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おまえは、本当はやさしいから。

 おまえは、本当はやさしいから。
 
 ・・・(は?)

 おまえは、本当は皆のことを考えているから。

 ・・・(何言ってんだ、この酔っ払い。)

 思春期の私は、急にかけられた言葉に、何も返すことができなかった。

 中学3年間続けた部活も今日で引退。打ち上げには部員と保護者と顧問と外部コーチが参加していた。とにかく部活は辛かったということしか記憶にない。あー、やっと、部活から解放される。その安堵感が強く、感慨は全くなかった。顧問や外部コーチにああだこうだとうるさく指導される日々もこれでおしまい。最後にどんな言葉をかけてくれるのかも全然興味がなかった。

 だけど、この時の外部コーチの言葉を、大人になった今も覚えている。

 中学生の打ち上げなので、21時頃には宴も終盤だったと思う。すでに外部コーチはだいぶできあがっていた。仮にも思春期女子だった私は酔っ払っただらしないおっさんをゴミでも見るような目で睨んでいたと思う。

 前後の会話の内容を全く覚えていないのだが、酔いどれおやじの言葉が急に耳に入ってきた。

「おまえは、本当はやさしいから」
 
 ・・・は?誰に話しかけてるんだ?と思ったが、明らかに話しかけられているのは自分だった。

「おまえは、本当は皆のことを考えているから」

 ・・・この酔っ払いは一体何を言っているのか?ろれつが回っていなくてはっきりわからないというより、言葉そのものが理解できず、日本語か?と一瞬考えてしまった。

 多感な年頃ゆえの気恥ずかしさと、何を言われているのかわからず戸惑ったせいでタイミングを失ったのと、そもそも何と言われているのかわからないので何と返せばいいのかもわからなかったのとで、返事らしい返事はできなかった。

 おまえは、本当はやさしいから・・・?

 どういうこと?私はやさしくなんてない。

 私はクズだ。

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 部活から帰ると、母は夕飯を作っていた。正確には、果たして夕飯と呼べるのか怪しい物体を、毎日作り続けていた。生焼けの肉、油に浸かっている焼きそば、麻婆豆腐の素。どれもそのままでは食べられるものではなかった。

麻婆豆腐の素。私と父の2人分だと言われて出された。

 料理として成り立っていない物体が乗っかっている皿を、母はフラフラとよろめきながら食卓に運んできた。今にもこぼしそう、というか、実際にこぼされてしまうことも多々あった。一番よく覚えているのは、終業式の日に持って帰ってきた賞状や通知表などの書類にコーヒー(インスタントコーヒーだが、母が作ると濃すぎてそのままでは飲めない)をこぼされてしまったことだ。休み明けに提出する物もあるのに、これでは私が提出物を雑に扱う人間だと評価されそうで嫌だった。

 料理を作る母の目の焦点が合っていない日もあった。言っていることも不明瞭でよく聞き取れない。「お酒飲んだでしょ?」と聞くと「のんれないよ、うるへぇな!」と返ってくる。嫌がる母をなんとかなだめて自室に連れて行き、ベッドに寝かせた。

 私の母には障害がある。母自身が高校生の時に交通事故に遭い、高次脳機能障害(脳損傷による障害の総称。日常生活の中で様々な症状が現れる)と片麻痺が残った。さらに、私が中学生の頃はアルコール依存症でもあった。

 私が生まれる前から母には障害があったので、私は物心ついた時から母が自分ではできないことを代わりにやるようになっていた。服を着るのを手伝ったり、荷物を持ったりというところから、母が作った料理を作り直したり、母が掃除した場所を掃除し直したり。小さい頃は別に嫌じゃ無かったと思う。母と一緒にいる時間が嬉しかった。でも、中学生ぐらいになると、自分の時間がもっと欲しくなり、次第に母の存在が煩わしくなっていった。

 母は毎日、近所迷惑なほどの大声で「いってらっしゃーい!」と私を見送った。私が勉強していても「ねえねえ、来年は猫年かな?」などとどうでもいいことを話しかけてきた。空気を読むということが苦手なので、無視しても聞いてもらえるまで話し続ける。テスト前だろうと母が転んでいたら起こしにいかなきゃならないし、母が酔っ払っていたらお酒を取り上げて寝かせなきゃならない。トイレを母が汚していたら、自分が用を足す前にまず掃除しなければならない。母が何かをこぼしっぱなしにしていたら、拭かなきゃならない。母は一度何か失敗しても決して学ぶことはない。反省することもない。謝ることはなく、言い訳ばかりする。母が何かトラブルを起こしたら、解決するのは全部私だ。母はいつも私を邪魔してばかりだった。

 母は歩行器を押して、フラフラと1時間以上かけて1人で近所のスーパーに買い物に行くことがあった。母が家にいないと、正直ホッとした。このまま車に轢かれて帰ってこなければいいのにと思っていた。

 母はどれだけ私の邪魔をしても、咎められることはない。だってそういう”障害”があるんだから仕方がない。逆に私は、賞状や通知表にコーヒーをこぼされたって、母がコーヒーをこぼしそうなところに置いておいた私が悪いってことになる。もし母が本当に車に轢かれて帰ってこなければ、1人で外出するのは難しいことを知っていて外に出した私が責められるんだろう。

 ずるい。

 障害者ってだけで、周りに迷惑をかけても許されるなんて。障害があって1人じゃ生きられないくせに、どうして手伝ってくれる人の邪魔ばかりするんだろう。なんでそれで平気で生きていられるのだろう。早くいなくなって欲しい。

 母が大嫌いだった。

 でも、本当に大嫌いなのは母のことが大嫌いな自分だった。

 母にやさしくできない自分はクズだ。大嫌いだ。人にやさしくできない私はこの先、人にやさしくしてもらえることもないと思う。母がいなくなるより先に私がいなくなりたい。こんなクズこそ、のうのうと生きていたらいけないんだ。

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 だから、私はやさしくなんてない。それなのにどうして、外部コーチは「おまえは、本当はやさしいから」なんて言ったんだろう。私は母のことを学校の先生や友人に話したことはほとんどない。部活中も特に他の部員にやさしくすることもなかったと思う。それどころか家でイライラしているのを学校でも引きずっていて、担任や顧問に「態度が悪い」と怒られたことすらある。

 なぜ外部コーチがそう言ったのか、理由はわからないけれど、私はきっと、本当は「やさしい」と言ってもらいたかったから、この言葉を今でも覚えているのだと思う。正直、母の面倒をみていたって「やさしい」とは言われない。だって、あたりまえだから。母と過ごすということは私が生まれたときからそういうことだから。ただの日常生活なので、何をしても別に普通で、プラスに評価されることはない。でもしんどかった。母との生活の中で母や自分を責めるだけじゃなくて、何か肯定されるものが欲しかった。母に障害があることも、自分がクズなことも仕方がないと思っていた。でも本当は私もやさしくありたかった。きっと外部コーチは母のことなんて知らないし、酔った勢いで出た戯言だったのかもしれないけど、初めて「やさしい」と言われたことを自分に都合良く解釈して、今も心の中にしまっている。

 現在、私は24歳になった。今でも働きながら母の面倒をみている。中学生の頃から自分を責めて、早くいなくなりたいと願っていたのに、今もこうして母の面倒をみながら生きていられているのは、自分はクズ100%でできているのではなく、もしかしたら1%ぐらいの「やさしさ」もあるのかもしれないという希望をもつことができているからだと思う。

 外部コーチは「おまえは、本当は皆のことを考えているから」と続けていた。勝手な解釈だけど、もし私が母の面倒をみていた経験が、周りの皆のことを考える上で何かの役に立っていたのなら、純粋に嬉しく思う。自分では全くそんなつもりはなかったけれど、周りの人が私から少しでも「やさしさ」を感じ取ってくれていたということで合っているなら、嬉しい。

 外部コーチ。

 あの時はまさか大人になっても覚えているとは思わず、適当に聞き流しているような態度を取ってしまったけれど、今になって、とても感謝しています。

 初めて、自分の中にあるやさしさを感じることができました。

 これからも、自分の中に少しはあるのかもしれないやさしさを信じて生きてみようと思います。

 どうか、今もお元気で。お酒の飲み過ぎには気をつけて。


 

#やさしさを感じた言葉

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