尊敬の解像度の話。

◆「尊敬する人はいますか?」◆それなりに生きていると、このような質問を受けることがある。で、その度に答えに窮する。いつだったか、どういう話の流れだったかも忘れてしまったが、母から同じような内容の質問をされたときに、やはり答えられずに戸惑っていると、「そこは父親と断言できないのか」と説教されてしまった。理不尽である。◆確かに、父の仕事に対するスタンスに関しては、尊敬すべきところも多い。だが、身近な存在であるからこそ、彼の不快な側面を目にしたことも少なくない。時には、その言動について、堪忍袋の緒が切れてしまったこともある。そういったネガティブな側面が引っかかって、私は父を尊敬しているとはなかなかに言い難い。◆そう考えると、「尊敬している人」というのは、人間としての解像度が高くない相手の方が良いのかもしれない。父に限らず、人には多かれ少なかれ、良い側面と悪い側面がある。悪い側面を目の当たりにしたことがある人のことを尊敬するのは、やや難易度が高いような気がする。◆しかし、ここに矛盾を覚える。◆解像度の高い相手のことは、良い面も悪い面も認識しているために、尊敬しづらくなってしまう。これは事実だ。とはいえ、逆に解像度の低い相手のことは、良い面しか見ることがないから確かに敬意を抱きやすいのかもしれないが、そんな得体の知れない人のことを尊敬できるものなのだろうか。◆思うに、解像度が一定数を超えていることを前提とした上で、悪い面よりも良い面の比率が高い人を、尊敬する人物とすべきなのである。◆そんな人物など、私の周りにはいないのだが。◆そもそも尊敬したからといって、だからなんだというのか。その人のようになりたい、と願ったところで、その人と自分は純然たる他人ではないか。◆画して、私は今日も特に尊敬する人物を指針として見据えることのないまま、日々ぼんやりと生きている。それでいいと思う。生きているだけでハッピーだ。◆

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