花子の一生

第8章 「夫婦善哉」

#創作大賞2023
#オールカデゴリー
#人類愛

その年の夏は、三十年振りの猛暑と言われていた。

 政夫が、新聞社を定年退職してから十五年が過ぎようとしていた、その年の夏、政夫は心臓が原因で倒れた。

 無論、年老いたせいもあるが、若い頃に散々飲んだ酒と、チャ子の忠告も聞かずに吸っていたタバコが原因で、全身の血管がボロボロになっていた。

 倒れる半年前、居間で転んだ政夫は大腿骨を骨折し、救急車で近くの総合病院へ搬送された。今まで、病気など患った事がない政夫は、初めて乗った救急車の中で、ワシは死ぬんかぁ。と、珍しく弱気になっていた。

 それを聞いた隊員が、呆れた口調でこう言った。

 「骨折で死んだ人はおりませんよ」

 「医者でもないお前に何が分かるんじゃ!」

 政夫の、逆まく怒涛に隊員達も困惑の表情を浮かべ、一緒に乗っていたチャ子も慙愧に堪えない表情を浮かべた。

 「お父さん、なんて事言うてぇんの。一生懸命してくれてはんのに。ほんま、頑固ですみません」

 チャ子はそう言って、隊員達に何度も頭を下げた。

 自宅から十分ほどで病院に着くと、既に救急外来専用の扉が開き、看護師と医師が待ち構えていた。隊員が慣れた手つきで政夫を院内へ搬送すると、担当医に状況を説明した。
そんな雰囲気に気後れしたのか、政夫は急に静かになった。
担当医の指示で、看護師数人が政夫をストレッチャーに乗せたまま、ありとあらゆる検査をし、終わった頃には既に日が落ちていた。

 手術の日程、治療やリハビリの説明をされたチャ子は憔悴しており、目線が床の方へと下がっていった。それを察したのか、担当医も説明を早めに切り上げ、政夫とチャ子を個室へ案内するよう看護師に指示を出した。

 その日は、政夫の希望でチャ子が付き添う事となり、簡易ベッドを用意された。

 「なんや、新婚さんみたいですねぇ」

 新人看護師が笑顔でそう言うと、政夫は間髪おかず、こう言った。

 「何が新婚さんやねぇん。嫁と畳は新しいほうがえぇに決まってるがなぁ」

 「こっちかて、同じですわ。旦那と絨毯は新しい方がえぇんです。あんた、古い絨毯に足ひっかけて骨折したんやで!古いから」

 頓知の効いたチャ子の返しに、新人看護師が目を丸くして感心していた。

 「えぇですねぇ。うちの親は、私が小学生の頃に離婚したから、お二人を見てると、なんや羨ましいです」

 新人看護師が、そう言って笑うと、二人はそれ以上喧嘩をする気にはなれず、お互いに顔を見合わせ苦笑した。

 入院した七階の病室からは、山肌に建っている夥しい数の家の灯りが大きなクリスマスツリーに見え、チャ子と政夫は病院だという事をすっかり忘れて見入っていた。
すると、政夫がチャ子むかって、こう、呟いた。

 「お前と二人きりで過ごすのは久しぶりやなぁ」

 「ほんまですねぇ。仕事にかこつけて、いっつも、飲み歩いて家に寄り付かんかったさかい、あんたは」

 「寄り付かんって、お前、人聞き悪いなぁ。あの時は、わしも必死やったんやで。出世して、少しでも家族にいい暮らしさせてやろうと思うて。ほんまやで」

 そう言って笑った政夫の顔に細かく寄ったシワを見たチャ子はなぜか誇らしい気持ちになった。

手術を終えた二週間後、政夫は退院した。

 病院を出る前にチャ子だけが主治医に呼ばれ病状の説明を受けていた。その内容が意外なものでチャ子の心は鉛のように重たくなった。

 「旦那さんが転んだのは、おそらく、つまずいただけやないと思います。全身の動脈硬化がかなり進んでいて、転んだほんまの原因は心臓やと思います。虚血のせいで、一瞬気を失ったんでしょう。本人さんも自覚はないと思います。一度、しっかり精密検査をして治療に入っていきましょう。ただ」

 ただ。

 主治医は口籠った。

 「ただ、なんですか?」

 チャ子は気丈に尋ねた。

 「頚部の血管がかなり細くなっていて、脳梗塞などの心配があるんです」

 神妙な面持ちでそう言った主治医の言葉でチャ子は大体の検討が付いていた。

 「分かりました。次はいつ来たらえぇですか?」

 「本当はこのまま退院せずに検査をしたいところですが、旦那さんの気性を考えると、一旦、ご自宅に帰られた方が良いのではないかと思います」

 たった二週間、診ただけの患者の是非を了知した主治医にチャ子は心から感謝した。

 その通りだった。

 政夫は以外に気の小さな所があった。このまま、次の病を知らせ、入院を続行すれば、精神的に参る事は明確だった。
主治医に対する信頼感を得たものの、先行き分からぬ政夫の病状と、何より、再び検査入院を余儀なくされた事実を告知する事が、チャ子を気鬱にさせた。
杖をつきながら自宅に入った政夫は、余程嬉しかったのか、玄関先で鼻を動かしながら言った。

 「やっぱり家はえぇなぁ。我が家の匂いや。決めたで!ワシは死ぬときは畳の上で死ぬでぇ」

 政夫はそう言って大声で笑った。

 政夫がいつ転んでもすぐに支えられるようにと、後ろにいたチャ子は悲しい表情で無音のため息をついた。
玄関で政夫の帰りを待っていた花子は、精彩を欠いた母親を見て、父親に何が起こっているのかを瞬時に悟ると、作り笑いで二人を迎えた。

 「お父ちゃん、お帰り」

 「おぅ。来てくれてたんかいな。ありがとうさん」

 花子は、政夫の脇を持ちながら、ゆっくりと中へと入って行った。

 まだ、ぎごちない動作の政夫は花子の肩に手を置き、退院に間に合うようにと恵子が買ってくれていた、ソファーに座った。

 「ほぉ。ソファーもえぇもんやなぁ。有難いなぁ。皆んなにえらい迷惑掛けてもぉて、ほんますんません」

 政夫はおどけて敬礼をした。

 自宅に戻れた事が余程、嬉しかったのだろう。

 花子は、そう思いながら、屈託無く笑う政夫を見ていた。
けれど、玄関先で見たチャ子の浮かない気鬱な表情がどうにも引っかかって取れなかった。

 夕飯に間に合うようにと、同僚に無理を言って夜勤を代わって貰った恵子も帰って来た。
久し振りに家族が揃った事への嬉しさと、深謝で、政夫は気勢が上がり、酒の量も多くなってきた。
看護師の恵子も、手酌してまで飲もうとする酒を何度となく取り上げたが、政夫は無礼講だと言って飲み続けた。

 そんな政夫を黙って見ていたチャ子が微笑みながら何か言おうとしていたのが花子には分かった。
普段であれば、政夫が許容範囲の酒の量をせがむとなら、怒気が怒気を帯びて一括されるところだが、そうしないチャ子に、花子は胸騒ぎがした。

 すると、チャコが静かに口を開いた。

「お父さん。また検査入院を、せなあかんから、もう飲んだらあかんよ」

 「何を言うてぇんねん。わしは今、退院してきたばっかりなんやでぇ。アホな事言うな」

 そう言った政夫の表情が少し強張っているのが花子には分かった。

 「お父さん、心臓が悪くなっとるんやてぇ。その他にも、全身の動脈硬化が進んでいて、脳梗塞の可能性もあるから、きちんと治療しましょうって、先生が。だから、お酒はしばらくお預けや」

 チャ子の言葉に驚いた花子は、なぜか恵子を見た。
しかし、恵子は驚くほど冷静だった。職業柄からか、以前から承知していたように見えた。
そして恵子は、やんわりとした口調でこう言った。

 「お父ちゃんくらいの年になると、皆な、そんなもんなんやで。ちゃんと検査してお薬を飲んだら、普通の生活が出来るのやから、あんまり深刻な事ないんよぉ」

 恵子の言葉が効いたのか、政夫は静かにグラスを置いた。

 花子は、愛子が死んだときの事を思い出し、危惧したと同時に、自分の周りの大切な人が、少しずつ指の隙間から落ちて無くなっていくのではないかと身がすくんだ。
同じ状況が、いつまでも続かない事くらい花子にも分かっていた。けれど、せめて遠い先であってほしいと思った。
それは、愛子が煙になって空に溶けていった時、心の中で願った事だった。

「もうこれ以上、誰も溶けてなくなりませんように」

青い空に白い煙が溶けていく光景が、花子の古傷となっていた。
花子は政夫を上目遣いで少しだけ見ると、驚くことに政夫は笑っていた。
笑って、震えた手でマグロの握りを摘んで食べた。

 「やっぱり、寿司はマグロが一番やなぁ」

 そう言って笑った政夫の手は、まだ微かに震えていた。

 花子は体の中が熱くてたまらない感覚になり、身の置き場がなくなった。物心がついて、父親だと認識した時の政夫は若くて血気盛んだった。
泥酔して帰って来ても、翌日には朝早くからデスクで記事を書き、タバコをチェーンスモーカーのようにいく箱も吸い、それでも元気で笑っていた。
それなのに、今、自分の目に写っている政夫は、あまりにも細くて、弱々しくて、覇気がなくなっていた。

 学生の頃から、負けん気が強く、ジャックナイフと呼ばれるほど、勝気で自由奔放で、それでいて節義があった姿など、目の前にいる政夫には微塵も感じられなかった。

 その、ふかふかのソファーにもたれている、鼠色のスゥェットを着ているその人を、花子は凝視できなかった。
それからしばらくして、政夫は再び検査入院をする為、病院に入った。
今度の病室は増築した新館の特別室だった。

 そこは、一日二万もする高級な個室で、普段はお偉いさんが泊まる為に空けてあるのだが、チャ子が頼見込んで使用できる事になった。

 その事を知った政夫は、家計のことを心配して、大部屋でいいから。と、チャ子に言った。

 無論、本心ではない。

 けれど、今まで散々苦労をかけた妻にこれ以上の迷惑をかけたくはなかったのだ。
しかし、チャ子は敢えて、それを突っぱねた。説得する政夫にチャ子は笑いながらこう言った。

「なぁ、おとうさん、覚えてる?退職したら私を海外旅行に連れて行ってくれるって言うてましたなぁ。二人きりで旅行したんは新婚の時以来やから、仕事辞めたら必ず行こうなぁ。って。忘れたん?二人とも年とってしまったから、海外は無理やけど、私はこの特別室で十分ですわぁ。行った事ないけど、ここから見える夜景はイタリアみたいやない?」

チャ子は笑顔でそう言った後、大きな窓から見える夜景を幸せそうに眺めていた。政夫もベッドの上から夜景を見ようとしたが、ぼやけて見えなかった。

 その瞬間、政夫の大きな目から涙が次から次と湧いては落ち、真っ白なコットンの布団に丸いシミが出来た。そして、そのシミは段々と広がって大きくなっていった。
チャ子は分かっていた。政夫が泣いている事を、背中で感じ取っていた。
だから、敢えて振り返らず、夜景を眺めていた。長い年月をかけてできた夫婦の阿吽の呼吸のようなものだった。

「出雲の神の縁結び」

 政夫は小さく呟いた。

 それを聞いたチャ子は、相変わらず政夫に背を向けたまま、窓からキラキラと輝く夜景を眺めながら幸せそうに微笑んだ。

政夫が入院している間、花子は毎日病室を訪ねた。
結婚してから、こんなに長い時間を二人で過ごした事がないと政夫は笑いながら花子に話した。入院している事を忘れているのかと思うほど、政夫の表情に歓喜の情が発していた。チャ子もまた、同じ表情をしていた。
花子はそんな二人を羨ましく見ながら、他人同士が長い時間をかけて家族になっていく事は奇跡だと思った。二人の間に、赤とか青とか、そんな単色ではない、無数の色が混ざった太い糸のようなものが、花子には、はっきりと見えていた。

色々な検査を終え、政夫はいくつか病気が見つかった。

 現代病のオンパレードだ。

 特に重症だったのは、糖尿病だった。確かに、政夫の家系は糖尿病を患わなかった者を探す方が難しいほど多かった。

 あれだけ長い期間、多量のアルコールを摂取していれば、患わない方がおかしい。

 おそらく、全身の動脈硬化もそれが原因だろうと主治医がチャ子に説明していた。

 政夫が長い検査と、指導入院というものを経て退院したのは、入院してから一ヶ月経った時だった。
少しやつれた政夫は退院の日に売店で年寄りの象徴のような杖を買った。
チャ子は、それほど種類もない杖の中から時間をかけて少しでもお洒落に見えるものを必死に探した。
多分、チャ子は自分の中の政夫のイメージを少しでも崩したくなかったのだろう。
デスクに座り、タバコを持った手で頭を支えながら記事を書いていた政夫がチャ子にとって全てだった

 愛していたのだ。

 チャ子は、政夫を心から尊敬し、愛していたのだ。

鈍く光るその茶色の杖で細くなった体を支え、そして、その横で寄り添うように歩くチャ子の手は必ず政夫の後ろにあった。

 触れるでもなく、ただ、政夫の背中に添わせた手の平から、決意と愛が溢れ出ていた。

 花子は二人と距離をおきながら、重い旅行用の鞄を肩から下げ、ついていった。

しばらく歩くと、長い病院の廊下から正面玄関が見えた。
その玄関からは優しい光が漏れていて廊下に一本の線を作った。

二人は、その線を手繰りながら、お互い顔を見合わせ歩いて行った。

「バージンロードみたいや」

 花子は思わず呟いた。

 玄関から自宅へと続く光の線の上を寄り添いながら歩いていく二人の姿が、余りにも穏やかで、思わず花子は立ち止まり、二人が光に溶けるまで見ていた。

退院後、政夫に対してチャ子は献身的に尽くした。食事や薬の管理、糖尿病に効果があると聞けば、車で二時間ほどかかる郊外の漢方薬局まで出向いて行った。
そうやって、政夫の為に、ありとあらゆる事をした。
けれど、その甲斐虚しく、政夫は半年後、再び自宅で倒れた。
救急車で運ばれた政夫は、うっ血性心不全を起こし、一刻を争うほど危険な状態だった。
病院へ着くと主治医と看護師数人が救急外来の入り口で、救急車の到着を待ち構えていた。そして、政夫を乗せたストレッチャーは足早に手術室へと消えていった。
けれど、チャ子にとって、この自体は想定内の事だったのか、意外に冷静で気丈だった。
花子や恵子に連絡を取った後、チャ子は看護師に誘導され、手術室の前の硬いソファーに腰掛けた。
チャ子は腕時計と、無機質な壁にかかった時計の時間を同時に確認していた。

 秒針の音と、チャ子がソファーの硬い部分を爪で規則正しく打つ音だけが廊下に響いていた。
一時間ほどで、政夫は首から管のようなものをさしたままストレッチャーに乗せられ、手術室から出てくると、チャ子はすぐさま、政夫に近づき軽く微笑み、こう言った。

 「お父さん、この世に、まだ、やる事があったんよ。せぇやかて、生きてるもん」

 そう言われて政夫は、白くて薄い布団から、かよわい腕をゆっくりと出し、チャ子に向かって笑顔でピースをした。

 その指先は曲がっていて、平和。には、とても見えなかったが、チャ子は一粒だけ嬉し涙を流した。
政夫は集中治療室に運ばれ、チャ子は今後の治療方針を聞く為に主治医のところに向かった。
途中、恵子も駆けつけ、チャ子と一緒に話を聞く事になった。

 首の静脈から血管を通して心臓にリード線をつけ、早急に府内の大学病院で心臓にペースメーカーを入れる手術をすると主治医が三人に説明した。看護師をしている恵子のお陰で、話は長引く事なく終わった。
少し疲れたのか、娘達が来てくれた事への安堵感からか、チャ子は重力に引き寄せられたようにソファーへと座り込んでしまった。

 年をとった。

 花子は、チャ子の憔悴仕切った顔と丸くなった背中を見て気持ちが波立っていた。

 けれど、チャ子は気持ちを奮い立たせたように立ち上がり、政夫がいる集中治療室へと小走りで向かっていった。

 「お母ちゃん、少し休んだ方がえぇよ。お父ちゃんなら大丈夫や」

 そう、恵子がいうと、

 「あかん。お父ちゃん、きっと、待ってる」

 チャ子はそう言って更に歩く速度を速めた。

ICUの窓にはベージュ色のカーテンが引かれていて、中の様子は全く見えなかった。チャ子は隣のナースセンターの方へ行き、ドアをノックした。

 中から手術に立ち会った看護師長が出て来てくると、三人を専用の入り口へと案内してくれた。
ICUに入ると、政夫を含めた三人の患者が夥しい数の線に繋がれて眠っていた。
耳に残る、機会音が、花子の胸をざわつかせていたが、恵子の方はまるで仕事中かと錯覚させるほど淡々としていた。
花子は、チャ子がいない事に気づき、後方を振り返ると、政夫の側へ行く事を躊躇しているチャ子が、そんな気持ちを悟られまいと、カバンの中の物を無意味に出し入れしていた。

 「お母ちゃん、おるんか?」

 か細い声で政夫がチャ子を呼ぶと、引き寄せられるようにチャ子が政夫の側へと近寄った。条件反射のように、政夫がチャ子に触れようと弱々しく腕をあげると、細い腕には無数の血管が浮き出ていて、そこに刺した点滴の針が政夫に起こっている事への重大性を感じさせた。

 「堪忍やで。堪忍してな、お母ちゃん。お前に迷惑ばっかりかけて、ほんま堪忍なぁ」

 「どぉないしたん、気色悪い。それじゃあまるで、堪忍の押し売りやない。ほんまに悪いと思うてんのやったら、早く元気になって一緒に家に帰るんよ。えぇね」

 政夫は幼い子供のように、コクン。と、うなずいた。

 夫婦間は未知の領域で、宇宙のようだ。

 花子はICUに残してきた二人を地球から仰ぎ見ている気持ちだった。

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