ってことだって、あなたの愛の、証になるから」
 今度は、あっけにとられたような、間の抜けた沈黙が生まれ、そして彼は普段通りに快活に、けれどいつもより打ち解けて笑った。私はいく分かほっとして、いそいそ紅茶を口に運ぶ。ぬるいミルクのなめらかさが、くちびるをつるりと通っていく。ひとしきり笑うと彼は慈しむように目を細め、私は思わずどきりとして、慌てて顔を背けた。
「いや君、申し分なくヤツの好みだ。こんなふうにイチャイチャしてたら土の底から祟られちゃいそう」
「その言い草で祟られそうよ。前々から思ってたけど、あなた、結構不謹慎よね」
「結構? とんでもないなあ僕は天晴れ盛大に不謹慎なのさ、それを志して生きてるんだからね。さて、紅茶も頂いたことだし、」
 うそ、まだ半分以上残ってたじゃない、と指摘しようとして彼に視線を戻すと彼は、立ち上がって腰に手を当てカップを煽っていた。全く。気を遣って淹れたのだから気を遣って飲んでくれたらいいのにと思った刹那、とはいえ彼がこうやって、粗雑な振る舞いをしたことは今までにあまりなかったことで、ひょっとすると照れ隠しということもある、と思い直す。都合のいい仮説を信じ密かに頬を緩ませて、私は彼を見送った。ひらひらと振られた彼の手に振り返しながら背を眺め、2m近い長身が門をくぐり、車に乗り込み、去っていくまでそこにいる。陽は頂点を過ぎたほど。午後から他の来客があってもおかしくはない、閉園は夕刻だ。
 部屋へ戻る前にもう一度、桜の樹を仰いでみる。風に揺れる葉の間から、一瞬強く、夏の匂いがした。

何円からでもお気軽にお使いくださいませ。ご支援に心から感謝いたします、ありがとうございます。 サポートの際、クレジットカード決済を選択頂けると大変助かります(携帯キャリア決済は15%引かれてしまいますがクレジットカードだと5%で済みます)。