文明のはじまり(どのようにして聖書は書かれたのか #04)

今回は、紀元前3000年頃から1600年頃までの話をします。

イスラエルという民族ははじめから一つのまとまりとして存在していたわけではありません。縄文人やら弥生人やら渡来人やらが混ざりあって、日本人という民族が徐々にまとまってきたのと同じように、長い歴史の中でだんだんとイスラエルという民族が形成されていったのです。これからしばらくは、その過程を追っていきます。しかしその前に、イスラエルを東と西から挟み込む二つの文明、すなわち世界最古の農耕定住文明であるメソポタミアとエジプトについてふれておかねばなりません。というのも、当時の世界でもっとも先進的であったこの2つの文明から、イスラエル民族は多大な影響を受けてきたからです。

現在は中東とかオリエントと呼ばれる地域は、地球で最も早くから文明が育まれたところです。まず紀元前3000年頃の青銅器時代、ティグリス川・ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア(現在のイラク)にシュメール人たちが都市国家を建設しはじめます。彼らが用いていた太陰暦や1週7日制は後にイスラエル民族にも伝わります。しかし、それにもましてイスラエル民族に強い影響を与えたのは、シュメール人たちの宗教と神話でしょう。

シュメール人たちは都市国家に定住するよりもずっと昔から、最高神を中心とする独自の多神教を信仰し、たくさんのシュメール神話を口伝えで受け継いできました。楔形文字が発明されてからは、粘土板にこれらの神話が記録されます。特に有名なのは、シュメールの都市国家ウルクの王とされる英雄ギルガメシュについての神話「ギルガメシュ叙事詩」でしょう。ここには、旧約聖書の『創世記』に登場する「エデンの園」や「ノアの箱舟」のモデルとなった話が残っています。他にも「天地創造」や「アダムとエバの創造」「バベルの塔」「モーセの誕生とナイル川からの救出物語」などなど、旧約聖書に描かれる重要な物語の原型がシュメール神話にはみられます。

シュメールの神話と信仰は、後にメソポタミアを支配するさまざまな文明に受け継がれるにつれて発展し、壮大な神話体系を形作るに至ります。そして、紀元後3世紀頃にいたるまで実に数千年もの間、メソポタミア全域において最も支配的な宗教であり続けましたメソポタミアの西隣りに住んでいたイスラエル民族がその影響を受けないはずがありません。旧約聖書では、イスラエル民族の父祖とされるアブラハムの出身地は、シュメール文明の中心地の一つであるウル(現在のイラク Nasriyah近郊)ということになっています。このあたりにも、文明の祖としてのシュメール文明に対する羨望と敬意とを読み取ることができるでしょう。(ただし、この「ウル出身説」の背景には、バビロン捕囚期にパレスチナへの帰還を願った人々の希望が織り込まれているという説もあります。また後ほど触れます。)

さて一方、エジプトでは紀元前2600年代に早くも中央集権国家が形成されます。首都メンフィス(現在のエジプト Giza近郊)を中心に、王ファラオが国全体を支配していました。「エジプトはナイルの賜物」という言葉のとおり、ナイル川の肥沃なデルタ地域に支えられ、太陽暦や象形文字を用いた高度な文明でした。エジプトも独自の多神教を信仰しており、主神は太陽神ラーといいます。有名なギザの三大ピラミッドが築かれたのもこの頃です。

紀元前2300年代になると、メソポタミアでも都市国家群を束ねあげた中央集権的な統一国家が誕生します。シュメール人に代わってアッカド人が支配階級となりました。彼らの神話、アッカド神話は、その大部分がシュメール神話を継承したもので、神々の名前もシュメール神話と似ていたようです。

紀元前2000年代、エジプトでは首都がナイル川中流域のテーベ(現在のエジプト Luxor)に移ります。テーベの守護神アモンは、後に太陽神ラーと一体化し「アモン・ラー」としてエジプトの神々の主神とされました。アモンを祀る神殿の神官たちは絶大な権力をふるい、ファラオの権威をしのぐほどであったともいわれます。

紀元前1900年頃から1600年頃にはアッカド人に代わってアムル人(旧約聖書ではアモリ人とも)がメソポタミアを支配します。首都はバビロン(現在のイラク Hillah近郊)。それゆえ、彼らの国は古バビロニア王国と呼ばれます。有名な「ハンムラビ法典」が編纂されたのもこの頃です。これはシュメール時代から受け継がれた法典の集大成で、「目には目を、歯には歯を」の言葉は旧約聖書にも引用されています。また、この古バビロニア王国もシュメールの信仰と神話を受け継いでいました。

さて、ここでパレスチナに目を転じてみましょう。この頃のパレスチナには、まだイスラエル民族はひとりも住んでいません。はじめにパレスチナに住んでいた先住民族は「カナン人」と総称されます。彼らの多くは北のレバノンに住むフェニキア人と同系統の人々で、中にはアムル人も混ざっていたようです。古いもので紀元前3300年頃の定住の痕跡も残っているようですが、紀元前2000年頃になると、パレスチナの沿岸部や平野部、山間の平地部にカナン人による都市国家が建設されはじめます。これらの都市国家群は紀元前1800~1600年頃に、バビロニア王国とエジプトとのはざまで繁栄を迎えます。カナン人たちは主に農耕を営み、天の神エルや豊穣の神バアル、豊穣の女神アスタルテなどを崇拝していました。

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