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映画『東京2020オリンピック』レビュー ①河瀬直美が〈記録〉したオリンピック

画『東京2020オリンピック』ほど、公開前から強烈なバイアスが掛けられた作品も珍しいでしょう。
そもそもオリンピック自体がコロナ禍による延期、無観客という前例のない形での開催となり、五輪反対の声もそれなりに上がっていました。それに加えて、本作を扱ったテレビ番組や監督に関する報道などによってマイナスイメージが拡大し、さらに公開後の不入りが追い打ちを掛け、映画自体の印象が、かなりネガティブ寄りに偏ってしまったように思います。
しかし、映画は映画です。
完成したら観客のもとへと旅立つ、独立したひとつの作品です。本稿では、そうした考えに基づいて、ぼくの自由な解釈、感想を述べたいと思います。

■「河瀬直美にしか撮れない五輪映画を」

2020年東京大会の公式記録映画の監督として指名された河瀬直美監督は、IOCからの要請について次のように語っています。

「IOCからも『これまでと少し違う映画を』『市川崑の時代に戻りたい』という言葉があった。つまり、作家性ということで、わたしにしか撮れないものを求められた」(映画.com 2022.5.23)

『東京2020オリンピック』を観賞した人たちの中には、「思っていたのと違った」「記録映画かと思ったら違った」といった感想が一定数見受けられたように思います。おそらく、そういう人たちがイメージしていたのは、聖火リレー・開会式から始まって、各競技の模様と結果が時系列で描かれ、閉会式で終わる・・・といった、オリンピックのダイジェストのような内容だったのではないでしょうか。そこで描かれる競技には、陸上、水泳、柔道、体操、サッカー、マラソンといった人気種目が当然入っているだろう、と。
しかし上記の河瀬証言にあるように、そもそもそういう構成をIOC自体が望んでいなかったし、ダイジェストのような映画であれば、わざわざ河瀬監督に依頼する必要もないわけです。

一方、1965年公開の市川崑版『東京オリンピック』では、主要な場面はかなり網羅されています。聖火リレー・開会式から始まり、主だった競技はだいたい入ってますし、最後は閉会式で感動的に終わる。市川監督自身も「あれは、わりと素直に作ってるんですよ」と発言しています。(NHK「訪問インタビュー」)
それでも公開当時、〈記録か?芸術か?〉の大論争が巻き起こってしまったのです。
これは一体、どういうことなのでしょうか?

思えば、前回のオリンピック映画も、公開前からざわついてたんですね。試写会における河野大臣の発言を新聞が報じたことから、〈記録か?芸術か?論争〉が湧き上がりました。もっとも河瀬版と異なるのは、そうした騒ぎも後押ししてか、興行が記録的な大ヒットとなったことです。
でも、作品に対する賛否、特に「否」の意見を見てみると、やはり「思っていたのと違う」「記録とは言えない」といった類が散見されるのです。
市川版が公開されてから半世紀以上が経過していますから、同等に比較出来ない部分ももちろんあります。逆に共通点を見出すとしたら、IOCや河瀬監督が言っているように、「作家性」という部分ではないでしょうか。つまり、どちらのオリンピック映画も、監督の視点や解釈を通したことによって、「芸術かもしれないが、記録ではない」という感想が生じた。
それではまず、「素直に作った」という市川版の「作家性」が、映画のどこに現れているかを確認してみましょう。

■市川版:テクノロジーによる視点の構築

市川版の最大の特徴は、超望遠レンズによる撮影手法です。撮影前に競技会場を視察した市川監督は、通常のレンズでは選手が小さく写ってしまうことに気づき、全国から数千ミリ級のレンズをかき集めました。そのレンズが捉えたのは、監督自身も予想だにしていなかった、選手たちのさまざまな挙動や表情でした。そうしたカットを編集によって畳み掛け、テレビ中継では見ることの出来なかった映像を〈記録〉しました。つまり市川監督は、基本構成はオーソドックスに徹しながら、個々の場面の描き方(カメラワーク、編集)に〈作家性〉を込めたわけです。映像テクニックに強くこだわる市川監督らしい選択です。
しかしそれは、一定の人たちに「記録ではない」と認定されてしまいました。ちなみに市川監督自身は「記録でも芸術でもない。〈映画〉を作れと言われたから作った」と述べています。

現在の感覚で『東京オリンピック』を観ると、それほど〈芸術〉に寄った映画とは思えません。それこそグルノーブル五輪を撮ったクロード・ルルーシュ監督の『白い恋人たち』なんかに比べたら、遥かに「素直な」映画です。しかし、記録映像と言えばニュース映画くらいしか見たことのない当時の人たちにしてみれば、「競技全体が見えない」「結果が明確に示されない」「選手のアップばかり映ってる」と感じたのでしょうか。
ところが、それから57年も経過し、膨大な映像が氾濫する時代になっても、また同じような反応が繰り返されることになったのです。

■河瀬版:構成による視点の構築

では、河瀬監督は、オリンピックをどのように料理したのでしょうか。
まず、聖火リレー、開会式、閉会式といった〝定番〟の場面にはあまり尺を取っておらず、時系列にも沿っていません。競技については、種目を主眼としたセレクトは一切行われていません。カメラの眼は、アスリートたちにダイレクトに向けられています。もっと正確に言えば、〈何かしらを抱えたアスリートたちに〉です。
その「何かしら」の内容は、ジェンダー、人種、政治といった問題から、競技に対するスピリットまで、さまざまです。言うなれば、東京五輪に参加したアスリートたちのエピソードを繋げたオムニバスのような構成です。
それを「多様性」という言葉で括ると、あたかも現代的なテーマのようですが、もともとオリンピック自体が、世界のさまざまな人たちが集まるスポーツ・イベントです。多様な人たちをカメラに収めるのに、これほど格好な場はありません。その意味で『東京2020オリンピック』は、「オリンピックのときにしか作れない映画」という言い方も出来るでしょう。実際、私たちは2時間という上映時間の中で、さまざまな人間模様を目撃することになります。
つまり、それが河瀬版オリンピック映画です。競技大会を個々人のアスリート単位にまで分解し、再構成したのです。そしていくつかの場面では、超望遠レンズの代わりに、河瀬監督自身がカメラを抱えてアスリートや関係者の前に立ち、直接語りかけています。結果、テレビ中継では絶対に見る(知る)ことの出来ない、河瀬直美による独自の五輪〈記録映画〉が出来上がったというわけです。

■いわば「オリンピック精神」の映画化

市川崑も河瀬直美も、オリンピックという人類最大のイベントに〈作家性〉で立ち向かったのは、〈人間〉そのものなのだと思います。順位を付けることがオリンピックの「精神」ではありません。河瀬版に登場する何人かのアスリートたちも、「競技すること、勝つことが目的ではない」と言い切っています。その点において、日本の公式記録監督2人は、競技の結果よりも重要なものにフォーカスを当てたという点で、オリンピックの精神そのものを映画として表現したと言えるでしょう。これはたいへん誇らしいことだと思います。

映画マニアであれば、河瀬直美が監督すると聞いた時点で、ダイジェスト的な映画には絶対ならないだろうと直感したでしょう。完成した作品には、フィルムの質感表現や、子どもや鳥といった、河瀬作品に繰り返し登場するモチーフも随所に散りばめられています。
しかし、特に映画マニアでもなく、河瀬映画に馴染みのない人たちの中に、今回の構成に戸惑った人がいるというのは、分からなくもありません。カレーライスだと言って出された料理が、食べてみたらハヤシライスだった。そんなとき、いくら美味しいハヤシライスでも、頭が混乱して味わうどころではないでしょう。河瀬版五輪映画も、最初から「作家性を求められるプロジェクト」であることが分かっていれば、多かれ少なかれ、印象が違って来ることもあるのではないでしょうか。
私はBlu-rayで初めて観たのですが、正直、予想外に素晴らしい映画だと思いました。ほとんど満点と言っていいです。SIDE:A、SIDE:Bともに3回ずつ観ました。そして、観れば観るほど新しい発見がありました。
もしこの映画の評価に、事前に起きたさまざまな出来事が影響しているのだとすれば、また、それ故に観てないという人が多く存在するのなら、Amazonプライムビデオやレンタルで観ることが出来るので、今あらためて観賞して欲しいと思います。もちろん、それでも感想は分かれることでしょう。当たり前です。全員にくまなくウケる映画など、この世にはあり得ませんから。

次回は、私が高評価と思う理由を、もう少し内容に触れながらお話ししていこうと思います。

〈次稿につづく〉

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