鼻歌会話

 人が分かり合えないのはそもそも他人の話をちゃんと聞いていないことに起因するのではないか。たとえば街でふと聴こえてきた音楽の様に、歌詞は出てこないがメロディは分かる。会話も細かい詳細は覚えていないが、雰囲気は思い出せる。口ずさむまではいかないが、鼻歌ぐらいなら再現出来る。そんな適当なコミュニケーションばかりなのだ。しかし、会話には絶対に聞き逃してはならないキメの台詞というものが存在する。曲がAメロ、Bメロからサビへと繋がる様に、これが言いたいがための流れというものが確実に存在する。ディスコミュニケーションが繰り返される日常で、はじめに思うことはいつも同じだ。この人、俺の話をちゃんと聞いているのだろうか?僕が他人にその不信感を抱く様になったのは父がきっかけだった。

 まだ中学生だった頃のある日、日常のストレスが限界点を突破し、感情が爆発した。何で悩んでいたのか今はもう覚えていない。きっと勉強に恋愛、そして全身が毛だらけになっていく大人になるという恐怖。誰もが、一度はなぞったであろう月並みな悩みであったと思う。その僕の苛立ちが家族にも伝播し、家庭内は殺伐としていた。その日、ふとしたきっかけで僕は日頃の悩みを父に打ち明け出した。はじめはいたって冷静に自分の悩みを吐露していたのだが、徐々に平静を保てなくなり、最後の方は号泣と嗚咽を繰り返しながら話をしていた。父は話の最中、真剣な面持ちでずっと黙っていた。僕の話は今の生活の辛さをひとしきり訴えた後、幼い頃の楽しかった日々に移っていた。そして、感情が限界に達した時、叫ぶ様にして言った。

「もうこんな毎日嫌だ!あの頃に…あの頃に…戻れるなら戻りたい!!!」

 少しの間を置いて、父がはじめて口を開いた。

「...へっ?モノレールに乗りたい?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。「もどれるならもどりたい」が「ものれーるにのりたい」になったことを理解するのに時間がかかった。確かにあの時、僕は混乱をしていたし、情緒不安定であった。しかしこの会話の流れでいきなりモノレールに乗りたくなるほど混乱はしていない。半ば絶叫に近い僕の心のシャウトは、ハウリングを起こし、父の耳に残った不協和音は間違った変換をされたらしい。断っておくが、これはその場を和ませようとして父が言った台詞ではない。父は冗談を好む性格ではない。そうなのだ。聞いていないのである。どの段階で集中力が切れたのかは分からないが、きっとかなり早い段階で聞いていない。しかし息子の絶叫に驚き、ここは重要な箇所だと必死に言葉を反芻するも、変換された言葉は「モノレールに乗りたい」。自戒を込めて全ての人に言いたい。お互い大事な会話ぐらい鼻歌ではなく、口ずさめる様になってほしい。

 急にモノレールに乗せられないために。

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