見出し画像

ハートに意識が向きすぎている時。

昨日、ある人に

「ヒトミちゃんは、ハートに意識が向きすぎてる。」

と言われた。


いつも明るくて、元気で、あまり悩みのない
ポジティブなヒトミちゃんだと思われがちなのですが
(あれ、思われてない?)

小学校高学年くらいの頃から
気分が優れない日が多くて
朝起きてすぐ「もう死にたい」と思うことがしょっちゅうある子だった。

思春期の頃は特にひどかった。

(詳細に言うと、死にたいというのはちょっと雑な言い回しで
気分の優れない不快感で、生きているのがしんどいという感覚。)


それは今もそれほど変わらなくて

死にたいと思うこと自体を悪いことだと思わなくなったから

そう感じることをどこまでも許可し、そこに問題意識を持たなくなった。

「死にたい日くらいあるよね」くらいの感じで。



更に言うと、死にたいと感じる人の多くは完璧主義で
おそらく自分の中で「こんな1日だったら最高なのに」という理想だったり
幸せな日々というものに執着があるからより強く感じるんだと思っている。

死にたいは、ちゃんと生きたい の意味。

とはいえ、どこまで許可しても
感じていることが変わることなく

夏至とか春分とかエネルギー酔いしそうなタイミングには
死にたい日が続いたりする。

「もうこれ飽きてるんだよな〜そろそろ、辞めたいんだよな〜」

なんて思ってた頃
ハートに意識が向きすぎていると言われた。

ハートに意識を向けて

というのは、スピリチュアルなワークで言われるど定番の言葉だったりして

”ハートに意識を向けすぎている”

という概念が無かったからビックリ!


言われた直後に
私はAmazonで筋トレグッズを3つも買った(笑)

筋肉に意識を向けてみようと思って。

そして、次の日の朝起きてすぐに、散歩に出かけた。

画像1

画像2

手の先

おしり

足の裏

画像3

グラウンディングするときに、こうやって意識を向けていたけど


ハートだけが私ではなくて

他の部分も私だという新しい感覚で感じてみると面白い。


私ってもっと大きい存在なんだ。

と思った。


そういえば、羽が生えた時は

背後の空間に強く意識が向いていたから

自分の身体感覚に厚みがあるような

そんな感覚だったかもしれない。


画像4



私は行動力があるから、鋼のハートだと思われがちなんだけど

行動力と同じくらい強力に繊細で

一時期菜食生活にしたら、ハートが開きすぎて
外の景色が美しくて光輝いて見えて泣いてしまったり
誰かがドアをバンッと閉めるだけで怖くて泣きそうになったりするくらいで(笑)
その時、丸裸の自分の繊細な受信能力をパワフルに体験した。 

最近は冷蔵庫の電磁波で身体が強張るのが辛い(笑)


その時のハートが過剰に感じすぎている感覚を思い出して
確かに私は小さい頃から、意識がハートに向きすぎていて
自分と一体化しすぎてしまっているかも。
と思った。

私はお肉をよく食べるけど、その繊細さを少し荒くして
この社会で生きていけるように
慣らしてくれる地球で生き抜くためのパワーフードだった。



私と同じように
ハートの感じ方や
ハートの痛みに意識が向きすぎている人がいたら
他の部位や臓器、細胞に目を向けてみることをオススメします・


そして繊細さと行動力は同時にその人の中で共生しながら発揮することができる。
繊細さだから行動できないっていうのは、一概に言えない。

私たちは、自分が思っているより複雑な要素と絶妙なバランスで構成されている。
繊細だから、動けない
みたいな分かりやすい構成で人は動いていない。


誰しも「使っていない自分」「表出されていない自分」がいるだけで
全ての人が、今の自分では想像できないほどの未来と無限の可能性がある。

画像5






この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?