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〝聴く〟ちから

一つ松 いくぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも

一つ松

巻6の1042 市原王    

一般訳

丘の上の一本松は、どれほどの年月をひとりたたずんで来たのだろうか。梢に吹く風が清らかに聞こえるのは、歳月をかさねてきたからだろうか。

解釈
聖武天皇の744年に、岡の上の一本松の下に集まった新春の宴の席で市原王が詠んだ歌。
一句目の「一」から二句目の「幾」へと流して一気にときの経過を表現してしまう。そこに風が吹くことで、なんともいえない無常観のようなものがしみいってくる。
その風に「声を聞く」となって、抽象的な心象風景に、とつぜん具体的な対象が影としてうかびあがってきます。

森羅万象すべてのものに命があり、神が宿っていると感じていた万葉びとが、梢をゆらす風に神の存在や、なにかの気配をおもうことはしぜんなことですが…。
では、その声の主とはいったいなんでしょうか?
そのヒントは、万葉集でこの歌とともに『飲歌二首』として並べられているつぎの歌にありました。

たまきはる いのちは知らず 松が枝を 結ぶこころは 長くとそおもう
  大伴家持

この二首は、前回解釈してみた有間皇子の追悼歌。謀反の罪をかけられて処刑される前に皇子が詠んだ〝松枝を引き結び〟の歌を受けてのもの。

「じぶんの命がどうなるのか不安な気持ちで松の枝を結んだ恨みつらみはいつまでも残ることだろう」

ですから「吹く風の」声の主は、有間皇子。かれの冥界からの沙汰を耳にしたと解釈してみたい。
中大兄皇子(天智天皇)の奸計にはめられて、現世に未練も恨みももって死んでいった有間皇子。かれの霊に向かって、天智天皇の子である志貴皇子から四代目にあたる市原王は、声が清くなったと聞いた。そのことで、かれの魂が呪詛から解放されて安らかになってほしい、そんなおもいを歌にこめていると。
前回の「見る」と同じく「聴く」ちからによって、願をかけてもいるのでしょう。

スピリチャル訳
何人もの天皇の御代を、ひとり淋しく立っていた松よ。お前の梢をわたる風が、ときをへて清らかになったようだ。きっと有間皇子の魂が安らかになった徴にちがいない。こうしてみんなが鎮魂してきたのだから。

(禁無断転載)

❋写真は東日本大震災の津波被害に耐えた「奇跡の一本松」


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