画像1

第10回飲茶先生の本について語ろう5

フランケンとの対談
00:00 | 00:00
主題3−2 14歳からの哲学入門
僕からは第五章。
ポストモダンの話を蒸し返したい。
このくだりはだいぶ昔に、フランケン通勤ラジオでやったことがあるんだけど、何度でも話したい。デリダとボードリヤール。
デリダの話は「いまだ金時ラジオ第6回」で触りました。
ボードリヤールの話はフランケンラジオ72、73話でやってます。
まあ、なんだその、全く反響が無い話ではあったんだけど、僕的にはお気に入り。

中でも、脱構築のデリダについては、もうさっぱり何がなんだかわからないわけです。何をどれほど読んでも全く理解できない。当時のインテリ層が「デリダデリダ」と言っていれば格好がついたというのがよくわかる。

その恐ろしく難解なデリダを、すごくあっさりとこの本では解説してくれる。僕が理解したのかどうかは最後まで自信がないが、少なくともわかったきにさせてくれるのが飲茶先生の凄いところだと思います。

さて、
ここからよくわからない話をしますよ〜。

デリダです。

ちなみに、僕は「デリダ=京都人」と覚えている。

どういうことかというと、よく言う京都人のあれです。

「いい腕時計してはりますな」
です。よ。

文字通り「いい時計してはりますな」という意味と、
「さっさと帰れ」という意味も取り出すことができる。
「ぶぶづけいかがどす」も一緒ですね。
「にぎやかでよろしゅおすなぁ」も一緒です。
構造主義というのが、「人間の思考は人間に共通した「構造」に支配されてるよ、この構造っていうのは普遍の真理みたいなもので、この構造を追い求めればいいんだよ。」というものだった。
三角っぽい図形をいっぱい見て、三角とはこういうものだ、という構造を取り出そうとした。
でも、構造を探すっていうのは結局、言語を分析することだった。


デリダは「言葉に「真理がある」というのは思い込みだ。どんな言葉も特定可能な意味を持たない。」
といったんですって。なぜかというと、
「どのような文章でも、その文章の反対の意味を取り出すことができる。」からなんです。

これがさっきの「ぶぶずけいかがどす」なんですよ。

言葉を並べたって、意味なんか特定できない。
物事を並べたったて、構造なんか知りようがない。

「唯一普遍の真理」なんていう構築も、視点をずらして読むだけで別の解釈ができてしまう。

これがデリダ先生の「脱構築」ってやつなんです。なんだそうです。自信なさげにに言いますよ。僕だって飲茶先生の本読んで勉強した口ですから。

デリダの脱構築の手法については、なんか、屁理屈の教科書みたいなことが書いてる。

まず、
・テキストの内部から批判せよ。
文章を批判するときに、全く違った文章を持ってきて外から批判するのではなくて、「あんたの文章は正しいよ。でも、こういう風にも読めるよね」といって全く違った結論を導け、というものです。

「あなたは大人ですね」というコメントは、「そんな子供っぽいことをいうなんて、大人とは思えませんよ」という突っ込みにもとれるよね、って塩梅でしょうか。

次は、
・テキストの前提となっている対立構造を見つけろ。
どんな文章にも必ず「二項対立」が隠されている。善と悪、生と死みたいな対立ですね。
例えば「純愛」というテーマがあるのなら、その二項対立である「不倫」という切り口を持ち出して、
「純愛の美しさを歌う風潮は、実は不倫の魅力を語っているのだ」というやり口です。

言われてみると、理解できますね。このロジックでぶった切る構造。

ツイッターにも、この脱構築手法を用いて、相手をズタボロにして遊んでるネット論客が多数いますよね。これって、原理的に無敵なんで、この手法をわからない人は戦っちゃダメです。

こんな言い方をすると、デリダ先生はただのいやな奴のようだけど、哲学にとっては大事な視点を提供したって飲茶先生は教えてくれるんですよ。

古い合理論の完成系として、ヘーゲルの弁証法がある。
弁証法は「肯定的意見」ってやつに「否定的意見」をぶつけて、より正しい真理に近づくという概念だけど、弁証法っていちゃもんをつけ続けるやり方だから、相手をたたきつぶす方法なんですよ。核兵器をもっている我々は行きつくところ核戦争でしょう。

デリダは脱構築を用いて、意見に対立するのではなく、どんどん違う意味を見つけていって、議論の輪を広げていこうというという考えを持っていた。んですって。飲茶先生によれば。

残念なことに、このデリダの考えは広がることはなく、脱構築を使って屁理屈をこねるブームを引き起こして終わったということです。
あれですね。
何を言っても揚げ足をとって議論をぐちゃぐちゃにしちゃうネット論客みたいですね。

ちなみに、構造主義の後に来たこのポスト構造主義っていうのは、何々主義というような固有の名称がついていない。ポスト構造主義そのものが構造主義の枠組みの上に成り立っているので、固有の名前が与えられなかった。

じゃあ、次に新しい「なになに主義」っていう新しい哲学が来るかというと、これが絶望的に、ボードリヤールが「新しい哲学なんてものはもう来ないんですよ」といって哲学そのものを終わらせてしまう。
このくだりはまさに圧巻なので、ぜひ本を読んでほしい。
(ざっくりで良ければフランケンラジオ72話でやった)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?