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『藝人春秋2』の書評11/『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』 について By碇本学

『藝人春秋文庫

 2021年2月9日、3月9日と2ヶ月連続して発売となる『藝人春秋2』上下巻の文庫化が『藝人春秋2』と『藝人春秋3』です。

 2017年発売の単行本版『藝人春秋2』上下巻には多くの書評が寄せられましたが、そのなかから順次紹介して行きたいと思います。

 
 11回目は作家の碇本学くんです。

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 『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』
 について 
By.碇本学

    はてなブログ「Spiral Fiction Notes」より
    (メルマ旬報 Vol.142に掲載)から部分抜粋
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 十九歳の時に上京してバイト先で偶然にも現れたビートたけしはホログラムのように揺蕩い身を焦がすほどの憧憬の果ての夢の端に浮かび上がった幻影にも見えた。
 ボクはこの世では生きているか死んでいるかわからないのっぺらぼうの日々に見切りをつけた。
 二十三歳で出家同然にたけしに弟子入りしボクもあの世の登場人物のひとりに相成った。
(中略)
 おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。
『藝人春秋』と名付けた本書はこの世から来た「ボク」があの世で目にした現実を「小説」のように騙る――お笑いという名の仮面の物語だ。
水道橋博士著『藝人春秋』まえがきより

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 今年最後の連載では水道橋博士著『藝人春秋2』上下巻について感想を書こうと考えていた。
 発売したばかりの加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』上下巻も読み終わって、この小説に書かれていた構造を考えていたらこの2作品を絡めてなにか書けないものかと思っていたので勢いで書いてみることにした。

 芸能界に潜入したルポライターである博士さんが、『007』になぞらえて自分は芸能界に忍び込んだ「スパイ」という設定を決めて、芸能人から政治家まで根気強く事実を探って資料や言質をまるでパズルのピースを集めるようにして書いたのが新刊『藝人春秋2』である。

 スパイというとやはり表舞台の人ではなく闇で動き回っていて、この現実世界にいながらも少し僕らとは違う世界で生きている人のイメージがある。   

 半分この世の者でありながらも半分はあの世に突っ込んでいるような存在と言えるのかもしれない。

 冒頭に引用したのは前作『藝人春秋』のまえがきだが、師匠・ビートたけしに弟子入りしたことにより小野正芳はこの世ではなく、あの世に移行して名前も「水道橋博士」となった。
 また、『チュベローズで待ってる』の著者である加藤シゲアキさんはジャニーズ事務所のアイドルでありNEWSのメンバーのひとりだが、NEWSというグループは2003年結成当時には9人だった。

 しかし、2011年10月7日に事務所から「山下(智久)はソロ活動、錦戸(亮)は関ジャニ∞の活動に専念するため、NEWSを脱退することになりました」とマスコミ各社にFAXが送られたことにより、残った現在の4人はNEWSとしての活動を継続することを決め現在の体制になった。

 同年11月22日、彼はそれまで活動していた名前である「加藤成亮」から「加藤シゲアキ」に変更し、『ピンクとグレー』(2012年1月28日発売)で小説家デビューすることを発表した。
 彼もまた大きな変化の時に名前を変えた人だった。

 本名と芸名を分離することの意味はかなり大きなものであるはずだ。彼らの視線はあの世(芸能界)からこの世(一般社会ととりあえずしておく)を見る人となった。といえども博士さんの場合だと、夫であり3人の子供の父である小野正芳としてこの世で生活はしている。

 だが、一般人からすれば普通に歩いている彼は芸人である水道橋博士なのである。これはどこかこの世とあの世が入り混じっている感覚なのではないだろうかと僕なんかは思ってしまうのだが、顔を知られているという特殊な業種や立場の人でないと経験することはない事例だろう。

 彼岸にいながらも同時に此岸にいるという特殊な視線と立場だと僕は想像している。

 博士さんが同じくまえがきに書かれていたのは、素人時代には小説を読んで非現実に耽溺していたが今ではその時の方が現実感がなくなっており、現在ではテレビの収録現場にいる方だけでフィクションへの渇望がなくなっている、と。
 だからこそ、博士さんはノンフィクション系の書籍は読むが今や小説を積極的に読もうとは思わないということらしい。
 なるほど、と思う。逆に加藤シゲアキさんはフィクションを書いているので面白い対比だなと思ったりする。

 人と人を繋ぐ「星座」(コンステレーション)の概念とそれまでの人生で起きたことを現在において伏線を回収するという言い方を博士さんはよくされている。
 故・百瀬博教氏に言われた「出会いに照れない」を実践することでいくつもの数えきれない星も満天の星空が広がっていく、という考え方は博士さんが書かれたり発言されることで伝播していっているのも知っている。
  僕もそのひとりだと自覚している。

 今作『藝人春秋2』が書き上げられたのも星という単語を使って言うのなら満天星(どうだん)である。
 パッと見ではわからない繋がりや時間が隔てられてしまって途切れてしまったものをいかに結びつけるか、あるいは証拠を探し当てたり、当事者の元に赴いて言質を取っていく入念な下調べがあるからこそ、パズルのピースがカチッとハマるような快感があり「星座」の物語になっていく。

 それ自体は博士さんの生き方に由来しているのだろうし、ライフワークとして小野正芳≒水道橋博士の軸になっている。
 だからこそ、博士さんはやめないしやめられないのだろう。

 『チュベローズで待ってる』上下巻を読了して最初に思ったのは、処女作『ピンクとグレー』から彼の作品はずっと一貫しているということだった。 

 物語には行って帰ってくる(鯨の胎内に入り戻ってくる)という英雄神話構造(キャンベルの神話論『千の顔を持つ英雄』)がある。
 簡単にいうと、王になるものは一度、死の国(クジラの胎内≒あの世)に行って通過儀礼をしてこの世に帰還することで現世の王になるというものだ。
 加藤シゲアキデビュー作『ピンクとグレー』で最も印象的だったのは、アイドルとしての自分とそうでない自分が「行って帰ってくる旅」を得て統合されることで彼(主人公≒著者)は「加藤シゲアキ」になっていく所だった。

 あるいは書くことで当時のメンバー脱退における傷だったり悩み、そしてこれから自分はどうしていくのかという意味を含めた自己セラピーのような役割があったのだろうということは簡単に想像できる。
 しかし、そう想像させるようにもあえて書いている感じをも匂わしてくるからとてもクレバーな書き手だと思った。

 この小説で最も重要なことは上下巻で500ページ以上あるこの作品を手に取って読み終わる若い世代の読者がたくさんいることだろう。

 長い小説を読めると今まで読めなかったものも読めるようになるし、他の小説にも興味を持ってもらえることにもなる。それができる著者はやはり多くはないから、この小説が多くの人やいろんな世代に読まれることの意味は非常に大きい。

 僕がまんが原作者の大塚英志さんに影響を受けているので、小説を読んでいたり映画を観ていると構造なんかについて物語論や英雄神話構造なんかが浮かぶ。
 世間的に一番有名なのは『スター・ウォーズ』がジョーゼフ・キャンベルの神話論をジョージ・ルーカスが採り入れたということだろう。
 特に「鯨の胎内」というのは多くの物語に採用されているし、現実世界では実際に死んでなくとも近い経験や違う世界での経験によってパワーアップしたり新しい人生の局面に進むということもある。
 同時に作り手の多くはキャンベルの神話論を読んでいなくても、知らないうちに多くの物語からそれを受け取っているので、その構造を無意識であれ意識的であれ書いている。

 例えば、水道橋博士著『お笑い男の星座2』でも読んだ人の心を掴んで離さない「江頭グラン・ブルー」だとこう書かれている。


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 生と死は隣り合わせである。
 江頭は覚悟どおり死を選んでいた。
 たしかに、このわずか、数分のなかに江頭という男の一生を見せていた。
 救急隊員に酸素ボンベで吸入されているうちに、ボコボコボジャーボコと口から飲んだ水を戻すと、江頭が息を吹き返した。
「うぉ~おおぉう、うえぇえぇ~ん、あ゛~ぅあ~あ゛ぅあ~ぁあ゛あ゛」
 江頭は号泣していた。
 その瞬間、まるで水槽という羊水のなかから大きな産声を上げ新たな生命が誕生したように見えた。
 決して日の目をみることのなかった芸能界の暗黒の深海芸人が、一瞬の死を経て、再び生を取り戻すと燦々と、太陽が降り注ぐ大海原に水飛沫をあげて浮上し輝いた瞬間だった。

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 実際に「鯨の胎内」という物語論を他の芸人さんに当てはめて考えてみるとどうだろうか。
 水道橋博士さんは免許を不正取得した事件(「運転免許を笑えるものにする」という、たけし軍団内での遊びがあったが、博士さんは3年に1度の免許更新を待ちきれずに、紛失したと偽って免許証を3回再取得した。これが道路交通法違反になり書類送検された)で謹慎をすることになった。

 『お笑い男の星座2』の第4章「変装免許証事件」にこの出来事は詳しいのだが、その謹慎によって歩合制だったために給料はなくなり仕事も当然なかった。
 相方の玉袋さんもコンビとして同罪扱いで謹慎になり、妻子と一緒にマンションから実家に戻ることになった。
 謹慎があけて高田文夫さんのプロデュースの舞台で浅草キッドとして復活することになる。けっこう当てはまっているように思えなくもない。

 『藝人春秋』文庫版のボーナストラックの「2013年の有吉弘行」での猿岩石でのいきなり大スター、そして一気に人気芸能人の頂点から転げ落ちていった有吉さんの雌伏の時間と現在に至る大々復活と再び頂点を登っていく姿も物語論的に考えることができそうだ。

 なんといっても「鯨の胎内」をリアルに体現しているのは博士さんの師匠であるビートたけしさんその人だろう。
 バイク事故で本当に死にかけて戻ってきた男。
 復活後に撮った映画は『キッズ・リターン』であり、最後のセリフ「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー! まだ始まっちゃいねーよ!」は観た人に印象深く刻まれている。
 ここからビートたけしであり北野武の再び王としての時代が始まることになったのは間違いない。
 という見方はわかりやすいが、実際に本当にフィクションではなくノンフィクションで体現してしまっているのだから仕方ない。

 王になる人には王になるべきいくつもの物語があり、それが語り部たちによって後世に伝えられていくから伝説になる。

 キャンベルの物語論「三幕の17ステップ」を使って作られたのがジョージ・ルーカスによって作られた『スター・ウォーズ』(「旧三部作」オリジナル・トリロジー)でした。
 新作『最後のジェダイ』はエピソード8にあたり、「続三部作」シークエル・トリロジーの二部作目です。
 この三部作で『スター・ウォーズ』シリーズ、サーガは完結すると思っていたら、やっぱりというか2017年現地時間11月9日にウォルト・ディズニー・カンパニーにより、シークエル・トリロジー完結後に新たな三部作の実写映画の制作が予定されていることが発表されました。


 『最後のジェダイ』の監督ライアン・ジョンソンが主導し、ルーカスフィルムに「三本の映画、一つの物語、新たな登場人物、新たな場所。フレッシュに始めよう」と提案したという。
 「エピソード1~9」のスカイウォーカーの血統の物語からは離れた、新たな別の人物を主人公とする三部作を予定している。
 ライアン自身は1作目を監督する予定だが、全作を監督するかは不明。


 『最後のジェダイ』を公開日に観に行った最初の感想はもはやこのサーガには血筋などはいらないのだなということだった。「他者の物語」にどんどん興味が失われている世界では「自分の物語」だけにしか関心が向かなくなっているという事実がある。誰もがスマホがあればかつての方に情報をただ受信するだけではなく、自ら発信できる世界になっている。だからこそ、ある一族の、限られたエリートだったり王のような存在に感情移入する能力というか、想像し妄想して自分に重ねたりする力は失われてしまっている。奪われているとでもいうのかもしれない。

 誰もが主人公になれる、主人公であるという世界を『最後のジェダイ』では描いてしまっている。そして、シークエル・トリロジーの完結後に新しい三部作を作るということが前提である以上は、仕方のない物語の転換だったということもどこか理解できてしまう。『スター・ウォーズ』サーガがこの先、ディズニー傘下で作られていくということは今作で、『スター・ウォーズ』の軸にあったジョーゼフ・キャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』の中で殺す必要がどうしてもあった。だからこその物語展開であるのは非常に納得できるものだった。それが面白いか面白くないかは別問題ではあるし、観客の好き嫌いも別問題だということだ。僕は正直面白いとは思えなかった。

 『最後のジェダイ』は(息子世代のライアン・ジョンソンによる)『スター・ウォーズ』が(父であるジョージ・ルーカスの)『スター・ウォーズ』殺しをした作品である。それこそがまるで神話論の構造でしかないのだが、そうやって父(オリジナル)の呪縛から解き放たれてしまった『スター・ウォーズ』だからこそ、スカイウォーカー家の血統の物語からは離れた新しい主人公を置いた三部作を作ることが可能になる。うん、そうでしょう、でもさ、それって『スター・ウォーズ』って呼べるのだろうか、否か。

 富野由悠季監督は彼自身が作った『機動戦士ガンダム』シリーズにおける架空の年代史である宇宙世紀を自ら葬るために『∀ガンダム』を作り、その中で使われた言葉が「黒歴史」だった。過去に起きた宇宙戦争(宇宙世紀)の歴史を「黒歴史」という言葉で表現していた。

 これがいつの間にかネット用語で「なかったことにしたい」or「なかったことにされている」過去の事象を指すものとなって一般に広まっていることは意外と知られていない。でも、富野監督は自ら作り上げた世界観(宇宙世紀)を葬ろうとしたことは事実だ。そういえば、『最後のジェダイ』でのレイとベン(カイロ・レン)のやりとりってなんかニュータイプみたいな感じに見えて、アムロ・レイとララァ・スンのやりとりみたいだった。だから、ちょっと今更かよとも思った。

 ジョージ・ルーカス監督は『最後のジェダイ』については「見事な出来栄え」と肯定的な感想を述べているという。
 それはやはり自ら殺すことができなかった、あるいは旧三部作以外は制作できなかった『スター・ウォーズ』という手に負えなくなってしまった作品の中にある自分の存在を殺してくれたからだろう。
 ルーカスの分身でもあったルーク・スカイウォーカーの最後が描かれているのも当然だし、ルーカス≒ルーク・スカイウォーカー≒「最後のジェダイ」がいなくなった世界では新しい何がしかの物語が始まる。

 ルーカスは父殺しをされることで『スター・ウォーズ』から解放された。父を殺してしまって王位に就くライアン・ジョンソンやエピソード9の監督のJ・J・エイブラムスたちはどんな王国を作るのだろうか。
 と書きながら僕は中上健次の紀州サーガを含めた中上健次作品を集中して読む正月になりそうです。

サーガ好きなんですよね、なんだかんだ言っても。

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              (碇本学)


 と最後は、『藝人春秋2』には戻ってこないまま、長大な3作品MIXの批評文になっている。

 加藤シゲアキくんと共に語られることは光栄なことだ。
 『藝人春秋』の一作目は『ダビンチ』で加藤シゲアキくんに激賞され、おかげさまで若い人にも読まれたものだ。

 しかも「キャンベルの神話論」は確実にボクのベースに内包しているので、やはり「的確」とも言える文章なのだ。

 碇本学くんは『メルマ旬報』の創刊時からの執筆者だ。
ちなみに、彼の紹介文をボクはこう書いている。

 園子温監督の『希望の国』の試写会で遭遇、そのまま家まで車で送ったのがボクとの出会いです。初めて見た「小説家志望という生き方を本当に実践している若者」として個人的に青田買いしました。
 ブログに綴る文章は的確で情緒あり。将来、ホントに小説家になって欲しいと思っています。と思っていたら、園子温監督の『リアル鬼ごっこ』のノベライズでデビュー。個人的に嬉しいことでした。

 創刊号(2012年11月)から一度も原稿を落とすことなく膨大な文字数を書き続け、その使い減りしない活字生産量は執筆陣のなかでも有数です。
 彼は年齢的にも育成枠なので、今までは、勢い余って文字で溢れかえっていましたが、これからは、文字数のシバリを設けて指導していきたいとも思っています。


 昔から文字数が多いのだ(笑)ゴメンナサイ。
 最後まで読んで下さった方、アリガトウ!


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