装飾と機能について思ったこと。

『新潮』9月号の蘆田裕史氏のファッション批評「言葉と衣服・第二回・スタイルと装飾」にインスピレーションを得て書いた文章です。それら(蘆田裕史氏のファッション批評「言葉と衣服・第二回・スタイルと装飾」)を読んでからの方がより分かりやすいかもしれません。

ファインアートやアカデミックデザインにおいて既に実現している(現代アートや現代デザインなどという言葉でいわれる)イデオロギーな「現代(モダン)」、蘆田裕史氏の『新潮』でのファッション批評「言葉と衣服・第二回・スタイルと装飾」においては「装飾と機能」という言葉で語られてる。機能が現代(モダン)で、装飾は現代(モダン)の登場で葬られた俗情だ。

まずファッションはアートやアカデミックデザインのようにハイカルチャーではなくサブカルチャーである。ハイカルチャーは現代(モダン)を実現したものでサブカルチャーは実現できないもの、そしてできない故に俗情と結託してコマーシャル分野でポピュラリティを得ている。

なのでファッションがファインアートやアカデミックデザインのようにハイカルチャーになるにはいまの装飾を捨てて機能にいくべきである。いまある現状とは決別する。

だが蘆田裕史氏は(自分の読んだ解釈では)ファッションにおいて装飾は機能である、なので現状のままファッションはハイカルチャー化が可能である、という論の展開をしている。

それは危ういと思う。サブカルチャーしか知らないサブカルチャー研究家や批評家はよくこういう贔屓の引き倒しをするから、その可能性を怪しむ。「○○というサブカルチャーは既にハイカルチャーである。根拠は無い。何故ならこんなに自分が強く心を惹かれるから。きっとハイカルチャーに違いない」という思考停止な説得を平気でする。また、そういう当然に持たれる「ハイカルチャー側の疑念を払拭させるエクスキューズ」も見当たらないところがより不安にさせる。

そのサブカルチャーが「果たしてハイカルチャーになるかどうか」は、サブカルチャーだけでなくハイカルチャーも知り、両者をきちんと相対化したうえでハイカルチャーな人間も納得できるロジックで説得を試みるべきである。ただ、ハイカルチャー側にも「サブカルチャーとハイカルチャーの両方を理解し相対化してる人間がいない」という事情があり仮にサブカルチャー側から全うな説得があったとしても、それをハイカルチャー側で検証することもきないという二重の問題というのがある。

サブカルチャーは装飾でハイカルチャーは機能といえる。さらにハイカルチャーはモダンとポストモダンに分けられる。

ヒエラルキー的にいえばサブカルチャー<モダン<ポストモダン、サブカルチャーが一番下でポストモダンが一番上。モダン以上が実現できればそのサブカルチャーはハイカルチャーであると言える。

サブカルチャーは装飾を信じるから使う、モダンは信じないから使わない、ポストモダンはより信じないからあえて露悪的に装飾をネタとして使う。

なのでポストモダン的な方法で装飾を使うのならファッションはサブカルチャーでなくハイカルチャーであると言える。装飾が有り得るのはポストモダンだけだからだ。

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