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赤ちゃんとの会話はそれ自体が純粋な音楽のようだ

最近、娘がよく喋る。

喋ると言ってももちろん言葉ではなく、色んな声を出すという方が正確かもしれない。少し前まではお腹が空いた・眠い・オムツ替えて、くらいしかなかった要求ごとも、顔を見せて・歌って・抱っこして・景色に飽きた、などバリエーションが増えてきた。泣くだけの頃とは明らかに違って「あーっぷ」「んないっ」みたいな短い声を発するようになった。ご機嫌な時にきゃっきゃする声もまた新しく加わって、こちらまで笑顔になる。

赤ちゃんとのコミュニケーションとは不思議なもので、言語化されていないのにしっかり要求が伝わってくる。学生時代、ネアンデルタール人は絶対音感でコミュニケーションを取っていたという論文があって、興味深く読んでいたことを思い出した。娘との原始的な声のやり取りも、しばらくすると言葉の海の中を泳いで、学習・整頓されてしまうのだろう。「あ」なのか「え」なのか区別できないような、文字に起こすこともできない言葉の種、言葉の前の声。ここはたまたま日本だから自然と日本語を話すようになるわけだけれど、もちろん環境が変わればその国の言葉になるし、両親のルーツによっては複数の言語を話すようになる可能性もある。
歌には例えばスキャットなど歌詞のない部分があったりする。「Oh Yeah!」のような掛け声やマイケル・ジャクソンの叫び声などは歌詞のある部分より原始的で音楽的な要素が強い。赤ちゃんとの会話はそれ自体が純粋な音楽のようだ。私たちが歌うのはそのエネルギーの塊のような時代を取り戻したいからかもしれない。

新しい命のエネルギーは凄まじく、忘れられないのはその産声である。50センチほどの小さな身体のどこにそんなエネルギーがあるのかと疑いたくなるような声量。羊水から出て初めて吸う空気に驚くような、全力の泣き声。母になった喜びと同時に、音楽家としてどこか客観的に感動していたような気がする。
昔ボイストレーニングを受けていた時に、「発声の一番の先生は子ども」と言われたことがある。よく観察していると子どもの声は確かにすごい。音程など気にせず、深いブレスなどなくても突然ものすごい高音で叫んだりする。オペラ歌手のような恰幅の良い体格とは真逆の小さな身体で、時にうるさく感じる程のすごい声量が出る。ただただ自分の限界を気にすることなく全力で生きること、それが声にとっては一番いいことなのかもしれない。

赤ちゃんは生きることすべてが全力だ。泣くのも笑うのも手足をパタパタ動かすのも。手でものを掴むことも全力で、お風呂で無理やり手を開くと、がっちり掴んだほこりがひらひらとお湯に舞うから愛おしい。こんな風に全力で生きていると疲れるだろうなと思うのだが、案の定赤ちゃんはよく眠る。もしかしたら成長するということは、力の抜き方を覚えることなのかもしれない。

「んぷーっふん」

一生懸命喋る娘を真似て一緒に喋ってみる。
日々新しい声や言葉を獲得していく貴重な過程を、一緒に楽しみながら。


 sugar me 寺岡歩美

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