山地に住む「原イスラエル」の登場(どのようにして聖書は書かれたのか #08)

今回は、紀元前1300年頃から1200年頃までの話をします。

紀元前1300年代の混乱したパレスチナの地で、行き場を失った牧羊民や農民、逃亡奴隷たちが、自衛と自給自足のために集まり、やがてその中から「イスラエル」と自称する集団が現れたのでしたね。彼らは「原イスラエル」と呼ばれることもあります。

さて、以前も説明したとおり、紀元前1200年代に入るとパレスチナはエジプトの支配下に入り、長く続いた混乱は一応のところ収束します。しかし、「原イスラエル」は共同体として存続していきます。彼らはカナン人の都市国家群の影響圏を逃れて、それまでほとんど人の住んでいなかったガリラヤ山地・サマリア山地・ユダ山地・ネゲブ北部などの、山の尾根や丘の上などに定住しはじめました。考古学的発掘により、これらの定住地には以下の特徴があったことが分かっています。

①20~50軒の家屋が集まった小規模な居住地。ほとんど防壁はない。
②神殿や宮殿など、政治的な支配システムがあったことを伺わせる建物はない。家屋の大きさはほぼ同じであり、社会階級の分化や格差はなかったようだ。
③家屋の構造はカナン人とは異なる。家屋群の配置は牧羊民のテント配置と類似している。
④出土した土器などの形式には、カナン人文化の影響がみられる。
⑤穀物の栽培と牧羊とを並行して行なっていた。おそらく基本的には自給自足していた。
⑥豚を飼育したり食べたりした痕跡がない。
⑦紀元前1200年頃、山地の東から西に向かって、同時多発的に居住地が増えていく。

上記③・④・⑤は、この居住地の住民が、牧羊民も農民も、カナン人も非カナン人も混ざり合った、多様な集団であったことを示唆しています。また、①や②からは、王や軍事的指導者を持った中央集権的・好戦的な集団ではなく、あくまでも自給自足のために定住していたことがうかがえます。

これらの居住地群は、やがてイスラエル民族の都市・農村へと成長していきます。人々の大規模な流入の痕跡がほかに発見されていない以上、これらの居住地に住んでいた人々がイスラエル民族の祖先、つまり「原イスラエル」であったことは明らかです。そう考えると、上記の⑤などは興味深い事実です。というのも後のイスラエル民族は周辺の他民族と異なり、豚を飼育したり食べたりすることをタブーとしていたからです。豚は羊や山羊などよりも後になって家畜化された動物ですが、「原イスラエル」の牧羊民には新たなテクノロジーの産物に対する忌避感があったのかもしれません。

なお、例の居住地群の住民みんながイスラエル民族の祖先となったわけではない、ということに注意しておきましょう。彼らのうちで、同じ信仰、同じアイデンティティを共有するにいたった人々が「原イスラエル」と呼ばれます。そうでない者たちは原イスラエルに加わることなく、やがて他の民族の中に吸収されていきました。それでは「原イスラエル」が共有していたのは、どんな信仰だったのか、どんなアイデンティティだったのか、これらのことについて次回以降考えてみましょう。

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