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憧れと執着、音楽の話

 幼稚園の頃、友だちの家に遊びに行ったら、子ども用のドレスが飾ってあった。いまでも覚えている。明るいピンク色の、裾の長いキラキラしたドレス。綺麗で可愛くて、ほんとうに羨ましくて、何度も着せてほしいとねだった。友だちの物なのだから、当然嫌がられた。その後どうしたか忘れてしまったけれど、わたしの家にドレスが存在したことは一度もない。

 恐らく家に帰ってからも、ドレスが欲しいと何度も言った気がする。母親の返事はいつも同じ。すぐ着れなくなるでしょ、と。4歳5歳なんて身長は伸びるし体重も増える、特にわたしは好みもころころ変わるタイプだった。そんな一瞬のために、使いどころのないお高いものは買えない。いまなら、わかる。

 けれどもまさか、大人になってまで憧れているとは思わなかった。ウェディングドレスによくあるパニエを入れたふわふわでもなく、お呼ばれのパーティドレスでもない、シュッと細身の引きずるほど長いロングドレスを着てみたい、なんて。

 大学生になり、音楽科の知人の演奏会を聴きに行った。ステージに立つ美しい女の子たちは、綺麗なロングドレスを身に纏って凛と立つ。色とりどりのドレスを見て、演奏が始まる前から、劣等感でいっぱいになった。実力も立場も込みで、わたしはあの場には立てない。

 中高と吹奏楽部でオーボエを吹いていた。同じ部活の子たちは大半が演奏を辞めたけれど、わたしは大学でオーケストラのサークルを選んだ。まだ楽器を触っていたかった。いつ満足するのか、自分でもわからないまま。

 高校卒業後に吹奏楽のメンバーと顧問の先生と集まった時、先生がボソッと「あなたは音大に行きたかったでしょう」と言った。衝撃だった。わたしの進路に音大の文字が出てきたことは一度もない。オーボエは好きでも、趣味程度で続けるものと考えていた。だから一般大学で、オケのサークルを選んだ、のに。わたしは音大に行きたかったのか。

 音大が選択肢にすら入っていなかった理由は、ピアノの経験がないから。音大入試というのは、専攻楽器とピアノの両方を演奏することがほとんどだ。そしてピアノはみんな、小さい頃から習っているもので。スタートラインにすら立っていなかった。進路として思いつかなくても不思議ではない。

 例のドレスの家の子はピアノを習っていて、わたしが見たドレスも発表会用だった。遊びに行くたびにピアノを触らせてもらったし、習いたいと懇願したこともある。こちらも返事はいつも同じ。練習しないでしょ、と。毎日コツコツ練習ができる子どもではなかったことは、自分でも理解している。これは結果論だけれど、結局トータル十年ほどオーボエを吹いた。ここにピアノがあったら、なにか変わったかもしれない。

 ドレスへの憧れは、音楽への執着だ。ここまで好きだと自覚したのは最近だけれど、わたしだけが気づいていなかったようにも思える。大学を卒業し、就職したので音楽は一区切り。久しぶりに楽器を出してみたら、毎日演奏していた頃には届きもしない。それでも楽しかった。音が鳴ること、息遣いを覚えていること、やわらかく響くこと。十年間、好きで居続けた音だった。

 小さな夢がある。いつの日か、音楽会をやりたい。仲の良い友だちや先輩後輩、お世話になった先生に声をかけて、楽器を持ち寄って、好きな服を着て。笑いながら、お喋りしながら、懐かしい音楽を奏でる。未経験なら楽しむ気持ちだけ持って来てくれたらいい。いっぱい笑えたら、それがいい。

 わたしはきっと、選りすぐりのロングドレスを用意して、オーボエを演奏するだろう。昔には戻れなくても、やるせなさが押し寄せても。憧れを叶えて、執着を手放す。自分の力で、いつか。

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