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能登半島地震① カニカマ、ちくわ工場操業停止

2024(令和6)年1月1日の能登半島地震。スギヨ本社や3つの工場がある七尾市は震度6強の揺れに襲われました。工場は天井が落ち、壁が剥がれ、機械が倒れ、断水も続きました。奥能登はさらに甚大な被害を受けています。そんな中、スギヨが何を発信するべきか、またはしないべきか、言葉が見つからないまま、地震発生から4か月が経ちました。ご心配くださっている皆様には、なかなかnoteでお伝えすることができず申し訳なく思っています。

4か月経ったとはいえ、断水が続いていたり、家や道路が壊れたままだったり、地震の傷跡は物理的にも精神的にも生活の中に残っています。最大震度の揺れは1月1日の夕刻に過ぎ去ったとしても、今もまだ能登半島地震のさなかに取り残されている気がします。

被災直後の工場の様子を見た時は言葉を失いました。ですが、これまでに全国からたくさんの温かいお言葉をいただきました。何を語るべきなのか。いまだ迷いながらではありますが、皆様に励まされ言葉にしてみたいと思います。

地震の発生を伝える新聞各紙

365分の1

本社に併設する北陸工場。ビタミンちくわや加賀揚などの揚げ蒲鉾を作っている。この日は元日のため、工場には明日の仕込みをするために20人ほどがいるだけで、静かな1日だった。事務所で仕事をしていた副工場長の荢坪(うつぼ)晃は、今日の仕事を終え元日に出勤してくれた工場の社員をねぎらってから帰ろうと立ち上がった。その時、突然、今までに体験したことがない大きな揺れに襲われた。

「柱につかまっていないと、立っていられなかった。まさか元日にこんなことになるなんて信じたくなかった。でもこれが現実なんだ、と思うと呆然とした」

荢坪は揺れが収まるとすぐに、工場にいる社員の様子を見に行った。安否を心配しながら工場内を回った。全員の無事を確認し、怖がる従業員たちに声を掛けて駐車場に避難した。事務所の天井が一部落ちていたが、動揺していたのかそのことに気が付かなかった。

一部天井が落ちた本社事務所

いつもは、事務所と工場を合わせ約300人が勤務しているが、1月1日だけは例外で、年に1度の休業日だった。

「もしこれが平日だったら・・・。地震当日は誰もいなかったが、天井が広範囲に落ちたのは、いつもなら人がたくさん働いている場所だった。火も油もガスも使っている。どんなに大きな被害になったか」

365分の1の確率で人的被害を免れたが、北陸工場が大きな被害を受けたことには変わりはない。工場長の古川竜太朗は、これから工場をどうやって立て直せばいいのか頭を悩ませ、いつ生産が再開できるのか不安になった。

七尾市内にあるカニカマを製造する商業団地工場と、伊達巻などを製造する関連工場(株式会社能登半島)は、元日のため休業し従業員は出勤していなかった。

本社に併設する北陸工場。ちくわ、揚げ蒲鉾などを製造
カニカマを製造する商業団地工場
伊達巻などを製造する関連工場(株式会社能登半島)

車の中で一晩

社長の杉野哲也は発災当時、七尾市内の自宅にいた。緊急地震速報が鳴り、テーブルの下に潜るよう孫に言おうとした時、孫はすでに潜っていた。普段の学校での訓練で地震の際の行動は身についていた。
大津波警報が鳴り、携帯電話と鍵だけ持って16時30分に車で家を出た。本社に行こうとしたが橋が寸断され断念せざるを得なかった。社員に電話し、被害状況を確認した。

道中、家々の塀は崩れ地割れもしていた。危険を感じ車の中で一晩過ごし、翌朝4時にようやく帰った。火事が恐かった。2階はガラス割れたり家具が倒壊したり壁に亀裂が走ったり、自室にも行けなかった。

同日、なんとか本社や関連工場にたどり着き、自分の目で被害状況を初めて見た。2007(平成19)年の能登半島地震とは比べ物にならないほどの被害だった。
それでも、うろたえるわけにはいかなかった。スギヨは約700人の従業員を抱えている。その一人ひとりの生活を守るために、杉野の心はすぐに決まった。

「起きてしまったことは変えられない。今は一日も早く復旧することに集中するしかない」

対策本部を設置

1月3日に対策本部設置した。社長の杉野哲也を本部長、専務の杉野浩也を副本部長として、経営企画室、製造、営業、開発、調達、品質保証、物流などの各部署から人員が集められた。やることは山のようにある。毎朝8時30分から復旧進捗ミーティングが開かれることになった。まずは被害の全貌を明らかにするため、被害の場所と程度の確認を早急に進めることとした。

毎朝行われた復旧進捗ミーティング
訓示を行う社長の杉野

1月4日。例年ならば新年祝賀式が開かれる予定だった。年末の仕事納めの日に準備していた紅白の垂れ幕は外され、冷え切った事務所で地震対応に向けた社長訓示が行われた。

「会社として全従業員の命と健康が第一だ。皆さん大変な思いをしていると思う。困ったことがあったら何でも言ってほしい。復旧まで一緒に頑張ろう」

断水でトイレも使えない。この日は2時間ほどでほとんどの人が帰路に着いた。

石川県の馳知事(左)に被害状況を説明する杉野(2月9日)

杉野にはスギヨの工場復旧だけでなく、いかにして能登を復興させるかという大きな課題がのしかかっていた。スギヨの社長であると同時に、七尾商工会議所会頭であり、石川県食品協会会長でもあるからだ。

「まずは工場を動かすことが地域経済の活力になる。同時に、能登を復興させるための支援を最大限にしたい。目先の復旧ではなく、これから10年、20年、30年先を見据え、能登の復興を描き実現していく」

実際、この時期に杉野を社内で見かけることはほとんどなかった。国や県との交渉に動いたり、社外の会議に出席したり、能登の産業の中核ともいえる和倉温泉の再興について話し合ったりと、工場の復旧は信頼する社員に任せ、自分は能登全体の復興に焦点を合わせていた。

今できることから

すぐにスギヨができたことと言えば、どれも小さなことではあるが、断水が続く中で地下水を住民の方々に開放した。工場敷地内には地下水が湧いており、水を汲むことができた。工場で水が使えなかったのは、地下水を工場内に運ぶ配水管が壊れたためだった。9時~15時まで開放すると、ポリタンクを持った人たちが集まった。社員も会社で水を汲んで家に持ち帰り、生活用水にした。
倉庫には製造していたレトルトおでんがあった。12,000食を社員が避難所へ運んだ。
耕作放棄地を畑にして農作物を育てているスギヨファームも、農道の地割れや配水管の故障などの被害があった。1月11日には、冷蔵庫が壊れ保存できなくなったキャベツやニンジンを、希望する住民の方々に配布して、避難所での炊き出しなどに使ってもらった。

本社敷地内の給水所
おでんを避難所に運ぶ社員
避難所に積まれたおでん
保管できなくなったキャベツを配布した

「能登のために今できることを」という杉野の思いを、社員たちが次々に実行に移した。それは自宅が壊れ、避難所で生活している社員も同じだった。


次回「私にもできること」









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