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「眠いから仕方ない」を正当化したい冬

眠い、という感覚はきっと全ての人がもっていて、それに抗った経験、抗えなかった経験もきっとみんなしているのだろう

一方で、この感覚は何かを断る・断念する理由としては弱い、社会的に認められにくい

もちろん、病気の症状として眠い人や、ブラック企業でこき使われて明らかに睡眠時間が足りていない人に対しては「おつかれさま、ゆっくりお休み」といった声がかけられるのだろう

しかし、十分に睡眠をとっているのに日中眠いと騒いでいる僕のような人には「甘えているのでは」という意見が浴びせられることになる

彼らの意見は正しいのかもしれない

だが、正しくない可能性もあると僕は主張したい

だって、あなたには僕の眠たさが分からないのだから

眠たさは、その他諸々の感覚と同じように内的な経験だ

僕の見ている色が、僕の感じている寒さが、あなたのそれと同じとは限らないのと同じように、例えあなたが僕と同じ生活をしたとしてもあなたが僕と同じ眠たさを感じるとは限らない

「でも病気じゃないでしょ?」

病気がどうかは、内的経験としての眠たさの指標にはならない

なぜなら、お医者さんも他の患者さんも、みんな僕と異なる感覚を生きている「他人」なのだから

「眠たさ」に指標を求めることすらナンセンス

さきほど、正しくない「可能性もある」と書いたのは正しいと証明される恐れがあるからだ

例えば将来、内的経験を人間どうしで比較できるようになったら

他の人は「青色」をどのように知覚しているのか、他の人の時間はどれくらいのスピードで流れているのか、そして他の人はどれくらい眠いのか

それらを共有できるような世界になったとしても、きっと自分にとって一番大事なところは伝わらなくて、伝えられなくて、ちゃんと他人どうしとして生きていける、そんな気がする冬の夜

おやすみなさい

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