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創作物は浮遊する

ショッピングモールでは、意識的にペットショップに立ち寄らないようにしている。
人が、生きた命を売買する代表的なスポットだと思っているから。
動物園に行きたいと思うことが無いのも似た感覚かもしれない。大きく、意思を持って動く物体には酷く命を感じてしまう。

しかし結局の所、命を視認出来る大小でしか測ることの出来ない自分の浅はかさを再認識するだけで、行こうと誘われたら行くし、行ってみたらその命を愛しいと感じてしまうのだ。
そういう浅はかな感性しか持っていない人間の、日記を残しておこうと思う。
どうも、Ourという名前で創作をしています。おうると読みます。

僕は水族館が好きだ。
「は〜?」って感じだと思うけど、そのレベルのことしか書かないと思って下さい。

先日レコーディングで沖縄に行った。空き時間で水族館へ行くことが出来て、僕は生まれて初めてジンベイザメを見た。

これは個人的な意見だけれど、水族館というのは、人間が作り出した中でも最も美しい命の隔離場だと思っている。
薄暗い施設の中、陽の光(或いはそれに似た人口照明)に輪郭を明滅させる大きな水槽を浮遊しているのは普段近付いて目にすることの無い生物達で、それらは自由を知らない。ように感じる節もあれば、その中の自由を謳歌しているようにも見える。

水族館で常に大きな存在感を放っているのは間違いなく「水槽」なのだが、その光に吸い寄せられる僕達は宛ら虫で、水族館とは虫籠である。歩で水に入る人の性。可愛いよね。

そんなこんなで僕は沖縄の水族館で、クラゲに長いこと思いを馳せていた。

創作物とは、クラゲのようだと思っている。

言ってしまえば、大体のクラゲなんていようがいまいが大層なことではないし(知らんけど)、大量に増えてしまえば水産の持続性を脅かしたりする。生まれ落ちて、時の流れに委ねられて、ただそこに浮遊するだけなのに。

僕の思う創作との類似性とは、現代における創作物は人の"認識"を以って飽和しているということ。現代における創作物の発信は簡単で、それが故に簡単に埋もれてしまう脆いものであるということ。

遥か昔を遡ってみても、全く以て認識されていなかっただけでそこら中に創作は溢れていたと思う。
それにしても、現代における創作へのハードルは下がり過ぎたと思っている。

何が言いたいかと言うと、僕の中での創作に対するハードルは常に高く掲げていたいのです。それでも尚、深く続く海の底を見てみたいと日々没頭しているのです。
だからこそ、まるで意味の無いものかもしれないそれに、「翠彩文楽」という名前が付いたのです。

そこにただ浮かんでいただけの自由意志を持たない何かに、「海月」なんて名前が付いた事実に、僕は美しさを感じずにはいられないのです。

文責:Our


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