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恋敵、スランプ

「何も成していないヤツがスランプだからと言い訳を垂れるな」みたいなことを、10代の頃に聞いたことがあった。そのころから文章で自己表現をすることが好きで、その厳しい言葉を真正面から受け止めていた。

だから文章が上手く書けない時には「これはもう引退だな」と思って、幾度となく筆を折った経験がある。結局、折れて持ち手の短くなった筆を握って、今日もこうして言葉を書き連ねているわけだけど。

でももういいだろうと。
優劣は置いておくとして、私の人生は殆ど文章を書くことと紐づいていて、殆ど呼吸のように毎日何か権利を主張しているのだから、今こうして何かを書けない状態は間違いなくスランプだ。引退します、と豪語して翌日には何かを書いている状況にももう飽きた。スランプです。物語を書くのもこうしてお気持ちを書き記すのも気持ちが入り込んできません。

そういう時の向き合い方をちょっと思い出してみる。
私のスランプの原因は多分、精神的な部分に拠るものがほとんどだ。タスクを抱えすぎてパニックになっていたり、私生活で嫌なことがありすぎて、もう何の気力も浮かんでこなかったりするとき、筆が一ミリも動かなくなる。
負の感情で追い詰められている時だけでなくて、恋人との生活が幸せだったり、推しのイベントが積み重なっていたりするときも同じだ。要するに、普段は文章を愛しているけれど、文章が二番目、三番目になってしまうと、文章の方も私を愛してくれなくなるのだ。

スランプは孤独だ。自分だけは愛していると思っていたものを、自分自身が愛せなくなる。こういう環境に身を置いているから、周りの人たちが生み出していくものと愛し合っている様子を見ると胸が痛む。SNSで友人たちが、充実した私生活を見せてくれるのを、部屋のベッドから眺めている感覚と同じだ。じゃあ書いてみよう、と思っても出てくるのは前と同じ言葉、前と同じ話。そんなのもう聞き飽きたよ、と言われて、こちらを振り向いてくれない文章たちが、私を置いていく。

離れていってしまったものを引き戻すことはなかなかに難しい。それに、私の方も気持ちを文章に戻すのだって時間がかかる。愛されないのに愛するのは気力が居るし、荷が重い。

けれどそんな薄暗いスランプを抜けるのは、何かの拍子で自分の書いた文章を読み返すときが多いのかなと思う。今まで書いてきた主義主張や物語は、粗削りかもしれないけれど確かに私が文章を愛していた証拠になっていて、その時の気持ちを思い返すと少しずつ心が満たされる。

うぬぼれすぎていることは重々承知だけれど、私は私が生み出すものを一番に愛している。この世で一番だと思っている。一番のファンが私で、一番のライバルが私だから、結局は誰がどうとか何がどうとかはもう、関係ないのだ。自分が自分を愛して納得させられるために、これからも文章と寄り添うしかない。

そんなことを、私の一番好きな男の子が書いて、歌っていた。
彼らはいつも弱い感情に寄り添ってくれるから、私と同じように好きな人たちである。

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