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怪獣映画の「リアリティ」とは?:ゴジラ-1.0を見て(1)

 「ゴジラ-1.0」を封切り日に見てきました。

 元来ゴジラ映画は大好きで、結構見ているんです。


以前購入したスチール写真のセット。
文春ウェビナーでもお見せします。

 ネタバレ自粛でほとんど感想書いてませんでしたが、もう2週間経ったし、今日から何回かに分けて少し書いてみます。以下ネタバレ含みますので、これからご覧になる方は読まない方がいいかもです。あと、12/1の文春ウェビナーのテーマなので、触りだけ(笑)。






 日本では1954年版「ゴジラ」に始まり、数多く制作された怪獣映画ですが、私の知る限り、架空世界における完全なファンタジー映画として作られたものはなく、その年代の日本ないし世界のいずれかに突然怪獣が現れ、それに人間が立ち向かっていくストーリーになっています。つまり、「現実の社会」に怪獣が現れてくるので、現実の政府や軍事組織の動きも描かれることが多いです。ゴジラだけではなく、「大怪獣バラン」とか「空の怪獣ラドン」でも怪獣が自衛隊と交戦する場面があります。

 この点でのリアリティを強く意識し始めたのが1984年版の「ゴジラ」で、総理大臣のみならず閣僚との会議の場面もあり、さらには冷戦を背景に米国大使やソ連大使も現れ、さらに統幕議長の軍事情勢分析も披露されます。
 ただし、ゴジラシリーズの「ゴジラ対ビオランテ」「ゴジラ対キングギドラ」では、こうしたリアリティを重視した描写はだんだん希薄になっていきます。(むしろ、Gフォースの創設など、「ゴジラが存在する世界線」における対ゴジラ組織を描いていく方向に向いていきますね)

 なお、「平成ガメラシリーズ」では、「怪獣が出現したら自衛隊はどう関わるのか」という点が描き込まれていきます。第1作では、ガメラに対して対空ミサイルを発射する上で国会決議が採決され、第2作、第3作では防衛出動命令が下令されます。
 特撮映画の代名詞であるゴジラでは、その頃までは自衛隊が出動してもどのような権限で武器を使用しているのか明示されていませんでした。私の知る限りですが怪獣映画で自衛隊が武器を使用する上での意思決定まで立ち入ったのは平成ガメラシリーズがはじめてです(なお、あくまで創作ということで、描かれ方の是非についてはノーコメントです)。

 そして、怪獣映画におけるリアリティをとことんまで追求したのが言うまでもなく「シン・ゴジラ」です。本作でも防衛出動命令が下令され、自衛隊が対応に当たります(なお、あくまで創作なので、ここでも描かれ方の是非についてはノーコメントです)。

 さて、怪獣映画は、現実に起こった事件を再現したドキュメンタリー映画ではなく、あくまでも創作です。リアリティを追求することの意味は、現実を描き込んでいくことで、観客をストーリーに引き込んでいくことにあると私は考えています。
 逆に、現実を描き込んだつもりが間違いや違和感につながってしまうと、ストーリーに入れずに逆効果になってしまいます(以前の文春ウェビナーでお話しした、シン・ゴジラの核弾頭の型番違いは私にとってはそういうものでした。他にもありますが。)。

 逆に言えば、ストーリーに引き込まれる範囲でリアリティを描けばいい、ということでもあるでしょう。この点で「ゴジラ-1.0」は、リアリティと虚構の入れ込み方が絶妙でした。
 旧日本軍の兵器とゴジラとの戦いを設定するために1947年という時間を設定し、「幻の新鋭機」である震電まで登場。射出座席というオーバーテクノロジーも登場しますが、見る側としては、そのあたりでは、リアリティというよりも「怪獣映画」として割り切ることができていたので、そのあたりで違和感を感じることはなく、ストーリーに入り続けることができました。

 では、どのあたりで、なぜ、「怪獣映画」として割り切ることができたのか?もう1500字になってしまったので、そのあたりは次にお話しします。

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