音楽という存在
日々の生活において私の中で音楽はかなり大きな存在だと思う。変えればいいのに、と周りから言われ続けている有線イヤホンで移動中に聴くことも多いし、家ではスマホをスピーカーのようにして爆音で流しながら別のことをしたりする。とにかく、私にとって日常に音楽はなくてはならない存在なのだ。
そもそも音楽に親しみを覚えたきっかけは幼少期に始めたピアノだったと思う。身近に音楽があり、自らも音楽を好いていた。
小学校高学年〜中学生ともなると好きな音楽のジャンルや曲が出てきたりする。私の場合、ボカロだった。当時の友人に勧められたものが多いが、それが自分の中に染み込んでいったのも事実で。それなりにのめり込んでいたと思う。
好むジャンルに変化が起きたのは高校に入学した頃からだった気がする。今、最も好きなアーティストの1人のその人は、中学時代もよく聴いたが、なんとなくボカロから離れていたこの時期に聴く割合がぐっと上がり、そして沼にも落ちていった。
キタニタツヤというアーティストをご存知だろうか。今ならきっと「あぁ、青のすみかの人?」
と言ってくれる人も多いかもしれない。ただ、私の出会った当時(3〜4年ほど前)は知名度が高いか、と言われればそうではなかった。初めて出会う同級生たちとはなんだか切り離された気がして、周りにもあまり「好きだ」とは言えなかった。
それでも私自身この人の音楽に救われたことは少なくない。最近で言うと、「私が明日死ぬなら」を初めて聴いた時だろう。テスト勉強に追われて行き場のない不安と自信に反比例して溜まっていく疲労とともに寝床に入り、スマホを開くと新曲が配信されていた。すでに歌詞は公開され、聞くことのできなかったラジオでは一度披露もされていたもので心待ちにしていたからすぐに再生した。
救われた。掬い上げてもらった。生きないと。
そう、心の底から思った午前1時。とにかく心身ともに疲弊していて「もうなんかいいや」という感じの気持ちで満たされていた。底の底の方まで落ちていた。そんな中での、この歌、詞。泣くよ、これは。「私が明日死ぬなら」なんて仮定をしているくせに明日生きる約束を一曲を通してしている。1月にキタニタツヤのライブに行った際もこの曲がセトリに入っていて生で聴くことが叶ったのだが、その前に私たち観客に言ってくれた一言がずっと私の中で廻っている。
今から歌う曲は、僕から皆さんへのラブソングだと思って聴いてください。明日も生きると約束をしましょう。
そして優しく始まった「私が明日死ぬなら」で私は直感的に感じた。私はこの先何があっても自ら死は選ばない、と。彼と、約束をしてしまったから。馬鹿げた話だと思われるかもしれないけど本当にそう感じたのだ。
他にも好いているアーティストはいるのでその話はまたいつか。
このまま布教したいので「私が明日死ぬなら」のようなキタニタツヤ楽曲にしては明るめの曲をいくつかおすすめします。よければ聞いてください。ダークな雰囲気の曲も魅力的なのでそちらもぜひ。
私が明日死ぬなら
波に名前をつけること、僕らの呼吸に終わりがあること。
大人になっても
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