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「THE・新聞配達員」第5話

まずは飲むとするか。

お店の暖簾とドアを開けて
入っていく二人の後ろをついて行く私。

お店の中に入った。
一軒家の一階部分をお店にしている
ちょっとした飲み屋さんだ。
天ぷらを揚げている匂いがする。

「らっしゃい」

カウンターの中で大将が一人忙しくしていた。
カウンターには5人くらい座れる席がある。
椅子はあるのに座れなさそうな席が2つある。
おしぼりが入っている機械やら新聞やらが置いてあるので。

他に4人掛けのテーブルが3つほど。
2つは埋まっていた。

空いていた一番奥のテーブル席に向かい合わせに座った
先輩とおっさん。
どちらの隣に座ろうか。
ここはやはり先輩の隣か。

「いらっしゃいませー!」
お店の奥さんが奥から出てきて
おしぼりとお水を持ってきてくれた。

「とりあえず生3つ!」
チョッパー大野がいきなり注文した。

何を飲むかを選ぶ暇を与えられなかった。
これくらい強引だとかえって楽チンである。

おっさんが話し始めた。

「君は新人さん?」
「ええ。新人ですねー。」
おしぼりで顔を拭きながら
おっさんとチョッパー大野の二人が話をしている。
私は一言も話してない。

「出身どこなの?」
「大阪ですって大阪。」
顔を終えて今度は首を拭きながら話している二人。

「大阪かー。都会じゃん。何でわざわざ東京になんか来たの?」
「福岡も都会ですよー。内藤さん!」

チョッパー大野の出身地とおっさんの名前の
両方を一気に手に入れた私。

「失礼しまーす!」
生ビールが来た。
一杯目が最高にうまい。
これを飲んだら、もう帰りたい。

「何か食べたいものあったら、じゃんじゃん頼んでいいよ。」
おっさんの、いや内藤さんの顔を見ながら私に言うチョッパー大野。
ビールのジョッキを置きながらウンウンとうなずく内藤さん。

「でも大阪も結構、都会でしょ?
何で東京になんか来たの?」

内藤さんの質問に答えずにビールを飲んでいるチョッパー大野。
ついに私の話す番が来てしまった。

「たまたまというか。
音楽の専門学校が東京か神戸にしかなくて、
どうせなら遠い方がいいかなって思って。」

「遠い方がいいだって?さては失恋したな?
なあ、大野くん。失恋だって失恋。」

「何で俺に言うんです?どうせ俺は振られましたよ!」

チョッパーが白いヒゲをたくわえながら言った。

「失恋しようぜ。じゃんじゃんしまっくたほうがいいんじゃないの?
なあ真田丸!店に可愛い女の子がいっぱい居るじゃないかよ!
ところで誰がタイプなの?」

またその話がやって来た。
そっくりそのまま返してやろう。

「先輩は誰がタイプなんですか?って言うか
彼女いないんですか?」

なぜか内藤のおっさんが答えた。

「ゆりさんという奥方様が・・・」

「わーーー!」

おっさんが何か言おうとしたのを
「わー」でさえぎったチョッパー大野。

「いねえよ!彼女なんて!」

「・・・・・確かに。彼女ではないな。」

「もうその話はやめて下さいよ。俺は完全にフリー!」

誰だ?ゆりさんって?
新聞屋さんにそんな名前の人は居ない。

「おっ! 真田っちは飲むの早いね!さては強いな?
すいませーん!おかわりー!」

おっさんの時間が流れていく・・・

この日を境にチョッパー大野が
やたらと飲みに誘ってくるようになった。

いや、やたらではない。
毎日である。

「飲み行こうぜ!」

ニヤッと屈託のない笑顔で誘ってくる。

タダ酒をいいことに飲みに行く私。
意外と近所に色々とお店があるものだ。

お店のみんなにあまり好かれていない大野先輩。

いや、好かれていないのではない。
完全に嫌われているのである。
そんなチョッパー大野と付き合うことで
私もだんだんと周りから離れていった。

チョッパー大野が横に居るから
誰も話しかけて来ないのだ。

チョッパー大野は、ついには
私の部屋にまで訪ねてくるようになった。

「(ゴンゴンゴン!)居るか?真田丸!」

「はい。」
漫画から目を離さずに答える私。

「何してんだよ!飲み行くぞ!明日休みだろ?」

ゆっくり漫画を読む暇がなくなってしまった。

私が準備をしている間、
トイレに行ったチョッパー大野。
流し終わった後、トイレのすぐ横の竹内の部屋のドアを
ノックもせずにいきなり開けた。

「おい!竹内!何やってんだ!お前も飲みに行くぞ!」

「いや、配達あるから無理っす。」

「配達なんか飲みながらでも出来るじゃねえか!行くぞ!」

「いや、勘弁してくださいよ。」

私は援護した。
「童貞は放っておいて行きましょう、先輩。」

チョッパーが笑った。
「そうだな!童貞はオナニーでもして寝てろ!じゃあな!」

我ながら見事な援護射撃であった。

テレビを見て笑っている坂井のかすかな笑い声がする
そのドアの前をドタドタと大きな足音を立てて出口に向かう我々。
飲みに行くのだから足音は大きめ。
これが配達に行く場合だと小さくなる。

先に階段を降りるチョッパー大野の背中を見てふと思った。

(寂しいんだな、この人は。)

虚勢を張るのも
騒がしいのも
大きな声も
ガサツな動作も
強がっているのも全部全部、
全部寂しさの表れである。

お店の誰からも好かれていない。
お店のみんなから嫌われている。
だからお店の外に自分の居場所を作ろうとしている。

でもお店からは飛び出さずに
まだ何かを期待している。
青い春を。

大人になるのを拒絶している子供のよう。
そんな寂しさと虚しさを紛らわすのに
ちょうど良い後輩が現れたではありませんか先輩。

感受性が豊かな後輩で、すいません先輩。
あなたの背中に哀愁を感じましたので。
つらつらと書き綴らせてもらいますね。
これがいつか歌の歌詞になる日が来るはずです。

あなたが抱えてしまった寂しさと虚しさ。
何かを求めて突き進んだ結果得たもの。

お酒では埋められない何かがその背中にはあった。
それが何か?
私がそれを知る日が・・・・全然来てほしくない!

そんなことよりも大事なのは私のギターだ。
ギターの弦がどんどんと錆びていく。
チョッパー大野と似たような哀愁を漂わせて
私の帰りを待つアコースティックギター。

私はチョッパー大野とではなく
そなたと飲まなければいけないのだったな。
ギターよ、すまん。

明日は休みだから、
新しい弦を買ってくるよ。
ゆっくり優しく張り替えてあげるからね。

その前にちょっと、喉を湿らせてきます。

そのほうが良い声で歌えると
真剣に思っていた20歳の初夏。


〜〜〜〜〜


自分の部屋の蛍光灯を見つめ続けている。

もちろん寝ながら。

今日は休みだ。

何時間経ったのだろう。

私は今後の人生について
ぼーっと考えていた。

音楽で成功するかもしれないし
しないかもしれない。

カナダに来年行けるかもしれないし
行けないかもしれない。

このまま新聞を配達し続けるかもしれないし、
しないかもしれない。

なんで東京に来たんだっけ?
本当にただ遠い方を選んだんだっけ?

違う!

私はただ楽しそうな方を選んだんだ。
楽しそうでワクワクしたから来たんだ。

その通りになっている。

素晴らしい人達が新聞屋さんにいる。
素晴らしい仲間がいる。

しかし今、
お酒でそれをなくしてしまいそうだ。

もう飲みに行くのはやめよう。
チョッパー大野とは付き合うのをやめよう。

次の日、
晩御飯を食べ終えて翌朝の朝刊のチラシを整えていたら
チョッパー大野が二階から降りてきた。

「おう!もう終わりか?飲み行くぞ!」

「いや、今日は、やめときます。」

「えっ?」

ものすごい顔をしている大野先輩。
断ったのは初めてだった。

「なんだよ?どっか具合でも悪いのかよ。」

「いや、毎日飲み過ぎですしね。
そろそろ真面目に学校に行こうと思うんですよ。
なんかコンテストがあるらしいですし。」

確か学校の行事予定にそう書いてあった。

「学校か。つまんねえ奴ばっかだろ?学校なんて。
まあいいや。わかった。んじゃまあ頑張れよ。
また飲み行こうぜ。」

「はい。」

あっさり一人で飲みに行ってしまった大野先輩の
行く先をありありと想像しながらチラシを叩いていたら
優子さんが食堂から出てきた。

「真田くん、最近大野と仲いいね。大丈夫?
あいつ面倒なことばかり言って来ない?」

「いや、大丈夫ですよ。おごってくれますし。」

「んー。あんまり飲み過ぎたらダメだよ。
まあ真田くんはハタチになってるからいいかも知んないんだけど・・・
その・・・二年間ってあっという間だからさ。なんていうか・・・」

「そうですね。そろそろ真面目に学校にでも行きます。
後、絵でも描きますよ。」

「絵?あれ?真田くんって音楽じゃなかったっけ?」

「この前、配達してたら新聞の広告に絵描きセットってのが
あったんですよ。なんか三角のイーゼルってやつと絵の具とキャンバスの
フルセット!か、買っちゃいました・・・」

「えっ?買ったんだ。絵描けるんだね!」

「いえ、これからです。」

「あちゃー。んー、でも、がんばって!」

いつでも前向きで明るくて励ましてくれたり心配してくれたり
決して否定もせず文句も言わない女神のような人。

まともなお酒の混じっていない話が出来て
俄然、頑張る気になってきたぞ!うおー!やるぞ!

その時、大西さんがお店に入ってきた。
40歳の超ベテランでいつもチラシを機械で作ってくれている人。
年が離れすぎていて存在を忘れていた。

何も言わずに食堂に入っていく。

なんてタイミングだ。
今後の人生を考えている時に
良い見本が現れた。

キャンバスを新聞のように灰色に塗るか、
それとも七色の虹のように仕上げるか。

そんな岐路にいる。

私のキャンバスは、まだ真っ白だ。

学生のフィルターにかけ直そう。
まだ間に合う。

私は人生の路線を変更した。

明日は学校に行こう。
いや、その前に朝刊の配達だ。
配達が終わるのが6時で、
朝飯食べたら7時。
支度して8時。
そこから駅に向かって電車に乗って・・・
ギリギリじゃないか!

トントントンと、軽い足音が聞こえた。

「あ、真田くんだ、ひとり?」

由紀ちゃんだ。
お風呂の道具を持っている。
久しぶりに話しかけられた。

「あ、うん。ひとり。」

「今日は飲みに行かないんだね?」

「はい。明日こそは学校に行こうかと思いまして!」

「そうかそうか。ウンウン。あ、お風呂行ってきまーす!」

「いってらっしゃい!」

なんてことだ!
いきなりだ!
なんてツイてるんだ!

心を路線変更しただけでもう、
目の前に青春が広がるではないか!
素晴らしいキャンバスだぜ!

早速、白いキャンバスに
黄色い太陽がさした。


〜〜〜〜〜


学校に来た。
眠い。
朝刊を配ってからの学校は
本当に眠い。
2時から起きているのだから当然だ。

今、学校に着いたばかりで9時。
遅刻である。

遅刻であるのにも関わらず
起きてからもうすでに7時間ほど経っている。

人が一日に16時間活動するのだとしたら
私はあと9時間あることになる。
学校は今始まったばかり。
このままあと学校に5時間はいる。
残り時間あと4時間。

学校から帰ったら夕刊の配達だ。
15時にはお店に戻らないといけない。
夕刊の配達に2時間必要だ。

残り時間はあと2時間。

いける!いけるぞ!直樹!
まだ2時間もある!

夕刊後は待ちに待った晩御飯。18時頃。
食後に次の日の朝刊のチラシを整えて終わり。19時。
終わった。
持ち時間を使い切った。
2時間なんてあっという間だ。

さあ、もう寝よう。

しまった。
移動の時間が入っていなかった。
ワープするしかないだろう。

でも私はまだやり残したことが、たっぷりとある。

ここは大事に確保していた睡眠時間8時間を
使うとしよう。

まずは自分の部屋に戻ってビール。
おもむろにギターを胸に抱えて
テレビを付ける。

テレビを見ながらビール。
ギターはただ抱えているだけ。

コマーシャルの間だけポロロンと音を出す。
これが唯一の練習だ。

脳内の消毒とギターの練習が終わった。

もう10時だ。風呂に行かないと。
風呂の道具と銭湯代だけを持って銭湯へ。
財布を持っていくと、さらにビールを買ってしまう。

銭湯まで何分かかるかなんて計ったことないな。
5分くらいか。
銭湯で何分体を洗ってるかなんて計ったことない。
10分くらいか。

足りてるか?私の時間たちよ。
まだ使い果たしていないかな。
どんどんと仲間は減っていき
オロオロとしている私の時間たち。
レミングスにはさせないぞ。

19時からはロスタイムだから
気をつけておかないと
朝刊の配達中に非常階段で寝てしまう。

銭湯から帰ってきて23時。
4時間使用した。
あと4時間!

あれれ?
2時からスタートなのだから
あと3時間しかない。

もう計算も出来ない。
フラフラだ。

しかし私は若いからなのか
ただ眠いだけで
睡眠不足ではないと思っている体と脳を
持ち合わせていた。

つまり余り睡眠時間を気にしてはいなかった。

ただ眠いだけで
体がおかしくなるような気はしなかったのだ。

しかし、みんなすごいな。
やはり平日を休みにするべきだった。

さて先生の話を全く聞かずに
そんなことを考えていた。

時間割を確認した。

1時間目 ギター
2時間目 楽典
3時間目 アンサンブル
4時間目 アンサンブル
昼食
5時間目 ドラム

第二楽器という
第二外国語みたいな感じで選んだドラムも習える。
素晴らしい。

授業は理論、理論、理論のオンパレード。
持ってきたギターは使わなかった。

アンサンブルの時間が来た。
ギターの出番だ。

各楽器のクラスの数名であらかじめ班(バンド)が出来ていて
その班で防音スタジオに入る。

ドラムス科から一名
ベーシスト科から一名
シンガーソングライター科から一名
そして私ギター科からはなぜか三名。
ギター科だけ人数が多い。
ピアニストは不在。
計5名の班でアンサンブルという授業が行われる。

先生が言った。

「各班、今度のコンテストで演奏する曲の練習をするように。」

私が学校に来ずに飲み歩いている間に
この班もコンテストで演奏する曲を練習していたようだ。

いきなり一人ギターリストが増えたことに
メンバーは敵意を抱いている感じがした。

ベーシストの男が言った。
「早く始めようぜ。」

私より年上風のギターを抱えた男がリーダーのようだ。
「そうだな。早速合わせよう。えーと、真田くんだっけ?」

「はい。」

「君、全然来ないから知らないと思うけど教えてる時間ないんだ。
これが今度のコンテストでうちが演る曲だから事務所でコピーしてきて。」

「あ、はい。ありがとうございます。」
バンドスコアを受け取った。

「ギターどうやって3つもパート作るの?」
ドラムスの男がリーダーに訪ねた。

「俺がソロで、田中くんがコード弾くから、真田くんにはパワーコードでも弾いといてもらおうと思うんだけど。」

「いらなくない?」
そういった瞬間ドコドコドン!と流れるようにドラムを叩いて見せた。

「早くやろうぜ。」
ヴォーカルを担当するシンガーソングライター科の男も言った。

ギターのコード弾きを担当する田中くんだけ初心者っぽく、
あとの三人はなかなかのベテランっぷりだった。

スタジオのドアを開けてから
閉めるまでの間にこれだけの性悪の風を浴びた。

楽譜を持ってスタジオを出て
事務所に向かった。

どれどれ。何を演るんだ?
スコアを見た。
「星をください  ザ・ブルーハーツ」

ブルーハーツは好きだけど
この曲は知らなかった。

歌詞を読んでみた。
「都会の空に星をください
願いをかける 星さえ見えず・・」

この星の所はビールに替えるべきだな。
ビールなら大抵の願いを叶えてくれる。

簡単なコード。
演奏自体は簡単だ。
なんせ魂がこもっているんだブルーハーツには。

ブルーハーツの曲はコードは簡単だけど
魂をイかれるくらい込めないと
同じような演奏にはならないだろう。

イかれたような奴は班には一人も居ない。
見れば分かる。
まだチョッパー大野の方がマシだ。

まるで学園祭だ。

知識も豊富だ。
専門用語もよく使って話をしていた。
演奏も上手い。
合わせるのも上手い。
間違いをしない人達。

魂はどこにいった?
熱い気持ちは?
この曲を作った人に気持ちは?
歌詞に込められたメッセージは?
どこにも行き場のない悔しい気持ちを
この剣に込めて切り刻みにいくんだろう?

「学校なんて、つまんない奴ばっかだろ?」
チョッパー大野の声が心でこだました。

その通りだった。

学校出身で有名になった熱いロックンローラーは
まだ居ない。

ジョンレノンはアートスクールに通っていたが
美術でだ。
私も美術の学校にすれば良かったのか?

それならばイかれて色彩が狂った
変態だらけに囲まれたのかも知れない。

楽しそうだ。

しかもそれが女の子なら最高だ。
小さくて白くて柔らかくて
良い香りがして・・・
そしてイかれていて変態。
部屋中を絵の具で塗りたくろう。
手を筆にして顔をキャンバスにしよう。
自分の顔が緑・赤・黄色に染まっていく。

白黒コピーを取り終えて
スタジオに戻った。

あれ?演奏してなかった。
スコアをリーダーに返した。

「ありがとうございました。」

「うん。じゃあ始めようか。」

なんで始めてなかったのか。
この間に何を話し合っていたのか。

「真田くんはそのアンプを使って。」

「はい。」

急いでギターをひっぱり出してアンプに繋げた。
「ラ」の音が欲しい。

田中くんに言った。

「ごめん。ラの音くれへん?」

「ラ?」

「ラ!チューニングしたいから5弦を弾いて・・」

私は待ってられなくなって田中くんのギターの5弦を勝手に弾いた。

「ビ〜ン!」

チューニングを急いだ。
田中くん以外のメンバーは私が何をしているか
わかっているようで軽く音を出してはいるが
控えめである。

1弦を弾いているくらいでリーダーが言った。

「いけた?じゃあいこうか。原田くん!カウントしてくれる?」

「はいよ!ワン!ツー!カンカンカンカン!」

ドラムの原田くんがワンツースリーフォーは口に出さずに
ドラムのスティックをカンカンと叩いて、それにした。

始まった。
ベース音とドラムの音がやたらとデカくて
ギターの音が聞こえない。

さらに歌が始まった。
なのにベースとドラムの音にかき消されて
全然声が聞こえない。

でも、すごい顔をして歌っている。

でもみんなその事に気づいてないのか
これで良しとしている。

私は聞いた事がない曲だったので
適当にバンドスコアを見ながらコードを
ジャーン!と弾いていた。

同じコードを田中くんも真剣に弾いていた。

リーダーが何をやっているのか気になったので
ふと見てみた。

リーダーはスコアを見ながらギターを弾いている。
こちらを見ていない。
全体を見渡してなどいなかった。

んー。なんなんだろうか。この感じは。
早く終わらないかなと時計を見ながら
しているバイトみたいだ。

私はこれを学ぶために学校に来たのだな。
きっとそうに違いない。

やっと学校の役目が分かった。
大収穫である。

【ロックンローラーは学校には居ない】
これだ!

演奏が終わってリーダーが私に言った。
「真田くんはパワーコードって分かる?」

「はい。」

「ベースとかぶせるようにパワーコードで弾いてて欲しいんだ。
でないと、田中くんとかぶるからさ。」

「あ、すいません。この曲聞いた事なかったもんで。」

「えっ?ブルーハーツ知らないの?」

知らないわけないだろう。
腹が立ってきた。
ここは一発、変態になろう。

「はい。知らないです。」

「ええっ!!マジ!そんなギターリスト聞いた事ねえよ!
もしかしてクラシック出身?」

「はい。母親は僕をピアニストにしたかったらしいんですけど、犬が苦手だったもんで。」

「犬?!!」

「はい。ピアノの先生の家に大きな犬が居て、それがもう
怖くて怖くて、ピアノ辞めたんです。」

完璧だ。
こいつにはもう話しかけない方がいいぞって
感じにみんながなっている。

とんだ厄介者が入り込んだと全員が思っている空気が
充満したスタジオで田中くんが初めて話してくれた。

「でも、雰囲気出てたよ。」

「あ、ありがとう・・」

いいヤツじゃないか!
爽やかだ。

一番人気が出そうな気がする。

そしてコンテスト当日。

机と椅子が綺麗になくなっている広い教室に
特設ステージが出来ていた。

そのステージの向かいには審査員席も用意されている。
先生たちが座っていた。

「はい、次はE班。準備して下さい。」

D班が降りたステージに上がって
自分のギターをアンプに繋げた。
今日はチューニングはバッチリだ。

みんなもバッチリ準備完了して
音を出している。

「はい。静かに。では一人一人自己紹介と最後にリーダーが曲名を
言ってから演奏を始めて下さい。」

「ロック部ギター科1年の真田直樹です。好きなバンドはブルーハーツです。よろしくお願いします!」

田中くん以外の3人が下を見るふりをしてこちらを見てきた。
一切笑っていない。睨んでいるように見える。

先生が言った。
「では、始めて。」

あれれ?
なんか、みんなが緊張しているように見える。
リーダーとドラムの原なんとか君が見つめ合っている。

唾を飲み込んだドラムが言った。

「ワン!ツー!ワンツーカンカン!」

演奏が始まった。

みんな自分の手元を真剣に見ている。

悪いが私のパートは簡単すぎる。
しかも間違えても大してバレもしない音だ。

みんなのことを見ながら弾いた。

みんな自分の手元を見て
間違えないように演奏しようと必死である。

先生たちを見た。
仏頂面ばかり。

つまらない演奏にお似合いの
つまらない顔が3つも並んでいた。

一人だけはこちらを見ている。
もう二人は手元の採点表を見ている。

これで一体どうなるんだろう?
学費でも免除になるのかと思うほどの
必死さだ。

先生手作りの金メダルでも貰えるのだろうか。

私は馬鹿らしくなった。
ずっとこちらを見ている先生が気になってきた。
私たちの演奏をどうやら聞いていないぞコイツ。
聞かずにこちらを真剣に見ている。

何を見ているのだろう?

私たちのこの体の奥にある才能とか可能性とかを
見抜こうとしているに違いない。
そんな目付きだ。

そんな気がしただけだったが、
私はそれに応えたくなった。

よしっ!やってやろう!

打ち合わせにもない
練習にもなかったパフォーマンスを私は
勝手にしてしまった。

歌が途切れたタイミングで
飛び跳ねた。

そして足をアンプの上に乗せた。

さすがリーダーだ。さっそく気付いて
演奏しながら、こちらを睨んでいる。

ギターでアンプを叩き壊すには
私はお金が無さすぎたのでやめた。

そして私はスチュアート・サトクリフを真似て
後ろ向きに演奏した。

演奏が終わった。

みんなハーハー言っている。
まだリーダーはこちらを睨んでいる。

先生は何も言わない。

でも私は
こちらをずっと見ていた先生の期待に
応えられたような気がして満足していた。

やっと真ん中に座っていた先生が言った。

「はい、では結果は来週、掲示板に貼り出します。
決勝進出が決定したグループについては、会場への・・・」

なに?
決勝だと?

これは予選だったのか?
知らなかった!

それを一番初めに教えておいてほしかった。

これで落ちたとか、
お前のせいだとか
顔に書いたリーダーが
片付けるふりをして私の横に来て
小さく「何してくれてんだよ」と呟いた。

ベーシストがその瞬間ため息をつきながら
「あーあ」と言った。

私たちE班は最後だったので
先生たちは部屋を出て行った。

重たい空気を残したまま
私は一番にその部屋から出た。

爽やかだった。
田中くんには悪いが私は一人でやることに決めた。
もうアンサンブルの授業には出なかった。

そして結果発表の日。

今日は手ぶらで来た。
学校に着いてすぐに掲示板を見た。

やはり私の予想通り!
E班は合格して決勝進出している!

私のパフォーマンスが効いたのだと思って喜んだ。
先生に聞かずともそうに決まっている。
それしか決勝進出した要素も可能性もない。

でも私はもうそのまま学校を出て
1杯290円の牛丼屋に入った。
そしてもう二度と学校には行かなかった。


〜〜〜〜〜


また私は調子に乗って学校に行かないようになってしまった。
今度のは本物だ。

ドラムの上手さでもない。
ベースラインの綺麗さでもない。
ヴォーカルのルックスでもない。
私のパフォーマンスだけが認められたのだ。

私が居ない決勝のステージを見たら
あの先生はショックだろうな。

そんな自信過剰な妄想をしていた。

私は私を特別な人間だと思っていた。
みんなと同じように。

学校はもう収穫を得たので満足だ。
やっぱり夜は起きておきたい。

そしてそのまま朝刊を配って
朝飯を大量に食べてから
ビールを飲んで寝る。
これだな。

生活スタイルがすっかり夜になった。

朝刊が終わってからお昼まで寝る。
これで6時間ほど、たっぷりと寝られる。

お昼に起きれば買い物をしたり
ギターを弾いたり本を読んだりも出来る。

これでどんどん作曲していこう!
夕刊までの間の3時間で。

そして睡眠もバッチリだ!
夜もパワフルだ!
好循環だ!
やったーっ!

おっと、もう14時半だ。
もう夕刊を配りに行かなければ。
またギターを弾きそびれた。

夕刊の配達中でも妄想に耽る。
朝刊の時は特にだ。
朝などは新聞配達員以外の全人類が寝静まっているので
妄想の邪魔はされない。
夕刊は違った。
ちょくちょく話しかけられるのである。

「ごくろうさま!大変ねぇ。学生さん?」

「はい。学校には行ってない学生です。」

「えっ?」

「いや、学生です。」

「そう。ご飯とか食べてるの?こんなので良かったら持ってって。」

お菓子やら饅頭やらミカンやらを頂くことは多い。

「ありがとうございます!いただきます!」

「お茶入れようか?あ、配達中だったわね。」

「はい。まだ続きがありますので、これで失礼します。」

「気を付けて!」

女の人ならまだマシである。
これが男性でしかもおじいさんとくると
かなり厄介である。

しかも夕刊は日曜日以外、毎日ある。

つまり、佐久間さんの家は
集金の日だけ行くのではなく、
毎日、朝と夕方の配達で来ているのである。

一日に人の家に二回も行くことがあるだろうか。

毎回、声が掛からないことを祈りながら
そっと音を立てずに自転車を停めて
新聞をポストに入れる。

「おー、真田か。ちょうど良かった。頼みがある。」

「ぬぉわっ!」

「どうした?」

「いえ、いきなり後ろから声を掛けられるとは、拙者、思い及ばず・・」

「江戸から来たのか?私は買い物の帰りだ。」

「あ、はい。おかえりなさいませ。」

「ちょっと聞いてもらいたい頼みがあってな。
まあ入れ!茶でも飲んでいけ。」

「いや、まだ配達が残っておりまする。」

「なら、さっさと配ってからまた来ればいい。
もう少しじゃないか。」

自転車の前カゴに残っている残りわずかの夕刊を見られてしまっている。

「では、すぐに戻って参ります。」

「うむ。気を付けてな。」

これからは道順を変えて
佐久間さんの家は最初のほうにしよう。

10分ほどで残りの夕刊を配り終えて
佐久間さんの家に戻った。

ベルを押すまでもなく、
庭に居た佐久間さん。

「ただいま戻りました。」

「おう、入れ。茶を入れよう。」

「お邪魔します。」

家の作りが良い木で出来ているので
家の中に入ると、なぜか落ち着く。

自分の長屋の木の部屋とは
また違う落ち着きを感じる。

森の中に入ったかのよう。

まろやかなお茶が舌の上に乗る。

「ごちそうさまでした!」

「おう、そうだ。そのやかんに水を入れておいてくれ。」

「はい。」

「水は庭の井戸の水だ。」

「井戸!」

「そうだ。井戸を使ったことがないのか?ならば教えてやろう。こっちだ。」

ガラッと窓を開けてそのまま庭に出た。

突っかけが無かったので私は玄関に回って
自分の靴を履いて佐久間さんの所まで行った。

「こっちだ。」

庭には木々が多くて何が出てくるか
分からない迷路のようだ。

あった!井戸だ!
太い蛇口のようなパイプが出ている。
横にはキコキコと上下に動かせるレバーが付いていた。

「これを動かせば水が出てくる。やってみろ。」

「はい。」

私は恐る恐るレバーを動かした。

キーコキーコ。

「そんな弱々しくては出るものも出んぞ。もっと強くだ。」

「はい。」

キコキコキコキコ。

遠慮を捨ててレバーが壊れてもいいやと思ってやってみると
出てきた水。

「うわ、出た!」

「ん。何回か出してから汲んでくれ。ここにやかんを置いておくぞ。」

そう言って佐久間さんは家の中に入っていってしまった。

私はもう一度勢いよくレバーを動かして
水を出した。

チョロチョロ。

これだけ勢いよくレバーを動かしているのに
出る水は少し。

チョロチョロ。
チョロチョロ。

やかんを満タンか。
結構大変だ。
そう思った瞬間、
ドッバー!!

いきなり勢いよく水が出てきた。
詰まっていたのか!
急いでやかんでキャッチした。

井戸水って美味いのかな?
味見してみた。

うえっ。鉄くさい。
まあでも沸かせばあのお茶になるのだから
鉄分多めのミネラルウォーターだ。

重たいやかんを持って家の中に入った。

「汲んで参りました。」

「よし。ここに置いておいてくれ。」

「はい。」

ドンっとやかんを置くと佐久間さんが言った。

「おい。満タンに入れるな。重くてポットに入れれん。半分にしてきてくれ。おー、ついでにその水を庭の木々に撒いてくれ。」

いったいいつになったら帰れるんだろう。
また優子さんが来る前に帰らないと。
しかもまだ晩飯を食っていない。
腹が減ってたまらない。

仕事をささっと終わらせて言った。

「では、終わったんでこれで失礼します。ご馳走さまでした!」

「待て。頼みたいことがあると言っただろう。」

「えっ?やかんに水を入れることじゃ・・」

「そんな事ではない。買ってきてもらいたいものがある。見せよう。」

そう言って佐久間さんはキッチンの扉の中から缶詰を出してきた。

「これだ。ホールトマトの缶詰だ。」

「ホールトマト?トマトの缶詰ですね。これを買ってきたらいいんですね。」

「まあ、そう急ぐな。いいか。トマトの缶詰ではない。ホールトマトだ。
カットされたトマトもあるから間違えるな。」

「あ、なるほど。分かりました。今からですか?明日でも良いですか?」

「いや、1缶ではなく24缶入りを2ケースだ。いけるか?」

なんと!そんな大量のトマトで何するんだ、このおじいさまは!

「自転車があるからいけるな。ちょっと遠いスーパーだが若いからいけるだろう。」

勝手にいけると決めつけてから佐久間さんは、
新聞のチラシを持って来て私に手渡した。
このスーパーに買いに行けば手に入るらしい。
しかしこのチラシはきっと私が新聞に挟んだものだ。

じっとそのチラシを眺めていたら
佐久間さんが言った。

「カレーだ。カレーを作るのに要るんだ。特別なカレーだ。」

「特別なカレー、ですか?」

「そうだ。特別だ。出来たらお前にも食わせてやるからな。」

「はい。ありがとうございます。カレーってこんなにもトマトが要るんですね。」

「そうだ。シャルマンさんのカレーは普通のカレーではない。」

「シャ、シャルマンさん?シャルマンさんのカレー・・・ですか?」

「そうだ。シャルマンさんだ。彼がうちに来てカレーを作ってくれる。だから材料を用意しておかなくてはならん。トマトだけは重たくて買いに行けん。お前が居て良かった。」

おー。まだ買いに行ってないけど、
すごく役に立った気がする。

しかし、シャルマンさんが気になってしょうがない。

「カレーって事は、インドの人か何かですか?シャルマンさんって。」

「そうだ。新宿のインドレストランで料理長をしている。再来週の月曜日に来てくれる。それまでにホールトマト行けるか?」

「はい!行けます。自転車だから、すぐですよ!」

「そうか。すまんな。すごく特別なカレーだから楽しみにしておくといいぞ。ライスもサフラン・ライスだ。黄金色に輝くんだ。あとスパイスが色々とあって、ややこしいが、それはシャルマンが持って来てくれる。肉は私が買っておく。」

めちゃくちゃ楽しみだ。
シャルマンさんのカレーまであと14日か!

「おう!あとついでに屋根にコールタールを塗ってくれ。いつでもいいぞ。」

どんどんと約束が追加されていく。
コールタールって道路のやつか?
そんなの簡単に手に入るのか?

佐久間さんの用事は意外な事ばかりで面白い。
もし佐久間さんが若い女の人だったら最高だったのになぁと
ふと思う年頃の私だった。


〜〜〜〜〜


月曜日になった。
あまり生活に関係はない。

しかし今日は佐久間さんの家にシャルマンさんという
インド料理店の料理長が来て
腕をふるってくれているはずの日だった。

どんなカレーだろう。
楽しみだ。
私もホールトマト缶を買いに行くという
工程に参加済みである。
少しくらい頂いてもいいだろう。

私が佐久間さんに頼まれて買ってきた
ホールトマト48缶がどうなったのか
知る必要もある。

そして
夕刊の配達の終わり頃。
佐久間さんの家まで来た。

めずらしくこちらからドアのベルを鳴らした。

佐久間さんが玄関に来た。
「また後で来い。今は忙しい。19時くらいには出来るから。」

「はい。また来ます。」

なんか大ごとだ。
ささっと作って「お前の分はこれだ。持って帰れ。」
くらいでは済みそうにない。

台所の方から賑やかな音がする。
私はきっと手伝えそうにもない。

急いで残りの夕刊を配り終えて
まずお店に戻った。

「おかえりー!」

優子さんの声がした。

なんとこれは?
カレーの匂いがするではないか。

私にはこのようないやらしい偶然がよく起きる。

佐久間さんの家にカレーをご馳走になりに行く日に
お店の晩御飯がカレーとは。

小学校の時の給食がカレーだった日に
家の夕飯がカレーで母親に
「なんでカレーやねん!昼もカレーやってんで!」と
理不尽極まりない文句を言ったことを思い出した。

反省すると共に、ここは大人になった所を
披露するとしよう。

「ごめん、優子さん。今日ちょっとお腹の調子が悪いから
食べるの少し遠慮しとくわ。優子さんのカレー最高なんやけどなー。」

「えー。無理したらダメだよ!今タッパーに入れてあげるから
後で調子が良くなってから食べたらいいじゃん。それより大丈夫?風邪?」

「いや、普段の暴飲暴食に祟られた感じです。」

「んー、飲みすぎかな?まあいいや。ちょっと待ってて。」

そう言って優子さんは小さめのタッパーを出してきて
カレーを入れてくれた。

優しすぎるんですよね、この人。

「はい!食べれなかったら捨てていいからね。お腹の薬ある?」

「お腹の薬は自慢ではないですけど、たっぷりあるんですよ。
小さい時から飲んでいる高野山から取り寄せている大師陀羅尼錠という漢方薬が。」

「なんかすごい名前だね。お腹弱いんだね。
今日はお酒あんまり飲まないようにしないとね。」

「かしこまりました。控えさせていただきます。
それでは明日のチラシを整えて参ります。」

「お願いしまーす!」

と、その時ちょうど竹内が帰って来て食堂に入って来た。

「ただいまー!おっ、カレーか。
あれ?真田くんカレー持って帰るの?
いいなぁ。ねえ優子さん。俺も持って帰っていい?」

「えー?真田くんは・・・」

私は口を挟んだ。

「俺は腹が痛いから食事を辞退したけど、後で腹が治ってしまって、
もし夜中にどうしようもなく腹が空いた時のために優子さんが特別に
お持ち帰りにしてくれたんや。普段は禁止や。みんなの分がなくなる。」

「そうかー。腹痛いんだ。飲み過ぎじゃないの?」

すっかりお酒をたくさん飲む人になっている私。

しかし嘘をつくもんではない。
一度ついた小さな嘘の辻褄を合わせるために
さらに嘘をつき、その上にも嘘を塗り、
まるで嘘で出来たパズルを完成させるかのように
細部に神経を使わなければならない。

【お腹が痛い】

たったそれだけの嘘で
人の心配や優しさを踏みにじっているような気がして
お腹ではなくて心が痛くなってきた。
いや、本当にお腹が痛くなってくる不思議。

いかんいかん。
幻のシャルマンさんのカレーを食べに行かなければならない。
さっさと仕事を終わらせて出発しよう。

自分の部屋に優子さんからもらったカレーの入ったタッパーを置いて
すぐに佐久間さんの家に出発した。

着いた。

玄関の横にあるライトがほのかに光っている。
庭にもところどころのほのかなライトがある。

私はベルを控えめに押した。

ジ、ジリリ・・・

いつもならすぐに大きな声で誰だと言うはずの
佐久間さんが、今日は何も言わずに玄関のドアを開けた。

「出来てるぞ、入れ。」

いつもより声が小さい佐久間さん。

襟の付いた白いシャツにチェックのズボン。
まるでレストランに食事をしに来たみたいな服を着ていた。

「お邪魔します。」

なんか空気が神妙だ。

ダイニングに入ると
上下が白い民族衣装のような服を着た
肌の色の黒い人が立っていた。

シャルマンさんだ!

心でそう思った時、
その人は振り返った。

私は見て笑顔になり、
両手を広げて言った。

「ようこそ!こちらへ!」

そう言って
いつものお茶を飲んでいるテーブルの席に
案内してくれた。

でもいつもとは雰囲気が全然違った。
まるでレストランに来たかのようだ。

しまった!
私はヨレヨレのTシャツにジーパン。
新聞配達していた格好そのままで来てしまった。
しかも汗くさい。

そうだった。
レストランの料理長が来てくれているのだ。
そして自らの手で料理を作ってくれたのだ。

本当なら高いお金を出して食べるレストランの食事を
タダで食べられるのに
その敬意を全く感じられない格好だった。

ここは若さで許してもらおう。

私がそんな心配を心の中でしている時、
佐久間さんとシャルマンさんは
そんな事は全く気にしない様子で
食事の支度をしていた。

これが東京の大人か。

忘れないようにメモしておこう。

私をゲストに仕立てて最高のディナーを
用意してくれている大人の二人。

なんて贅沢な時間なんだろう。

私はどうしたらいいかわからずに
テーブルの横に立ったままで居た。

「お前はそっちに座っていろ。」
ピアノの椅子を指差して言った。

「なにか弾けるようになったか?
弾いてもいいぞ。聞かせてくれ。」

テーブルにグラスやらを置きながら言う佐久間さん。

思い切ってピアノの蓋を開けて
赤い布を取ってみた。

鍵盤たちがこちらを見て微笑んでいる。

指が音を出したそうに震えている。

鍵盤たちも早く押して欲しそうだ。

相思相愛にも関わらず
私はどうすればいいのか分からない。

実家にはピアノがあるが
まともに一曲も弾けない。

昔、なにかを練習していたような気がするが
思い出せない。

こういう時は、なかなか思い出せないものだ。

思い出した!
イマジンだ!

思い切って右手の人差し指と中指で
ミとソの音を同時に弾いてみた。

ジャーン!

凄い音だ。
佐久間さんが弾いている音を聞くより
自分で弾いた音の方が大きく感じる。
同じピアノなのに。

良いピアノなのだろう。
凄く心に響く音が私の指にも出せる。

もう一度弾いた。

ミとソの音を同時に弾いて
その後にドの音を弾く。
それを繰り返しただけで
世界で一番有名な曲が鳴る。
凄い事だ。

「イマ〜ジン、ゼアーズノー・・・♪」

シャルマンさんが口ずさんだ。

やはり世界で一番有名な曲だ。

歌っているシャルマンさんを見ようと
キッチンの方に目をやるとカレーらしきものが
目に飛び込んだ。

「わーー!!」

テーブルの上を見て思わず叫んでしまった!

なんだ、あれは?
カレーか?

私は立ち上がってテーブルまで行った。

「うわ、なんですかこれは?」

「凄いだろう。これを置いていってくれ。」

佐久間さんがスプーンとフォークを持っていた。

私はこんなカレーを見た事がなかった。
カレーなのかも分からない。

白いお皿の中に
黄色くてツヤツヤのご飯があり
その上に液状でも固形でもないカレーが乗っている。

鳥のそぼろのあんかけのようにも見える。
あんのようにトロっともしていないが
ハンバーグのように固まりでもない。

細かい挽き肉がちょうどしなやかに
カレーの色をして黄色いご飯の上に
寝そべっている。
その上に半熟の卵と緑色の葉っぱが乗っていた。

その横にサラダ。
サラダにトマトは入っていない。

あれれ?
どこにホールトマトが入っているのか?
トマトの影も形もない。
きっと溶け込んでいるに違いない。
48缶分全てのトマトが。

早く食べたい。

ポンっ!

栓が抜ける音がした。
キッチンでシャルマンさんがワインのコルクを
抜いていた。

背の高いグラスを持ってきた佐久間さん。

「飲めるか?このカレーにはワインだろう。」

「飲めます!手伝います!」

「もう完成だ。お前は食べるのを手伝えばいい。」

「若いだから、いっぱい食べるでしょ?」

シャルマンさんが少し間違えた日本語で言ってくれた。

台所をよく見たら大きな寸胴がコンロに乗っている。
私の首から腰くらい大きい。
あれにカレーが入っているのか。

「いつもたっぷり作ってくれる。ありがたい。
後でそれを一食ずつにして冷凍保存しておくんだ。
いつでも好きな時にシャルマンさんのカレーが食べられるぞ。」

「おかわり、いっぱいしていいよ!」

シャルマンさんが言った。

(早く食べたいぞ!)

「では出来たな。乾杯するとしよう。」

佐久間さんが言った。

3つの背の高いグラスに少しだけ入った白ワインを
一つ持って佐久間さんが言った。

「シャルマンさんのカレーに乾杯!」

するとシャルマンさんが言った。

「さくまさんのピアノにカンパイ!」

私もグラスを持って上に上げた。
そして二人のグラスにグラスを当てた。

美味い!
安物の赤ワインしか飲んだ事がない私が
心の中では白で大丈夫なのかと思っていた私が
凄く美味かったので反省した。

口の中がさっぱりして
心がワクワクしてきた。

反省している場合ではない。
さあて、いただきます。

「こんなカレー、見た事ないです!本当にカレーなんですか?」

スプーンで半熟玉子を突きながら言った。

「そうだろう。私も初めはビックリした。」

「サフランライスがおいしいよ!」

私はまずカレーと呼んでいる部分だけをスプーンに乗せて
食べてみた。

美味すぎた。

次に黄色いご飯だけを食べてみた。

なんとも言えない味がする。
もちもちしていて美味しい。

味に夢中で天井を見ながら食べている私に
作り方を話し始めた佐久間さん。

「すべてスパイスだ。色んなスパイスがたくさん入っている。
目には見えないがたくさん入っている。」

まるでシャルマンさんが作っているところを
見て学び、それを復習しているかのように。

シャルマンさんはウンウンとうなづきながら
食べている。

「あしたはもっとおいしくなるよ。」

なるほど。
明日も優子さんに腹痛を訴えなければ。

ディナーが終わった。

私はカレーの部分を2回と
ライスの部分を1回と
ワインを3回おかわりした。

佐久間さんは片付けは明日やるから
置いておけと言って
少し赤い顔をして
ピアノに向かった。

いつもの曲を弾き始めた。
ピアノの音が豪華なディナーにピッタリだ。

ワインのおかげでところどころ半音ズレた
ベートーベンとショパンが耳に心地良かった。
私も同じワインを飲んでいるから大丈夫だった。

シャルマンさんも目を瞑って聞いている。
腕を組んでいるシャルマンさんの指が目に入った。
ゴツゴツしている。

この特別なカレーと特別なディナーを作ってくれた指。
そしてピアノの音を出している佐久間さんの指。

私の指は一体これから何を作るんだろうか。
こんな大人たちになれるんだろうか。

東京は私に色んなものを見せてくれる。

〜つづく〜



いただいたサポートで缶ビールを買って飲みます! そして! その缶ビールを飲んでいる私の写真をセルフで撮影し それを返礼品として贈呈致します。 先に言います!ありがとうございます! 美味しかったです!ゲップ!