ハイコンテクストノームコア(アートなファッション)のおさらいを兼ねた質問に答えました。

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>アメカジとオタク文化の親近性について。
日本のアメカジや古着カルチャーは世界に類を見ない男性による分厚い中間層的なファッション好きの文化やマーケットを作ってると思うのですが、
この中間層的な文化とハイファッション(モード)の相性は悪い、というよりまるっきり別文化みたいになっているのを、
むしろそのポテンシャルを(直接的ではなくひねったうえで)フル活用してハイファッションを更新するアイデアとしてスケベさんのハイコンテクスト・コンセプトを私は理解してます(誤解かもしれませんが、そう理解できるとも思います)
それはある意味村上隆が中間層的な文化であるオタクカルチャーをひねって活用してファインアートを更新したのと近いところがあるような印象を受けます。
そのうえで村上隆がやったように、戦略的・文脈的に(外人だましのでっちあげの理屈でもいい)「アメリカへの憧れとコンプレックス」をどのように導入・処理して、ハイコンテクスト・コンセプトにストーリー・意味づけをするべきなのかスケベさんのアイデア等があったら聞いてみたいです。

こちらのマシュマロに来た質問にお答えします。

まず自分が提唱するハイコンテクストノームコアは“ファッションをアートにするメソッド”です。

ハイコンテクストノームコアについて過去に何度か書いてるので、知らない人はこちらなどを予習として読んでおくと良いかも。より理解が捗るかも。

まず美大デザイン科出身でアカデミシャンである三宅一生によってファッションの真っ当なデザイン、つまりアカデミックデザイン化までは既に成し遂げられた訳ですね。

でもソレ以降は川久保玲(コムデギャルソン)や山本耀司、あるいは更にその後に続くアントワープ勢のマルタン・マルジェラなど、三宅一生がファッションで達成した成果にフリーライドしたキッチュな、ただ表面上を真似ただけな“騙りアートなファッション”がずっと行われてきたのですね。

マルジェラ以降、前衛的といわれるファッションの停滞、まあ“失われた20年”と、とりあえずしておきますが。そう一般的には認識されています。
でも実際には三宅一生以降、80年代の日本人デザイナーらによる“黒の衝撃”の頃からもう既に失われていた40年だったという事ですね。
嘘の積み上げな、あくまで“前衛風”でしかない歴史だった。

それらは偽史だった。そう否定し、切り捨てるべきですね(そうしないと真っ当なアートなファッションという動機が生まれ辛いから)。

三宅一生以降の前衛的試みをすべて否定して、最初の三宅一生に直に次のファッションの果たすべき課題、「アートなファッション」というものを繋げ、その実現する方法として“ハイコンテクストノームコア”というアイデアを自分はずっと提案しています。

>それはある意味村上隆が中間層的な文化であるオタクカルチャーをひねって活用してファインアートを更新したのと近いところがあるような印象を受けます。

村上隆がオタクというサブカルチャーをネタ的に搾取してハイカルチャーなアートを実現したような方法を、自分がファッションでもやろうとしてる。
質問者の方は、おそらくそういう見立てをしてるのかと思います。

村上隆の場合には「ホワイト・マッチョイズムを満たすポルノとしてのニーズしか、マイノリティな日本人アーティストに対し白人らは求めていない(だから非アカデミシャンな日本人のアーティストばかり海外では評価される。それはあくまでネタ枠だから。一昔前のハリウッド映画でコメディリリーフ的に使われるオモシロ日本人のように)」。という現実、現状認識というのがまずあって。

なのでアカデミシャンなのに“オタク”というサブカルチャーをネタにする事でカモフラージュし、その目眩しなオタクとバーターで本体のアカデミックなアートもコッソリ彼らに許容させる事に成功したのですね。ハッキングです。

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