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待つということは、誰でも経験があると思うのだが、この場合において、待たせるという事をする誰について、何か申し上げたい。

何かしらの予定をお互いに了承した上で決めたとする。例えば映画をみることにしようか。集合の時間まで、こう過ごそうとか、洗濯物は干してからいこうとか、その時間まで映画を楽しみにして過ごす。

映画を見る前は、映画の事で頭がいっぱいなのだ。当日は、映画を見ないことになるとは全く考えない。映画を見るために、雑事を済ませていると言っても過言ではないぐらいにルンルン気分で掃除機をかけている。

いざ集合時間になって、待ち合わせの場所に着く。なんなら早く着く。彼は、或いは彼女は、来ない。電話をしても出ない。一時間経ってLINEが来る。

ごめん、寝てた。

殺意という以外当てはまる言葉が思い浮かばないが、そういう類の感情が、待っているものに生まれる。幸い事件には至らないが、このような事は形態を変えて世の中に蔓延っている。

ごめん5分待って、という事でも本当は、待たせてはならないという前提を把握している上で言っているのか。これはまだいい方であるが、程度の差はあれど、待たせるという事は殺される覚悟があってしているのか、という事を考えてみてもらいたい。

約束は、たとえ口約束でも、守ろうとするものにとっては、それに拘束されるものである。だから破られた時は大小程度の差はあるが、なんともやりきれない思いを抱える事になる。

私は待つ事を苦にしないから、などの戯言を言い訳に人を待たせることを厭わない諸君らは、待つ人の寛大な心に救われている。そういう事を少しでも意識せよと。

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