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「袖を振る」みやび

あかねさす むらさきき しめき もりは見ずや きみそでる 

紫野イメージ2

巻1の20 額田王    

一般訳
茜色に染まる紫の野、御領地をいらっしゃるあなた、野の番人に見られますよ、そんなに袖を振ってお誘いになっては。

解 釈
「無い袖は振れない」
いくら払えといわれたって、金がないのだから払いようがない。袖を振る振らないは、いまはそんな下世話な表現で使われていますが、まだ人間がだいぶんましにできていた万葉のひとびとにとって、それは愛情表現。「袖を振る」とは、恋ごころを表明する所作であり、呪術的な行為だったようです。「私はあなたに好意を抱いているんです」という意思表示であるとともに、魂を招き相手がじぶんにおもいを寄せるようにと念じることでもあったのでしょう。

この歌は、668年5月5日に近江の蒲生野で天智天皇が催した薬狩りの席で詠まれたといわれています。
天皇はじめ武官や女官が宮中からくり出して薬草を摘んだりして楽しんだのが「紫野」。紫の染料として、また漢方薬でもあったムラサキが自生していた場所でしょうか。そこにしめ縄を張って天領としたから「しめ」ともいった。そこの野守に、あなたが袖を振るのを見られてしまいますよ、と詠った歌だと解されています。

ここでいう「あなた」は、額田王の前の夫であった大海人皇子。そして見られる相手には、いま婚姻関係にある、かれの兄にあたる天智天皇が想定されています。
つまりおおらかな三角関係の歌。大和三山歌と同系のものというわけです。この三人を想定してあらためてこの歌を見ると「紫野」と「標野」、このふたつが並んでいるのが目をひきます。どうやらこれは、天智天皇と大海人皇子のことを暗示しているようではありませんか。

万葉集原文を見ると「行く」を「紫野」には「逝」、「標野」には「行」を宛てています。「逝く」は、あの世へ逝くことですから魂が垂直にあがること。「行く」は現実の場所を二次元的に移動することですから、同じ「行く」でも、ふたりはまったく異なった未来をもつことになります。

では「紫野」と「標野」どちらが天智天皇で、どちらが大海人皇子なのでしょうか。「茜さす」を受けて「逝く」というのは「紫野」ですから、こちらは落日のイメージがなくもあません。とすると、いまこの世の春を謳歌している天智天皇とみてみたい。
その天智天皇は、いずれ逝くことになる。そして大海人皇子が「標野」に行く、つまり天領を支配する天皇となるということになります。これは、もしかすると皇位継承にかかわる〝予言歌〟なのかもしれません。

作者の額田王は謎につつまれた人物ですが、巫女的な性格を持った女性であったことは認められているようです。したがって、言祝ぎや鎮魂の歌を詠んだように、予言めいたことが歌となってあらわれたとしても、なんら不思議ではないでしょう。

大海人皇子が振っている袖は、もちろん金銭の支払いにかかわることではありません。額田王は大海人皇子の恋心の表明にかけて、ある呪術的な意味をこめている。それは天領の安寧を祈願する祭祀者としての天皇の行為です。そして「野守」は、人間の番人ではなく、菓子の神である「田道間守たじまもり」と同じく、野にある植物の生成にかかわる神とみるべきでしょう。したがって、天下国家の安泰をつねに願っているあなたのことを神々が見過ごすはずがないではありませんか、と額田王は大海人皇子を天皇にふさわしい器量をそなえた人物であるとたたえているのでしょう。

ちなみに、この歌が詠まれたのは薬狩りの席でのことですから、いずれ天智天皇が毒殺されることを暗示した歌と連想をひろげるのは深読みというものでしょうか。

直感訳
天智天皇の御代は、もうすぐ落日をむかえようとしています。あなたは皇位を継承して天皇となられるでしょう。天上の神々が、この世を統べる人物にふさわしいあなたを見逃すはずがありませんから。

(禁無断転載)



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