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小野寺ひかり『りんごの祈り』

小野寺ひかりの文芸誌Sugomoriへの寄稿作品はこちら。『眠いけど食べたい』★月間PV1位『言えない肝心なこと【全編無料】課題図書レビュー②『小野寺ひかり スケッチー』  2020年8月号編集長
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夕焼けに包まれたホームで絢子はそっと足元に目を落とす。美しいものを直視するのを避けたかった。まるで夕空が罰しているような気持になってしまうのだ。絢子は、淡いピンク色のヒールのつま先が汚れているのに気が付く。年齢の割に可愛いものを買ってしまったかもしれない。そんな風に気を取られてしまったせいで、絢子の向かいから歩くスーツ姿の男性とどん、と真正面から体当たりの形になった。無防備な絢子が、下がっていた頭をさらに下がる。

「あ、す、すみま」

――。

かすれた声の謝罪を言い終えるより絢子の耳には舌打ちがはっきりと響いていた。男はそのまま絢子の言葉をすり抜けるようにして、人ごみに消えていってしまった。

「あ、あの」

絢子は紙マスクの鼻の位置を再度確かめて、群衆に消えた男の背をみすえた。

「すみません」と人ごみに頭を下げる。

長めのポニーテールが、背中でしずかに上下した。マスク越しの声は遠くまで届くことはないが、トレンチコートから伸びた白いパンツ姿。すらりと長身の絢子の立ち振る舞いは目立つ。歩みを止めるものはいないが群衆の視線が、絢子にそそがれた。しかし、絢子は周囲の状況にびくともしないでいた。

頭を下げながら汚れたヒールのつま先を再び観察し、泥汚れであることに気づいていた。ああ、青山さんのダックスフントの「コロ」に肉を持っていったときか、いや、村田さんのブルドック「権三郎」の時かもしれない。いや、オウムの「チビ」に噛まれたときの可能性もある。どちらにせよ夜の訪問だから、泥へ足を踏み入れたことも気づかなかったのだろう。絢子は自分でうっすらと納得し、そのまましゃがみ込むような体制で、固まった泥をカリカリとはがす。人差し指には今は絆創膏が貼られていた。これはオウムの「チビ」がいた鳥かごに、指をいれたときにがぶりとやられたときのものだ。ずきんと痛みを思いだす。

――番線ホーム――次の列車は宇都宮線直通……

――今帰るところだから、はーい

――電車なので折り返します。失礼……

すでに周囲の視線はもう消えていた。異質だったはずの絢子は日常に溶け込んでいる。

絢子は、首元に巻いたスカーフをなでつけた。気持ちを切り替えるのに絢子はいつもそうしていた。イタリアの風景が描かれた派手なスカーフは、母の遺品だ。

先ほどの行動は過剰な謝罪であることは絢子にとって理解していたが必要なことだった。誰かを不快にさせたなら謝らなければいけない、理念が彼女を支配していたといっていい。ゆっくりと身を正すともとの道に戻る。人々のよく動く、かかとの動くさまを見ながら、改札をぬけ、帰路へと向かう途中だった。

「ねえ、あなた!ちょっと。そこの人!」

「え」

絢子が振り返るとブルドックの「権三郎」を連れた、高齢女性が手招きしている。絢子は合点する。ああ、この人が村田さんか。権三郎に似てどこか不貞腐れた印象を受けながらも、

「あなたでしょう。いつもいつも、いつも。うちのゴンにどうしてエサをやろうっていうの。この子は体重も制限しないといけないってお医者様から言われているの。勝手されたら困るのよ」

 矢継ぎ早に村田さんは絢子を責め立てた。

「す、すみません」

絢子は突然のことに、思わずあとずさる。しかし、女性は犬のリードを片手に絢子の肘をがちりと掴んだ。

「わけを話しなさいよ、わけを」

「あ――」

可哀想だから。濃い緑色をした壁の家には一匹の犬がつながれていた。犬は何も言わぬが、犬の気持ちがよく分かる。お腹を空かせて、可哀想だ、可哀想だ。

絢子の心は、ざわついていた。それは遠い過去からの囁きのようでもあり、自分の叫びのようであった。耳をふさごうとすればするほど、ざわめきはただただ胸の内で広がっていく。時としてそれは、絢子をためらいもなく傷つけた。とうがたった絢子にとって、己の声に打ちひしがれることの無意味さを頭では理解していたが、もう限界であると察した瞬間において、深い愛情を込めた優しい甘美な言葉に変化して彼女を癒すことがあった。飴と鞭を巧みに使いわける、掌握術に優れているというべきなのか、どちらにせよ彼女を悩ますことに変わりはなかった。

だからエサを与えてあげないといけなかった。絢子はそう考えている。今もまた、可愛そうな権三郎の姿が目の前にある。

絢子は、ぐにゃりとゆがんだように感じると、思わず膝から崩れ落ちてしまった。強くつかまれた肘がぱっと放されて、まるで自分以外の存在が消えてしまったような孤独が襲う。母の遺したスカーフを握りしめる。

 「エサをあげたいからあげているの」
言ってしまいたかった言葉を飲み込んで、村田さんの手を振りほどき絢子は走り去った。それからも絢子は他人のペットにエサを与え続けることをやめはしなかったが、しばらくして「権三郎」は犬小屋から姿を消していた。

村田さんと再会したのは季節の移り替わった、冬のいちょう並木でのこと。神社の参道で、まるで絨毯のようにいちょうの葉が落ちているだった。
ギンナンを踏むんじゃないかとひやひやした足取りで、注意を払う絢子の背に言葉が投げかけられる。

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