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母の世話、わたしのすさんだ心

母の認知症が進んでいる。不安が募るが自分を犠牲にしてはいけないと近距離で様子をみている状態だ。

週末に実家に行き、一緒に買い物に行ったり、庭の手入れをしたり、犬の散歩にいったりする。
日曜の夜に自分のマンションに帰ってくるが不安しかなく、夢見が悪い。
犬が迷子になってしまった夢、母の認知症がすすんでいる姿を夢をみる。

こんな夢をみるくらいなら、いっそ一緒に暮らそうか。
会社に申し出て在宅勤務をさせてもらうようにしようか。介護休暇をとろうか。そんなことを考えるようになった。読む本はほとんど介護にかかわるものになった。介護のニュースばかり気にするようになった。

週末だけの介護だけど、結局はそれ以外の日も心は母のことに囚われている。
そんなわたしの心はすでにすさんでいる。
わたしは人に対してやさしい。自分でいうな、と周囲はいうけど、本当にそうだ。人のために、人に喜んでもらうことが好きだ。好きなはずだった。

でもわたしからそうゆう気持ちは消えた。人にやさしくするということは、少なからず自分に余裕があったのだと思う。今はかろうじてなんとなく自分で他人へのやさしさを保持しようとしている。けれど人と話す機会は減った。

会社は日々忙しく、若い子に声をかけ、なるべく思っていることをはきだしてもらったり、他愛のない日常の会話でコミュニケーションをとるよう心掛けている。それがだいぶできなくなってきた。人の話を聞く余裕がなく、ミスを許せなくなってきている。
誰かに頼られた時には手を差し伸べるも、自ら手を差し伸べることはなくなった。むしろ、頼られて苛つくようになった。

元々彼も心配して(やりたいのが90%くらいと思っているけど)、時々状況を聞いてくれていたりしたけど、ああしたら、こうしたら、早めにやっておいたほうがいい、なんて会話を幾度とした。そんなのわかってる。お金の問題、遺言書の作成のこと、相続登記のこと、口で言うのは簡単だ、そんな思うようになんていかないっ、とぶちきれた日があった。それ以来連絡はない。やりたそうだったので、ちょうどよかったとは思うけれど、心配してくれていたのに申し訳ないなという気持ちも少しある。

最近つきあっていた元彼に母の認知症の話しをするつもりがなかったけれど、ある時、電話にでれない、電話にでても長くは話せないことがあり、理由を求められたので、母が認知症の初期段階だと説明した、そのことがお付き合いに影響があると思うと深くは話せなかった。
彼から認知症について言及されたこともなかったけれど、わたしは確実に彼にあたってしまうことがあった。その都度、好きでも付き合わないほうがいいだろう。何度もそう頭をよぎった。

友達との会話も言葉がきつくなったと感じるし、他人といる時間が楽しさより、つらいと感じるようになった。

誰しもが起こりうる親の介護。
介護をしたことのない人にはわからないだろうと思う。
わたしは祖母の介護もしているので、この先の自分の未来を想像することができる。
みなが思うほど簡単じゃない。
一緒に暮らす?そんなことできない。仕事は?これからかかるお金の問題は?認知症の人に怒っちゃいけない?当事者だったらそんなことできない。理屈でわかっていても我慢しても、我慢がしきれず怒ってしまう。怒ってしまう自分に嫌気がさす。

ひとつだけ決めている。
下の世話が必要になったときは老人ホームに入ってもらおうと。
母は何歳まで生きるだろう。
お金を貯めないといけない。

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