バイブスの話

どうも。

バイブスの話をします。バイブスという言葉は随分抽象的ですが、最近はそういう抽象的な話をたくさんしたくなっているのです。


昨日大学の頃のサークルの定期演奏会があり、ありがたいことに後輩たちが、僕がボーカルを勤める提婆達多というバンドのコピーバンドをしてくれました。

それにですね、かなり喰らいましたね。

それぞれのメンバーに対して、ちゃんと練習してきたんだなとか、ライブ映像とか観てくれてるなとか思ってかなり熱い思いが込み上げました。

ただ、僕が特に喰らったのはバンドアンサンブルとしての姿勢ですね。

自分のバンドのコピーバンドだからこそ、それぞれの緊張やプレイスタイルから生まれるオリジナルとの違いがすごく実感出来て、そのブレこそが彼らのオリジナリティでありカッコよさだなと感動しました。
オリジナルの時には聴いたことのないアレンジが入っていたりして、それは彼らなりのオリジナルメンバーならこうアレンジするだろうというリスペクトなのかもしれないし、自分が提婆達多に入ったならこうするという遊び心なのかもしれないし、いずれにせよそういうライブでこそ発生するそれらにめちゃくちゃ昂りを感じたわけです。

というかそもそもの話先輩後輩の関係なんだからtab譜もらうなり質問するなりすれば完コピなんてすぐできるんですけど、何故か彼ら耳コピするし、本人の出番観たら後で質問しに行けばいいのに、演奏している足元見てエフェクトの考察をコピバンのギタリスト同士で共有しているし、文字通り愚直というかなんというか…。

でもそういう効率とか無視した、愚直さだとか熱狂がもつエネルギーこそが心を動かすのだと最近は思うのです。制限があるからこそ生まれる表現手法があるというか…。
根性論かもしれないですが、多少無茶して得たものってすごく意味のあるものになることが多いと思っていて、その言葉で言い表せない何かが“バイブス”のひとつだと思っています。

話は少し変わってしまいますが、先述の後輩たちの定期演奏会の前日に、同サークルのOBライブがありました。その打ち上げで自分よりいくつも上の大先輩と「ここまで来るともう技術の話とか嫌じゃない?」という話が共有できて嬉しかったのですが、その話もこの効率無視のエネルギーの先にある話として、通ずる部分があると思います。

もちろん練習や技術はとても重要ですが、その先で何が違いを生むのかという話です。
憧れの存在がいて、それを目指して成長するのは尊いことですが、そこに自己実現の意味合いがどれだけ含まれているのか。それだけ何かを目指しても残る自分らしさというものこそが音楽における自己実現であり、それがひとつの“バイブス”なのではないかと思っています。

結論、バイブスというのは究極その人そのものであって、思想やライフスタイル、精神状態など客観的な技術を超えた先にあるものなのだと今の時点では思っています。

毎度の事ながらあまりよくまとまっていない文章になってしまいました。最近はこういう気持ちでライブをしています。みんなとこういう魂の話がしたいです。しましょう。

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