「えんとつ町のプペル」感想

先日、キングコングのツッコミでネタ書き担当の西野亮廣氏が、“にしのあきひろ”名義で昨年10月に発売した絵本『えんとつ町のプペル』をネット上で無料公開した。この件に関しては、今でも色々と物議を醸している。正直、私も【お金の奴隷解放宣言】という脳味噌極楽音頭感溢れる言い回しに随分と惑わされたのだが、とどのつまりは「お金が無くても内容を見ることが出来る。本を手元に欲しい人はお金を出して購入すればいい」と消費者に新たな選択肢を与えたという程度の話だと理解し、この件に関してはもはやどうでも良くなっている。

とはいえ、それを踏まえたとしても、「「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ? 糞ダセー。」という、恐らくは氏の思考をダダ漏れエンターテインメント化しているだけのブログの一文に対して、市井のクリエイターたちが腹を立てる気持ちも分かる。彼らはこれまで「お金が無い人には見せませーん」というスタンスで生計を立ててきたのだから、その生活を本業の絵本作家でもない芸人風情(※便宜上の表現です)に「糞ダセー」などと言われたら、そりゃあ腹も立つというものだ。

そんなクリエイターたちに対して、腹立たしい気持ちを抱いている人もいるかもしれない。「どうして西野の言うことが分からないんだよ!」と言わんがばかりに彼らのことを嘲笑し、慇懃無礼な態度で罵詈雑言を投げかけたくなる人もいるだろう。だが、そんなことをしたところで、クリエイターたちの気持ちを逆撫でして、状況を悪化させるだけだ。それは恐らく、金魚の糞が目の上のたん瘤になすりついているかのように、醜く汚らしい光景だ。そのままだと金魚は死んでしまう。私はキングコングの漫才が好きなので、西野氏が死んでしまうととても寂しいので、どうか温かい目で彼らの言い分をスルーしていただきたい。

話を戻す。

ともあれ、『えんとつ町のプペル』を無料で観賞できるという状況を、おめおめと見過ごすことはない。もとい、正直なところ、これだけ今回の件が話題になっているにも関わらず、作品そのものについて語っている文章をあまり見掛けなかったため、ちょっとだけ内容が気になっていたのも事実だ。……というわけで、氏のブログの件や、炎上の件や、クリエイターたちの怒号の件については出来るだけ忘れ、作品そのものを読んだ感想について、ここに書き留めておこうと思う。

物語の舞台は、至るところから煙突が生え、朝から晩まで煙が上がっている“えんとつの町”。この町の空は黒い煙で閉じ込められているので、住人たちは青い空や輝く星を見たことがないという。あるハロウィン祭りの夜、空をかける配達屋さんが、町の煙で咳き込んだ時にうっかり配達中の心臓を落としてしまう。心臓が落ちたのは、町のはずれのゴミの山。ドクドクと脈打つ心臓にゴミたちが集まっていき、一人のゴミ人間が誕生する。町の人々はゴミ人間のことを不気味がっていたが、えんとつそうじ屋の少年・ルビッチだけは彼のことを受け入れた。ルビッチはゴミ人間に“ハロウィン・プペル”という名前を付け、楽しい時間を過ごすことになるのだが……。

以下、読後を前提とした文章になる。

基本的なストーリーは『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる。どちらも亡き父親の話を信じ続けている少年が、空の向こうを目指している。ただ、父親が見たという天空の城を目指して飛行機を自作していたパズーとは違い、ルビッチはプペルが作り上げた風船付きの船によって空へと連れて行ってもらっているだけなので、どうも共感しづらい。無論、私も努力こそが絶対であるなどとは考えていないが、特に行動を起こしていなかった人間に幸運が舞い降りる姿を、ユーモアの欠片もないままに見せつけられてコーフンできるほどに能天気でもいられない。

とはいえ、ルビッチがこのような好待遇を受ける理由がないこともない。えんとつ町の住人たちに嫌われていたプペルに、彼が最初に手を差し伸べていた。この優しさがあったからこそ、ルビッチはプペルに空へと連れて行ってもらえるという“恩返し”を受けたのである。事実、プペルはルビッチに対して、「キミがはじめてボクにはなしかけてくれたとき、ボクはなにがあってもキミの味方でいようと決めたんだ」と話している。

……ただ、そうなると、気になることがある。クラスメートたちからのイジメを理由に、ルビッチがプペルを突き放すシーンだ。セオリーに則るならば、ルビッチは自らの過ちを恥じて、プペルを探し回ることになるだろう。当然だ。イジメられたという理由があるとはいえ、プペルのことを一方的に突き放したのである。よりを戻そうとするのであれば、まずはルビッチの方から行動するべきだろう。

しかし、実際のところ、ルビッチは特に行動を起こさない。別れてから数日後、すっかり変わり果てた姿になったプペルが彼の家の窓を叩いたときですら、「どうしたんだい、プペル? ぼくたちはもう……」と距離を置こうとする。そのやりとりは、まるで飼い主に捨てられたにもかかわらず元の家へと帰ってきてしまった従順なペットのようだ。この、あからさまな主従関係、アンバランスな状態が、ルビッチのことを、いくら恩を受けたからとはいえ空へと連れて行ってあげるほどの人間と思わせてくれない。だから、ルビッチにはとても共感する気にはなれず、むしろ全てが彼にとって都合良く展開しているようにしか見えない。まるで笑いどころのない『ドラえもん』のようだ。

この辺りに釈然としていないからか、終盤の伏線回収もそれほどハマらなかった。……いや、それだけが理由ではない。主に、終盤の展開で、感動要素が渋滞してしまっていることが原因だろう。まず、一面に広がる星空で、最初の感動。続いて、無くしてしまった父親のペンダントとプペルのどちらを選ぶか、決断するくだりで二度目の感動。そして、最後の最後に、プペルの正体が発覚するくだりで三度目の感動。これら全てが、彼らが煙の向こうにある星空の下へと辿り着いてから、一気に畳み掛けられる。つまり、ずっと同じ場所で、延々と感動が押しこまれるわけである。これがなかなかに気分を冷めさせる。もし、これが漫画だったなら、まだコマ割りなどで時間経過を上手く表すことが出来るのだが、絵本は1シーンに対して使用できる画の枚数が限られるので、余計に窮屈さを強めてしまっている。せめて、三度目の感動は、場面を転換した上で見せてもらいたかった。これは完全に構成面の失敗だ。

この他、気になった点を挙げる。

・アイテムとしての「心臓」があまりにも直接的過ぎて面白味に欠ける。別のアイテムでメタファーとして表現できなかったのだろうか。そもそも、あの心臓は何処に運ばれるものだったのだろうか。直接的であるからこそ、妙に引っ掛かる。

・冒頭にて、配達屋が空を飛んでしまっているので、船で空を飛ぶ展開がやや曇る。

・海に出ることを禁止されてんのに、「漁師」という仕事が成立して、「漁船」が存在している違和感。「冒険家」ではいけなったのか。

・子どもからの便りを受けて無料公開にしたように記憶しているのだが、「自業自得」という言葉は子どもには難しいような気がする(「調べて読むのも楽しみのひとつ」という声を目にしたが、それは読者側が裁量で判断することで、作者はどのように読まれるのかをしっかりと想定しておくべきだろう)

・「空気をよめよ」という台詞の唐突さ。ファンタジーの世界に無理やり現代性を押し込んだような。

・「ぼくの命がとられるまえにいこう」という台詞の意味。まるでタイムリミットが迫っているかのような表現で緊迫感を煽っていたが、その後の展開を思うと、ただ煽るだけの表現として組み込んだのだろうか。

・「こんどはルビッチがなぐられるかもしれないぞ」って、さっきイジメられたときにはまだ殴られていなかったのか。

本編に関しては以上。ここからはあとがきを読んで気になったところ。

・「突如現れたゴミ人間と、その友達の煙突掃除屋が、それでも空を見上げるもんだから、町から袋叩きに遭ってしまいます。」二人が袋叩きに遭っていたのは、ゴミ人間が不快な臭いを撒き散らして、煙突掃除屋が彼をかばったからだと思うのだが。空云々は関係無い。もとい、彼らのことを袋叩きにしていたのはルビッチのクラスメートだけで、それを「町から」と表現するのは主語が強すぎる気がする。

・「えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺。」現代社会に限らない、普遍的なテーマであるように思う。途方もない夢を語っている青年を周りの大人たちが「出来る訳がないだろ」と嘲笑するシーンなど、そこいらのフィクションで目にするシチュエーションではないか。ていうか、そういうネガティブな意味を持つ町のくせに、終盤の星空よりもずっと魅力的な町に描いているのって、どうなのだろうか。主張とズレてないか。

・「「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。」やっぱり子ども向けじゃなくて大人向けの作品だったのだろうか。

冒頭でも書いたように、本作を巡って色々なところで意見が噴出している。西野氏に対する擁護意見も批判意見も盛り上がり過ぎるほどに盛り上がっていて、もはや時間に解決させるしか手立てがないのではないかという気さえしてくる。そんな状況を氏自身が作り出したのではないかという意見も見受けられる。だとすれば、漫才師としての彼が好きな身としては哀しい話である。……あくまでも、妄言であることを願いたいところだが。

しかし、はっきり言って、本作にはわざわざ話題にして盛り上げるほどの価値はない。イラストの美しさが評価されているようだが、絵本の価値は画の素晴らしさだけで成立させられるものではない。主人公二人の関係性は歪だし、陳腐で普遍的なメッセージはまったく物語に反映されていない。そのくせ、上手いこと伏線を張って、ラストシーンで泣かせようとする細工が実に小賢しい。ていうか、子どもが読む絵本に伏線を張るな! 直感で楽しませろ!(※これは自論です)

だから、とっとと炎上を止めてしまいましょう。こんな炎上、ちっとも面白くないし、都合よく乗っかる人はもっと面白くないですね。

こちらからは以上です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


……個人的には、『えんとつ町のプペル』を買うお金があるのなら、それに少しだけ足して、『KING KONG LIVE』のDVDを買った方がよっぽど有意義だと思うよ。マジで。

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