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「THE・新聞配達員」第2話

東京初日の夕方5時。

夕飯が新聞屋さんのお店の中で
食べられるらしいので、
そろそろ自分の部屋を出て、
お店に行く事にした。

いや、待てよ。
他の学生たちや従業員たちも
食べに来てるのだろうな・・・

女の子も居るかも知れない。

鏡はどこだ?

かばんの中を探すも
そんなもの持ってきていない。

共同の流し台かトイレにあるかも?

無かった。

仕方ない。
歯くらい磨いてから行くかな。

隣の部屋もその隣の部屋も静かだ。
誰もいない感じがする。
まだ入居してないのか。
それとも夕食にあり付いているのか。
女の子か。野郎か。

ダメだ。妄想が止まらない。
こう言う時はぶち当たるのみ。
早くお店に突撃しよう。

部屋に鍵を掛けて
階段を降りて靴を履き
お寺に居ること思い出しながら
お店に向かった。

暗くなりかけの黄昏の街で
少し寂しい気持ちになりながら
お店への道を歩いた。

まだお店と部屋の間は
わずか一往復目だ。

お店に着いた。
木造で古いお店。
隣の建物との間の狭い通路に
綺麗に並んでいた配達用の自転車は
今は無くなっていた。

その自転車置き場の奥の方から
賑やかな機械の音と明かりが
見える。

私は薄暗い通路を通って
明るいお店の中に入った。

オッサンが居た。

歳は40代くらい。
うるさい機械をいじっていた。
その機械は新聞の折込チラシを
一つに束ねる機械だ。
最新機種だ。

15種類ほどのチラシを
一瞬で一つにしてくれる魔法の機械だ。

中学を卒業したばかりの時に
春休みの8日間だけ地元で新聞配達をしたことを
思い出した。

その時は
チラシは一枚一枚、手で重ねて
新聞の中に挟んでいた。
機械など無かったのだ。

10種類ほどのチラシが作業台の上に並んでいる。
そのチラシを上手に右手だけで一枚ずつリズミカルに
取っていき全部取り終えた所で新聞が待っている。
そして新聞の口を左手で開けて一気に挟み込む。

15歳の時だったので5年前の話。
20歳の今(1996年)は機械化されていた。
ありがたい。

その難しそうな機械の目盛りを
オッサンは目を細めて調整しながら
スタートボタンを押す。

「ガシャン!ガシャン!」と大きな音を立てて
機械は一気に15種類のチラシを内部に取り込んで
一番下まで流し込み、
一番下のチラシだけは二つ折りになる形で、
その上からやってきた15人衆をくわえ込む。
これで見事に一つにまとまるチラシたち。

このお店は合計で2千部ほどの新聞を
みんなで配達していたので毎日このオッサンは
この機械と2千部のチラシを作り上げて
いることになる。

木製のささくれ立った長いテーブルのような
作業台が壁沿いに置かれ、
さらにお店の真ん中に2列並んでいた。

おやっ?
その奥に部屋が見えた。

食堂だ!

白くて長いテーブルが二つ並んでいた
簡易式の丸いすが何脚も重ねて置いてある。
入り口にはスリッパがたくさん置いてある。

チラシマシーンのオッサンは
私には気付いてないかのように機械と戯れていたので、
ちょうど良い感じで無視して食堂の方へ顔を入れた。

居た!
昼間、自分を部屋に
案内してくれた優子さんだ。

優子さんがご飯を作ってくれていた。
ホッとした。
あのコタツに居たおばあさまではなかった!

食卓の上には育ち盛りが満足できるほどの
大きな唐揚げ達が一人前分ずつお皿に盛られていた。
レタスとトマトもポテトサラダも添えられて。

大きなご飯の釜が二つもあり、
食卓の上にはヤカンやらお箸やら醤油やら
が所狭しと置いてある。

普通の家庭の台所を少しだけ広くした感じの食堂なので
4人ずつくらいしか一度に食事が出来ない。
これは早い者が先に頂けるルールになっていて
待っている間に先ほどのオッサンが作ってくれた
新聞のほうのご馳走である「明日の朝刊分のチラシ」を
自分が必要な部数だけ持って行って
綺麗に整えて自分の作業する場所に置く
という作業をしておくという寸法だ。

ぼーっとしている私に気付いた優子さんが
声を掛けてくれた。

「あ、いらっしゃい!ゆっくりできた?そこ空いてるから座って!
ご飯は欲しいだけ自分でついで!お椀はここ。お味噌汁は
コンロの上に置いてあるから、自分で好きなだけよそって。
お箸はここ。お茶がヤカンの中に入ってるから。
もし食べ足りなかったらテーブルの上の納豆は食べ放題よ。」

そうなんです。
大阪には馴染みのあまりない納豆が
いつでも食卓の上にあるという習慣に
初めて出会ったのでした。

私はどうやら夕飯一番のりだったようで、
働いてもいないのに先に食べても良いものかとか少し考えたが、
でも遠慮してもしょうがない。
早く食べたほうが後から来る人たちの為にも良いと思って・・・
いや・・もうお腹ペコペコで何も考えられないので
・・・いただきます!

ガツガツ食べていたら
「ただいまー」と背中側のお店の方から
男子の低くて若い声が聞こえてきた。

優子さんが大きな声で
「おかえり!」と叫ぶ。

顔を見せることもなく、その先輩は
食堂に入っても来ずに奥にある階段で
二階に上がって行った。

「みんな夕刊を配り終えて帰ってくるからね。
ご飯を食べ終えてチラシの準備が出来たら車でお布団を
部屋に持って行ってもらうから少し待っててね。」

「かたじけない。」

「ん?なに?」

「あ、いえ、色々ありがとうございます。」

「みんな最初は、そんなもんよー。助け合い助け合い!」

「ただいまー!」
今度は明るい二つの声がハーモニーとなり
聞こえてきた。

あきらかに女の子の声だったので
私は箸を持ったまま振り向いた。

女子二人が食堂の椅子が空いているか確認するように
顔だけを食堂に入れてきて、こちらを覗き込んだ。
私と目が合った。挨拶してきてくれた。

「あ、どうも、こんばんわ・・」

「あ、こんばんわ。」

私も挨拶した。

そして、すぐに後ろにいる
もう一人の女の子に
「空いてるよ!食べよ!」
と言って、二人は食堂に入ってきた。

二人目の女の子も挨拶してくれた。
みんな礼儀正しい。

「あ、こんばんは。」

「あ、こんばんは。」

私は追加で説明した。
「今日からここでお世話になります。大阪から来た真田と言います。」

一人目の女子が応えてくれた。
「あ、私たちもまだ来たばかりで・・・部屋は上ですか?」

優子さんが温かい食事を作りながら
温かい補足説明をしてくれた。
「いや、もう上は空いてないから、富士荘ってお寺の所にしてもらったの。」

二人目の女子はご飯をついでいる。
「ご飯これくらい?」

「ちょっと多いかも。」

「えー。少食だね。」

もう私に関する情報など聞いていなかった女子ふたり。

それ以上私と女子たちは会話することもなく
黙々とご飯を食べた。

食堂の奥に部屋がまだあるみたいで
その奥の部屋へと入って行こうとした優子さん。

ガラッとドアを開けると
コタツとおばあさまが見えた。

そうか!
最初に来た時の正面玄関から入った部屋と
この食堂は繋がっているのか。

おばあさまにもお食事を。
所長にも。旦那様にも。
そして私たち従業員の分も・・・
全て優子さん一人でこしらえていた!

明るく元気に!

私は結局少し緊張したまま
ご飯を食べ終えて自分の分のお皿を洗って
ごちそうさまを言った。

奥の部屋から戻ってきた優子さんに
女子が質問をした。

「この人は何区?」

きっと私のことだ。

優子さんが答える。

「えーと多分6区になるから細野くんが帰ってきたら
教えてもらおうと思って・・」

「どの辺?6区って?」

「河田町とかかな。フジテレビがある所だよ。」

「へぇーいいなー。でも賑やかそうだけど逆に怖いのかな。」

「そうね、夜でも結構賑やかかもね。」

「嫌だー、でも真っ暗よりマシなのかな。」

いつの間にかお店の中には
帰ってきた何人かが明日のチラシの
準備をしながら食堂の席が開くのを
待っている感じだった。

優子さんがエプロンを畳みながら私に言った。

「もうすぐ細野君って先輩が帰って来たら
仕事の事を色々と教えてもらえるから、待っててね。」

「あ、わかりました。」

「あ、」を出だしに付けないと
話せなくなっていた私。
人が多くなってきたからだろうか。
初対面にしては話しているほうである。

早く自分の部屋に戻りたくなった。

お店の二階に上がる階段を見つけた。
その横にはトイレがある。
さらにその横には洗濯機があった。

自由にみんなで使える共有の洗濯機だ。
ありがたい。

明日の分のチラシをトントンと
器用に叩きながら整えているロン毛の男の先輩が
話しかけて来た。

「今年は新人が多いなー。君は大阪から来たって?」

「あ、はい。よろしくお願いします。」

優子さんが食堂からちょうど出てきて
靴のかかとを引っ張りながら言ってくれた。

「この子で今年は最後。今年は7人入って来たわね。」

ロン毛の先輩が驚いた。
「7人も!俺まだ出て行きたくないですよ・・優子さん。」

「はいはい。大丈夫だよ。沢井君真面目だもんね。」

俺はまだ出て行きたくないと言いながら、
機械をいじっていたオッサンのほうに
視線を向けるロン毛先輩。
その視線を見た私と優子さんも同じように
オッサンの方を見た。

いつまでもこのお店に居られるような気がした。

オッサンに先輩達に近藤一家。
そして今年の新人が7名。

この狭い店に全員で何人いるのだろう。

「ただいまぁ。」

優子さんが一番に応えた。

「おかえりー!細野君!待ってたわよ!」

細野先輩か!
さっと振り返る私。

なんと爽やかな好青年!
痩せ型で私よりも背が高くて
顔もシュッと整っていた。

しかし、元気がまるで無い。
この世を憂いている側の人間だろう。

細野先輩が口を動かした。
「あー、・・・。(この子だね?俺が教える後輩は。)」

多分そう言いたかったのだろうことは
その場に居た全員が分かった。
しかし細野先輩は「あー」とだけ言って私を見て
早速チラシの整え方を私に教えるべく
何かを探している様子だった。

優子さんが微笑んだ。
「では、細野君、よろしくお願いしまーす!
あと、篠ピーが帰って来たら車で真田君の布団を
部屋に持って行って欲しいんだー。」

細野先輩の視線が私のおでこに当たる。
「真田君?あ、彼ね。」

き、聞こえない!
大丈夫か私?
仕事を覚えられるのか
不安になって来た。

細野先輩は優子さんの方を向き直した。
「優子さん。この子に6区教えたら俺はどこに行くの?」

「えーっと、車で中継の係。」

「・・・(コクっ)」

コクっと首だけ縦にうなづきながら
細野先輩は早速、私に仕事を伝授し始めた。

6区ってなんだろう?車で中継?しのぴー?
そろそろ新聞配達員の専門用語集が欲しくなってきた。



さっそく仕事を伝授し始めようとする細野先輩。
木の作業台の上やら下やらをキョロキョロと何かを
探している模様。

作業台の位置は、ちょうど洗濯機の横。

「ここが6区の人の作業場所。この机一列で3人が作業するから
ちょうど新聞3部分が一人分の作業スペース。やたら狭いから工夫しないと
すぐ散らかるから気をつけて。まぁ実際にやる時にやり方は見せるよ。あれー?無いなー。」

何かを探しながら、とりあえず教え始めてくれた。
先輩は下を向きながら話していたので、
ほとんど聞こえていない私。

【6番テーブルは、ここの右側の三分の一のみで、
隣に気を付けろ】ということだろう。
隣国に攻め込まれたり攻め込んだりした苦労を
後輩に語る日が私にも来るのだろうか。

細野先輩は優子さんに聞いた。

「俺のゴム知らない?ここに置いてあったのになー新品。」

「えー。置いてたら無くなるよー。新しいのあげる。」

な、なんの話だ?ゴム?
いきなり急展開か?そんなわけないか。

優子さんは食堂の横の小さい2畳ほどの事務室のような
小部屋の事務机の引き出しを順番に上から開けていく。

「あれー、無いなー。」

事務机に無かったので、中の部屋に入っていった。
扉が開いた瞬間にコタツのおばあさまが見えた。

すぐに戻ってきた優子さん。

「新しいゴム無いから、私のを使って。
また買っとくよ。」

と言って細野先輩に渡したのは
オレンジ色の指サックだった。

細野先輩はその指サックを受け取って言った。

「優子さんのお古か。良かったね、はい。」

そう言って私にその指サックを手渡してくれた。

細野先輩が言った。

「あ、嫌だった?」

優子さんがすかさず突っ込んだ。

「いや、全然使ってないし。」

「・・・・」

私は何を言っていいのかわからずに突っ立ったままで居た。

私はまだ冗談に参加できる器を持ち合わせていなかったので
沈黙したまま指サックを眺めた。

「それが無いと仕事にならんからね。大事にポケットに入れといて。」

そう言ってチラシのオッサンがこしらえてくれたチラシを
手に取って6番テーブルの方へと持って行った。
そのチラシにはオッサンの汚い字で書いた【6区】と書いた紙が
挟んであった。

「それ6区の分。全部こっちに持って来て。後ろの台に置いていって。」

「えっ?あ、はい!」

ついに仕事が始まった。

初めての作業だ。

私は貴重な、おさがりの指サックをジーパンのポケットにしまって
チラシを先輩の元へと運び始めた。

先輩はクールにチラシを手に取り
爽やかに台の上でそれを叩き始める。

シュルッ、タンタン!
シュルッ、タンタン!

リズミカルに手際良く
チラシを立てたり横にしたりして
整えていく。
右手で立てたままのチラシから
少しはみ出している何枚かの広告を
折れないようにふんわりと右手で叩く。

チラシ達がどんどんと綺麗に整っていく。

オッサンはただ機械でひとまとめにしたチラシを
区域分ごとの枚数にして置いておくだけの
粗い仕事しかしていなかったことが判明した。

綺麗に整ったチラシを作業台の下に置いていく先輩。
見事だ。
指サックが無くても大丈夫なのか。
私はいつ指サックをはめれば良いのか。
指サックのことばかり考えてしまう。

「見てる?強く叩きすぎたら潰れるから優しく。台の上に紙を立たせる感じで。」

「あ、はい。」

「叩いたチラシは下に置く。6区は新聞が175部あるからチラシは180枚。
失敗が許されるほど余りが少ないから気を付けて。」

「はい。」

「折(オリ)が全部左側だと傾いて崩れるからある程度
で右にしたり左にしたりして積んだら高く積めるから。」

「はい!(分からない時は声を大きめに)」

「あ、ちょっとやってみる?はい。」

先輩にチラシをひとつかみ渡された。

「あのー。指サックした方がいいですか?」

「いや、指サックは新聞に入れる時に使うから
今は要らない。」

「あー、なるほど。」

私は指サックがちゃんとポケットにあることを
外側から確認してからチラシを手に取った。

いずれ寝ながら鼻をほじりながらでも整えられるほどに
ベテランになることなど知らずに・・・

さて、
まだまだ初日は続くのであった。



いきなり始まった先輩とのコラボ。
もちろん「折込チラシ」を奏でたのである。
ギターはまだまだ大分先になりそうだ。

180部の折込チラシをわずか10分間もかからずに
綺麗に整えて作業台の下にセット完了。

先輩は汗ひとつかく事なく、
まるで何もしてなかったかのように
爽やかにクールに私に聞いてきた。

「これで明日の準備は終わりだけど。ご飯食べた?」

「あ、はい、食べました。」

「そう。ご飯食べてチラシの準備が出来たら、その日の仕事は終了。
朝は2時にお店に集合。準備してたら新聞が来るから、みんなで運ぶ。」

ん?なんて言った?
2時?

たしか来た時に優子さんに
「今日はゆっくりしてね」と言われた気がしたが、
2時にということは・・・
あと何時間後だ?
なんだかんだで、もう7時半になってるぞ。

いや、次の日の2時かな?
次の日がいつか分からなくなってきた。

確かに12時で日付が変われば明日だ。
しかし12時01分に「明日は休みだ!」と言ってしまうと
それは夜が明けてからの事ではなくて、
24時間後に日付けが変わってからの日時になるのかな?

よくわからなくなってきた。

でも2時は今晩だから今日だと思うんだけど。
ちょっと誰かに質問したいな。

誰にというわけではなく、
だいたいみんながいる場所めがけて
質問を投げ掛けてみた。

「すいません。朝の2時というのは、
もうそろそろやって来る今晩の2時のことですか?」

「そうそう。そうか!まだごっちゃになるよね。俺も初めはそうだったな。
日付が変わってすぐの2時のことだよ。明日と言えば12時からが明日だから。
すぐ慣れるよ。俺はなかなか慣れなかったけど。」

細野先輩は少し興奮したのか声が大きくなっていく。

『しのピー』こと篠原という名前の先輩もいつの間にか帰って来ていて、
ご飯を食べ終えて爪楊枝でシーシーしていた。
こちらの話が聞こえていたようだ。

篠ピー先輩が言った。

「テレビの番組表が悪い。
今日の新聞には11時59分までの番組しか載せないでおくべきだ。」

優子さんは小さな事務机に座りながら
それを聞いていた。

「面白いね!なるほどね。12時以降は明日だから明日の番組として
明日の新聞に載せるべきよね!でもそれだと12時までに
朝刊配り終えなくちゃ!」

みんなが笑った。
私は笑えずに顔を上げて、みんなを見た。

みんな笑っている。
話をしながら笑っている。
あと6時間半後には仕事が始まるというのに。

頭が混乱していく。
まとめてみようか。いや止めておこう。
なんとかなるさ。
みんな楽しそうなんだから。
なんか良い人しかいないな。

私の中の詩人の部分が小さい声で呟いた。
『【夜寝ている時間は今日、そして朝起きた所からが明日。】
そんな今までの常識よ、さようなら。』

新聞配達員シップにのっとって誓います!
今日からは、
日付けが変わる12時までが今日であり、そして明日の始まり!
明日はもう始まっているので今日と呼ぼう!
明日の配達とは今晩の事である!

そんな習慣、身に付くのか?
もし「真田くん明日休み?」と誰か可愛い女の子に聞かれたら
今晩の事である!忙しくなるぞ!

そんなこんなだったら早く寝たいな。
あっ!風呂だ!
銭湯に行かなくちゃならなかったんだ!
確か営業時間は夜12時までって言ってたよな。
今日中に入れって事だな。

優子さんが思い出してくれた。

「そろそろ真田君のお布団持って行こうか。
篠ピー、車って駐車場になおしちゃった?」

「あー、そうだ、そうだ。取りに行ってくる。」

「ごめんね!よろしく!」

細野先輩が風のように呟いた。

「俺、その間にメシ・・・」

素敵な人達じゃないですか。

でも、お風呂、間に合いますように・・・



駐車場に車を取りに行っていた篠ピー先輩が戻って来た。
細野先輩は体が細いくせに早食いだった。

「運ぶ布団ってどこ?」
「洗剤置き場の横」
「これかー。デカイなー。高いやつだな。」
「確かに。デカイけど軽い。」

私はただ見届けることしか出来ずに
事が進んでいくのを見ている。

「あ、ちょっと待って!私も行く!乗せて!」

優子さんもついて来てくれるみたいだ。

布団を車の後ろに積んで
白い軽のバンで4人、お寺(私の部屋)に向かう。

車はお寺の境内の中まで入っていき
ほぼ寮の玄関付近に停車した。

先輩二人の仕事が早い。

しかし布団が大きすぎて
狭い階段を上がるのに手こずる。
通路いっぱいに布団がミッチミチの状態。
布団が悪いのか通路が悪いのか。

「押してー!下から押し上げてー!せーの!」
壁をズリズリ言わせながら
4人でなんとか私の部屋に布団を入れ込んだ。

はー!やっと自分の部屋だ!
優子さんは私の隣の部屋をノックして
話しかけていた。

「坂井くん!大丈夫!マシになった?おーい!生きてる?」

「ぅ、あ~~ぃ・・・」

寝起きのような、病人のような、しわがれた男の声が
隣の部屋から聞こえてきた。

隣の奴はもしかして、ずっと部屋に居たのか。

篠ピー先輩が太くて安心感のある声で言った。

「おい、坂井。明日からいけるか?」

「あ、は~ぃ、いけます、ゴホッゴホッ!」

私も気になったので自分の存在感を消しつつ
そっと隣の部屋のドアを中が見えるくらいまで
無音で開けてみた。

細野先輩と同じくらい新聞の似合わない細そうな男が
寝ていた。

テレビがちゃんとテレビ台の上に乗っている。
小さなテーブルまである。
なるほど。こうすれば洒落た部屋になるのだな。

坂井君は私と同じ今年の新人だが
私は20歳。
彼は高校出たての18歳。

全く何も知らずに来たのだろう。
初めての仕事。
しかも日付変更線との戦い。

私もこうなるのだろうか。

彼はここに来て3日目で倒れるように
崩れ落ち、2日間寝込んでいるそうだ。

私より5日間先輩。
私の5日後の姿。

そんなにも、この仕事はキツイのか!
果たして私は立派な新聞配達員になれるのか!

間違えた。

私は音楽学校に通うために
新聞奨学生になったのだ。

1年間で120万円もの学費を
この手で稼ぎながら学校に通うことを
決断した勇気ある苦学生だ。

私の場合はたまたまそうなったが、
みんなは、かなりの覚悟でここに来たのだろう。

120万円を時給1000円のアルバイトで稼ごうと思ったら
1200時間も掛かる。

1日8時間で150日間連続勤務で達成出来る。
休みを入れたとして6ヶ月で達成できる。

いや、私は単純な男ではない。
騙されないぞ。

私は人間なので生活費が別途必要だ。
よく気が付いた私よ。

仮に家賃3万円の物件を見つけたとして
贅沢しなければ月10万円で暮らしていけるだろう。

1年間の生活費が120万円。
学費も1年間で120万円。

1年間の学費と生活費を稼ぐのに
引っ越し費用とか敷金礼金とか無視しても
240万円いるから時給1000円で2400時間必要。

1日8時間労働で300日間連続勤務。
休日を入れたら約1年間必要なのか!

お金を貯める事と学校に行く事を
別にしたら2年間掛かる所を
「新聞配達員」という荒技で
一気に同時に1年間でやってしまうというわけだ。

そんな事に今頃気が付いた私。

8時間労働した後に学校に行けるのか。
6時間は学校にいるとして通学時間を足して
15時間。あれ?まだ9時間も残っているな。

いける!いける!
いけるぞ直樹!

なぜこんな計算を来る前にしておかなかったのか。
倒れて布団の中で死にかけているまだ顔が見えない隣人という戦友を
眺めながらそんな事を考えていた。

優子さんの声がフェードインして聞こえてきた。
現実に意識が戻って来た私。

「・・・ご飯食べられる?持って来ようか?お粥かなんかにしようか?」

「ぃや、い・ら・な・い」

その時、さらに隣の部屋の扉が開いて
背の高くて色が白くて眠たくないのに
眠たそうな顔をした男が現れて布団の戦友に声を掛けた。

「大丈夫?坂井。なんか買ってこようか?」

私と一瞬、目が合った。
そして私に向かって話し始めた。
話すのが好きそうな顔をしている。

「あ、この部屋やっと入ったんだね。今日来たの?
あ、俺、竹内。」

竹内君は優子さんの方に向きを変えながら私に言っていた。

「大阪から来た真田です。よろしく。」

篠ピー先輩の大きなお腹が視界に入って来た。

「おー竹内。お前、今日休みだったんだな。明日の朝、
坂井をちゃんと連れて来いよ!」

優子さんも私の隣で言った。

「竹内くん、よろしくね!」

何やらずっと私の部屋を眺めている細野先輩。

「お、ビートルズのバンドスコアじゃん!いいの持ってんね。今度貸して。」

「あ、はい。」

「んじゃ帰ろう。竹内頼んだぞ。」

「えー。なんで俺〜。」

笑いながら別に嫌そうでない口振りは、
みんなにいじられると幸せを感じるタイプなのだろう。

私はそんなみんなに愛されるキャラ竹内君が
先輩たちにいじられているスキに
さっと竹内くんの部屋を覗いてみた。

ほほう。ちゃんと絨毯を敷いてある。
カーテンも。それが青で統一されている。
テレビはあったが床に直置き。
テーブルは無かった。

エンジンが掛かる音がして
車のドアがバタンと閉まる音がした。

お礼を言う間も無く先輩達と優子さんは
お店に帰っていった。

竹内くんが階段を上がってきて
私の部屋を覗いた。

「明日起こそうか?どうせ俺このまま寝ないで
起きてるから、もし寝てたら起こしてあげるよ。
坂井も起こさなきゃいけないし。」

「あ、ありがとう。ちょっと今から風呂に行って来ようかと・・」

「銭湯早めに行っといたほうがいいよ!遅い時間はやたら混むんだよ!」

なるほど。なるほど。
身の回りの情報の入手先を手に入れたような気がした。

とにかくみんな優しそうな人ばかりだ。



銭湯に急いだ。
場所は昼間に下見済みだ。

小さいタオルと石鹸をビニール袋に入れて
向かった。

昼間しまっていたシャッターが開いていた。
中に入ると男湯と女湯が入り口で分かれていた。

右は青い暖簾の男湯
左は赤い暖簾の女湯。

赤い暖簾を一度でいいからくぐりたい。
それは私にとっては天国への暖簾だ。

私は下駄箱に靴を入れて男湯と書いた
青い地獄への暖簾をくぐって扉の中に入った。

入ると直ぐはるか頭上に白髪のおじい様が
かなり高い位置で椅子に座っている。
「番台」というやつだ。

おじい様はこちらを見ずに真っ直ぐ前を見て座っていた。
テニスの審判員のような、もしくはプールの監視員のような
高い位置から私を見下すように言った。
「370円。」

僅かに聞こえた声で先払いだということが分かった。
私は持って来て千円札を手を上に伸ばして台の上に置いた。

おつりを取った後、風呂場全体を見渡した。

テレビでよく見る典型的な古い銭湯だ。
ドリフでよく見るような東京下町の銭湯。

高い位置に座っているおじい様は、
男湯と女湯のちょうど真ん中の仕切りに位置している。

天国へ行くか地獄行きかを決める閻魔大王が座る位置だ。
どっちをも監視することが出来るその高台で
閻魔さまは千円札を箱にしまう。

待てよ。
一回風呂に入るのに370円掛かる!毎日だぞ!
そうなのだ。新聞奨学生だからと言って風呂代は免除されない。
フリーパス券は無い。
それでもやはり、帰りにビールを買おうと思っている。
千円札一枚しかは持ってきていなかった。
お釣りの630円で500mlを2本飲むつもりだ。

ふと大王を見た。
大王の視線はその真正面に置いてあるテレビを向いている。

それはそうだろう。
いくらもう性欲がなくなっているとはいえ、
女湯の方ばかり見ていてはプロではない。

いかにテレビを見ている風に眼球だけ女湯を視野に入れるかだろう。
そう考察した私。いい仕事だな。こっちがいいな。
「新聞配達員」ではなくて「銭湯監視員」で学校に通えないものか。
「大衆浴場監視員」かな?「番台養成所」?

そんな事を思いながら服を木製のロッカーに入れて
木の札のような鍵をかけて風呂場に入った。
黄色いケロリンと書いた風呂桶がたくさん並んでいるのが目についた。

20人くらいはいっぺんに入れそうな浴槽と洗い場。
正面には大きな壁画。富士山ではなかった。
上を眺めてみた。
もちろん女湯は見えないが5メートルはあるであろう高い天井から
1メートル分は壁が無く、開いているので音や声は聞こえてくる。
いちおう湯気で繋がっていることになる。
どれだけ目を凝らしても、湯気には何も写ってはいなかった。

しかし考えてしまうのは毎日の370円。悩ましい限り。
明日の分までしっかり洗ったら
二日分入ったことに出来るか試そう。

370円分しっかり入って元を取るのだ。

いつも実家ならシャワーしか浴びないのに
この日はゆっくりと、そしてたっぷり湯船に浸かり
体を真っ赤にしてから風呂を上がった。

風呂から上がるとしっかり冷えた
牛乳が入ったケースが目の前にある。
うまそうだ。
しかし、この後のビール様の出番が台無しになってしまう。
ここはテレビを見てごまかそう。

体を拭きながらテレビを見ていた。
なんか視線を感じる。
入り口のほうからだ。
入り口を見た。
閻魔大王だ。

白髪で牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけている。
前が見えているのかどうかも疑わしい面持ち。
いや、カモフラージュに違いない。
「私は何も見えてない風」にしておかないと
女湯からのクレームが半端ないだろうからな。

しかし、やたらと私を見ているような気がする。

私が閻魔大王を見ると
大王はわずかに視線をテレビに動かす。

銭湯の番台としての見込みでもあるのかな?
それとも男が好きなのか?
なんで一人で両方の湯を同時に見る必要があるのか。

視線をテレビに戻すと思いきや
また大王の方を向いて見た。

やはり私を見ていた。
大王の視線が少し下を向いている。
ちょうど私の股間の位置だ。

気のせいという事にしないと
これから毎日ここに来るのだから辛くなる。

しかし世の中には色んな仕事があるものだな。
募集の貼り紙でも貼ってないかな。
辺りを見渡した。

味気ない二色刷りの貼り紙があった。
区役所からのお知らせのようだ。
「今年は水不足!」と書いてある。
大阪では見たことないな。琵琶湖のおかげかな。

牛乳から目が離せない。
小学校の時の給食で飲んでいたのと同じ形。
やはり牛乳の誘惑に負けた。
よく冷えた瓶の牛乳を小さなケースから取り出して
大王に渡した。
「百円」だった。

これでビールは350mlになってしまうな。
牛乳は後でコンビニで飲んでも美味しくない。
今この瞬間の風呂上がりにキンキンに冷えた牛乳が良いのだ。
まるで旅行に来ているみたいな感覚。
それはそうだ。
まだ来て初日。初めての銭湯である。

わたしは股間への視線を思い出しながら
また青い地獄の暖簾を押して外に出た。
大王はこちらを見ていなかった。

まだ肌寒い4月の夜。
早くビールが飲みたい。
なぜ千円しか持ってこなかったのか。

銭湯には財布を持っては行かないというイメージに
とらわれすぎていたのか?
腕に冷たいものが落ちてきた。雨だ。

なんてことだ。
せっかく風呂に入ったというのに
雨に打たれて濡れそうだ。
小雨のうちに帰ろう。

もし今銭湯に戻ったら、さっきの料金で
もう1回お風呂に入らせて貰えるのだろうか?
いやきっと私のことを覚えてない素振りを見せるだろう。
それが大王というものだ。


何かを新しく始める時。
私のそれは雨の日。

はじまりはいつも雨。
ただの雨男である。

雨の日に合わせて新しいことを始めるのでは無い。
新しいことを始めたその日に、何故か雨が降る。
人はそれを雨男と呼ぶらしい。

銭湯から部屋に戻り、
今日を振り返ることもなく
かばんの中身を空けることも億劫になり、
350mlの缶ビールを2本飲みながら
風呂上がりに飲んだ牛乳ごときに
ビール様が負けたような気がしていた。

もう11時半だ。
何時からだっけ。お店に行く時間は。
まあ隣人が起こしてくれるだろう。

隣の部屋のテレビの音が聞こえてくる。
テレビが無い生活は初めてだ。
テレビが無いっていうのは寂しいのだな。
漫画でも読もう。
「行け!稲中卓球部」を何冊か持って来ている。

気が紛れた。

なぜこんなにも寂しいのだろう。
急にホームシックにかかってしまった。
ビールのせいかな。
ひとりの寂しさを紛らわせるのに
稲中卓球部はちょうど良かった。

意識が稲中卓球部を読んでいるのか
夢を見ているのか分からないくらい
ぼーっとしていた。

ゴンゴンゴン!
「坂井!起きてる?」
ゴンゴンゴン!
「ふぁ〜い」

かすかにそんなやりとりが聞こえた。
タッタッタと歩く音が近づいて来て
今度は私の部屋のドアを叩く。

ゴンゴンゴン!
「起きてる?もう行くよ。」

「ありがとう、歯磨いてから行くわ。」

「んじゃ俺、先行ってるから・・・」

ドタドタドタっ!と階段を賑やかに降りて
竹内くんが砂利の上を歩く音が聞こえた。

すぐに隣のドアが開く音が聞こえて
何やら流しで水を使う音が聞こえた。

隣人の坂井くんが部屋に戻った音を聞いて
私は歯を磨きに流し台に行った。

歯を磨いていたら坂井くんが
部屋から出て来た。
レインコートを着ている。

「お、あ、どうも」

そう言って階段を降りていった。
階段を降りた後は砂利があるから
誰かが行ったり来たりするのがよくわかる。

大丈夫か、坂井くん。
青白い端正な顔はまだ子供が抜け切っていなかった。

さて私も階段を降りて
昨日もらった(もしくは今日の夕方)指サックが
ポケットにあるのを確認しながら
砂利を踏み歩いた。
雨は気にならなかった。

お店に着いた。
みんないる。
多分これで全員なのだろう。
いっぱいいる。
お店の中に全員は入れないので
外の自転車に乗っていたり
自転車置き場の奥の方の暗がりで
座っている者もいた。

どわ!目の前が暗くなった!
お店に入ってすぐの小さな事務室に
大きな男がいる。
学生っぽくない大男。
小さな事務室と同じ大きさの体。
ちょうどピッタリサイズだ。
背も高くて、お腹もデカくて背中もデカイ。
何もかもデカいその男が高くて大きな声で言った。

「おい、坂井!お前大丈夫か。顔が白いぞ。無理しないでいいからな。
田舎の母ちゃんには連絡したのか。メシちゃんと食えよ。
あ、そうだ!おい!優子!」

「はーい!」

奥の部屋から優子さんの返事が聞こえた。

「レインコートまだあるか。」

「あるよ。3XOでいい?」

「いや、俺んじゃなくて・・お!来たか!」

私と目が合って、私のことをちょうど話そうとしていた
大男の会話に入ることになった。

「今レインコートやるからな。初回だけだぞ。2回目からは自分で買えよ。
サイズはLでいいか」

「あ、はい。Lでいいです。」

自己紹介は省かれた。
優子さんの夫か兄か弟か。
馴れ馴れしい会話が家族であることに
間違いはないだろう気がした。

「おい、まだか」

大男はガラッと奥の部屋へのドアを開けて
中に入っていこうとした。

もうこれ以上大きくなったら家の中に入れない大男は
ちょっと斜めに扉を交わして部屋の中に入っていった。

「今日雨だから優子が配る所、篠原に車で行ってもらったら?」

「えー。私が行くよ。それか優さんがバイクで行く?」

「いや、俺がバイクに乗ったら壊れるだろ。」

二人の会話が聞こえてくる。
「すぐるさん」っていうのか。
大男は。

優さんと優子さん。

幸せな夫婦が、このお店を切り盛りしているのだな。

「来たー」

外で誰かがそう言った瞬間、
全員が表に出ようとした。

私は細野先輩を見つけた。

「あ、よろしくお願いします。」

「ん。新聞取りに行こうか。」

「あ、はい。」

どうやら新聞様のおなりだ。

新聞を大量に積んだトラックに
みんなが並んでいる。

順番に新聞のかたまりを受け取って
お店の中に入っていく。

男は二つずつ。女の子は一つずつ。
カッコつけて三ついく奴もいる。

「一つ」というのは新聞が60部、
袋に入ってPPバンドで十字にしっかり縛られている
固まりの事。
なかなか重い。

私は新聞の固まりを二つ持ってお店の中に入り
細野先輩の後を追った。

「ここに置いといて。」

先輩と昨日チラシを作った場所の
足元に新聞の固まりを置いた。

またトラックに行って
固まりを受け取る。

みんな会話しない。
みんな無言だ。

トラックの新聞の固まりが無くなり
ドライバーが「ありがとうございましたー」と言って
トラックは去って行った。

私は細野先輩の所に急いで戻った。

「今日は見てるだけでいいから。」

周りのみんながハサミやカッターで
新聞の固まりに付いていた黄色いPPバンドを切っている。

しかし先輩は違った。

新聞の固まりをあえて裏返しで置いていた。
裏面にはPPバンドの接着部分が見える。

その接着部分を上手く引っ張って
PPバンドを道具を使わずに手で
外していた。

プチーン!
プチーン!

カッコイイ!
「ここ。ここを引っ張ったらバンド切れるから。」

なるほど。確かにハサミの数が人数分無く、
少しハサミ待ちが発生している。

早くこの技を覚えた方が良さそうだ。

先輩は外したPPバンド2本の長さを揃えて
端のほうで結び始めた。
さらにもう一本。

「これ、後で使うから。出来るだけ長さは同じにした方がいい。」

新聞配達って奥が深そうだな。

今度は袋から新聞の固まりを取り出す。

「袋が破れないようにそっと新聞を出すんだ。
今日は雨だから3枚は要る。」

何のことかよく分からないけど
とにかく袋も接着部分から綺麗に
開けて新聞を出していた。

先輩はその袋をポケットにしまって
昨日準備しておいてチラシを下から
台の上へと持ち上げた。

自分の右側にチラシ。
真ん中に新聞の固まり。
左側は空いている。
そして右手の親指に指サック。

これで準備OK!

先輩は目にも留まらぬ速さで
新聞の中にチラシを入れていく。

15部ほど入れたところで
トントンと叩いて綺麗に整え
それを左側に置いた。

「新聞3つ分のスペース」が要るとは
このことか。

隣の奴を見てみた。

同じことをしているが、かなり遅い。
時々止まっては、ため息をついている。
レインコートが暑かったのか脱ぎ出した。
坂井くんだった。

大男がこちらを見た。
「おい坂井!倒れる前に言えよ!」

「は、はい。」

完全に手は止まっていた。

「えーと、真田だったか。はい!カッパ!」

「あ、ありがとうございます」

私はレインコートを受け取った。
新品のまだビニールに入ったレインコート。
分厚くて上と下のズボンに分かれていて、
高そうだった。
こんな本格的なレインコートは初めてだ。

坂井くんを見た。
同じレインコートだ。

周りをぐるっと見てみた。
同じレインコートを着ている女の子が居た。

しまった!
細野先輩が居ない!
すぐ外の自転車に居た。

「完成した新聞はすぐ自分の自転車に持って行くこと。
場所が狭いからね。」

自転車は新聞配達専用の作りになっていて
前カゴが大きくて四角形がちょうど新聞の
サイズになっている。

後ろには大きめの荷台があり
ゴムが付いていた。
新聞2つ分の大きな荷台だ。

「前と後ろのバランスを考えないと
どちらかが少ないと倒れやすくなるから。」

なるほど。
覚えることがいっぱいある。

細野先輩は仕上げた新聞を自転車に
綺麗に積んでいく。

後ろに積んだり前カゴに積んだりして
バランスを保ちながら
もういっぱいかと思いきや
前カゴに入れた新聞の間に
二つに折った新聞を左側にぶっ刺し、
次に右にぶっ刺しと順番に
積み上げていった。
綺麗に山が出来た!
素晴らしい!
前方が全く見えないくらいまで
山が完成している。

「これで半分。残り半分の新聞は中継に出す。」

中継とは「中継地点に置いておく新聞」の略で
あらかじめその中継地点に置く新聞を用意して
車に積む。
そうすれば「中継」担当の篠ピー先輩がみんなの分の
中継ポイントを車で先廻りして新聞を置いて行ってくれる。

そこでさっき結んで置いたPPバンドが必要になる。

新聞がバラバラでは、さすがの篠ピー先輩も
運べない。
チラシを入れて完成した新聞に
裏紙を挟んで自分の名前とか6区とか書いて
PPバンドでくくりつける。

「強めにくくらないとバラけるから。」

女の子達も同じことをしている。
新聞に自分の区域を書いた紙を上に乗せて
黄色いPPバンドで結んでいる。

それを真剣な表情で持ち上げて
外にある車の荷台に乗せに行く。

車の荷台には篠ピー先輩が居て
順番を考えながら積み直している。

私が中に戻ろうとしたら
篠ピー先輩も車から出てきて
中に入ってきた。

「おい、坂井。まだか?」

「あ、すいません。これです。」

「お、出来たか。これだけでいいのか?」

「は、はい。お願いします・・」

誰かタオルを投げてやってほしい気がした。
しかし私にはまだ助けてあげられる力が備わっていなかった。

篠ピー先輩は坂井くんの分を持って
すぐるさんに向かって言った。

「んじゃ、一回行ってくる。」

「おー、ちょっと待って。これも頼む。」

横綱と大関の会話だ。

篠ピー先輩は軽々と二つを持って
出発した。

細野先輩はさっきポケットに入れた
新聞の梱包の袋を取り出して
それを自転車に積んだ新聞に被せていた。

「袋破れてないかよく見て。破れてたらそこから雨が染み込んでくるから。破れてたらテープ貼って。」

「はい。」

私はさっそく見つけた破れ箇所にテープを貼って補修した。

前カゴの前方側には黒くて長いゴムが初めから
付いていた。

そこに先輩はビニールの片側をセットした。
前カゴの新聞に覆いかぶさるように
ビニールをゴムに付けて
手前側は洗濯バサミでブレーキのワイヤーに
止めた。

「これで雨に濡れないから。
あとポストが壊れてる家が5件あるから
新聞5部はこのビニール袋に入れる。」

〇〇新聞と書いた専用の厚めのビニール袋に
一部ずつ新聞を入れた。

「あとはアイツから細かいの取ってきて。」
先輩はそう言って遠くの優さんにアゴを向けた。

私は優さんの所に行き
「細かいのください。」と言った。
なんだ?細かいのって。

「はいよ!」

優さんがくれたのはスポーツ新聞だった。
他にも見たことない銘柄の地方紙とか経済系の専門紙。
「釣り新聞」とか「株式新聞」とか
マニアックな新聞もあった。
これは面白そうだ。

「先輩、細かいの、取ってきました。」

「OK!これでよし。じゃあ出発しようか。」

「あ、ちょっと待ってください。カッパ着ます。
あ、先輩は着ないんですか。」

「うん。俺は着ない。着ても濡れるから。」

なんと!
着ても濡れるのか。
かなり丈夫そうなカッパなのに。

私は新品のカッパを着て何も積んでない
自転車に乗って先輩の後について出発した。

新聞人生の出発である。


雨の中、
初日の新聞配達へと自転車で飛び出した。

先輩は体が細いのに仕事が早い。
ついていくのに必死な私。
右手と右足が同時に出る。

豪華な新品のレインコートを着ているから
余計である。

どしゃ降りの中、
細野先輩はレインコートを着ていない。
白いTシャツとジーンズだ。
爽やかすぎてまるで雨など降っていないかのようだ。

濡れた髪の奥から私に向かって言う。

「ここが1件目。
このスタート地点を覚えていれば後は何とかなる。」

重要なポイントだけを上手く話してくれる
クールな先輩が私に付いてくれた事に感謝した。

先輩は雨の中、素早く前カゴのビニール袋に覆われた新聞を
一部だけ抜くと、自分を傘がわりにして新聞を守りながら
1件目の家のポストに新聞を入れた。

「こんな感じ。次行こう。」

雨なのにまるで雨が降っていないかのように、
新聞を濡らす事なくサクサクとポストに入れていく先輩。

簡単そうな気がしてきた。

しかし暗い。
家は分かってもポストがどこにあるのか
先輩について行かないと分からない。

一人で配れる日が来るのだろうか?

そろそろ新聞が自転車から無くなりかけた時、
大きなマンションのエントランスに自転車ごと入っていった。

屋根があるので一安心。
おっと、新聞の固まりがマンションの集合ポストの下に
置いてある。

ここか。
ここに先回りして篠ピー先輩は
車で缶コーヒーでも飲みながら
お気に入りの歌でも歌いながら
やって来たに違いない。

ここで細野先輩は自転車を
サイドスタンドからセンタースタンドに立て変えて
自転車を地面と平行にしてから新たな新聞のおかわりを
積んだ。

見事だった。

本来捨てるはずの梱包のビニール袋や
PPバンドだけの利用だけで仕事を完結させてしまう。

骨までスープにしてしまうラーメン職人のようだ。
一切の無駄がない。

しかし私は今、自分がどこにいるのか
さっぱり分からないでいる。

もし今先輩と、はぐれたら
お店にも部屋にも大阪にも帰れない。

この星のどの部分に私は存在しているのか。
真夜中の暗闇での配達に
自分の輝きの足りなさを感じた。

マンションの配達は
いっとき雨を凌げる。

細野先輩と二人でエレベーターに乗った。
シーンとした狭い空間。
私は質問した。

「先輩は学校って行ってるんですか。」

「あー。俺はクラフトの学校。
楽器を製作する人になるための学校に行ってる。」

「なるほど。その手があったか。」

「ん?もともと家具屋で椅子とか作ってたんだけど、
つまんなくてね。ギター好きだったから・・・」

「へぇー!椅子作れるんですね!すごい!」

「いや、誰でも作れるよ。」

エレベーターが停止階に着いた。
手は止めない。
足もだ。

どれだけ早く帰るかが
今後の人生に掛かっている。

自由な時間の確保。
待っている食事。

そんな希望を胸に
いち早く配達を終わらせるのだ。

クラフトマンか。
色んな学校があるのだな。

女の子たちはどんな学校に行ってるのだろうか。
気になる。

そうだ。
私も学校の手続きをしなければ。
色んな事を考えられる仕事だな、
この新聞配達は。
頭の中は全く別の事を考えていられる。

先輩が何か思い付いた雰囲気を出した。

「そうだ。俺5階の配達行ってくるから
3階の306号室に新聞入れてきてくれる?」

先輩はそう言って新聞を1部、私に渡した。

東京で一発目の新聞配達を任命された。
なんとしてでもこの任務は完遂しなければならない。

私は少し興奮して新聞を勢いよく
先輩から奪ってしまった。

新聞を手に取った瞬間に
中に挟んであるチラシがばらけて
床に落ちてしまった。

「・・・。」

先輩は言葉を発する事なく
床に落ちたチラシをさっさと元に戻してくれた。
慣れた手つき。
床は濡れてなかったので助かった。

「新聞を持つ時は左端を持つといいよ。
チラシは左端でまとまってるから。」

「左はし・・・こうですか?」

「それ左上。新聞を読む人の見方だね。
配達する奴は新聞を縦に見てるから・・・
んーと、〇〇新聞って大きく書いてる所が
右下。新聞にチラシを入れる時に新聞を開くだろ?
その時に左の閉じてる側の下だよ。
そこを常に持つようにしないとバラけるよ。」

なるほど。
何気なく簡単そうに仕事しているようで
いろんな上手くいく要素があるんだな。

見て盗むのは至難の技だ。
先輩が新聞の左端を常に持っていたなんて
どうやって気付ける?

どっちから見て左端かも
説明が複雑だ。

ただただポストに新聞を入れていっているのではないのだ。

雨は小雨になっていた。
ほとんど降っていないと言っていい。

私はこの豪華な分厚いレインコートを
脱ぎたくて仕方なかった。

暑いのだ。

汗をかいてしまう。
雨に濡れたくらいの汗が出ている。

なるほど。
先輩が「どうせ濡れるからレインコートは着ない。」
と言っていた意味が分かった気がした。

雨に濡れずに汗だくになっている私に先輩は言った。

「そうだ。新聞を積んだらどれだけ自転車が重たいか
体験しといた方がいい。ちょっとこれに乗ってみ。」

「はい。」

半分くらいしかもう新聞を積んでない自転車に
跨がろうとしてハンドルを持った。

ふと中学生の時にした新聞配達を思い出した。
自転車が重すぎて停まっている車に思い切り倒れてしまったのだ。

車の黄色や赤色のプラスチックの部分が割れて
中の銀色の部分が見えてしまった。

自転車は倒れて新聞も散らばってしまった。

私は惨めな気持ちになり、
車の大切ななど全く分からなかったので、
自転車を元に戻して新聞を積みなおして
その場を去った。

自分が住んでいる団地の隣の棟の駐車場だった。

働くというのは惨めな気持ちになるんだなと思った。
でも学校でも惨めな気持ちにはなる。
同じ惨めならお金をもらえる方がいいのかもしれない。

ウインカーとテールランプを割られた車の持ち主の
気持ちなど一切考える事なくその時は過ぎ去った。

その時の感覚を思い出して
体が硬直した。

絶対に倒れてはいけない。
一気に汗が噴き出る。

膝も肘も真っ直ぐなまま
ガッチリ地面に両足を着いて踏ん張った。

「最初はあまり新聞積まなくていいよ。中継を増やせばいいだけだから。」

先輩!
ずっと私についていてくださいね!

「早く帰ろう。飯が待ってる。」

そうだ!そうだ!
優子さんが作ってくれた美味しいご飯が
待っているのだ!

そう思えば、やり過ごせた。

どれだけ重くても
どれだけ暗くても
どれだけシンドくても
帰ったら優子さんの
「おかえりー!」と
美味しい食事が待っているのだ!

このことがどれだけ
心の支えになったことか。

私の頭の中はもう
暖かい食堂の温かいご飯の風景しか
思い浮かばなかった。

(ごはん、ごはん、ごはん、ごはん、)

早く帰りたい自分に心の中で言い聞かせていた。

きっと先輩も心の中で唱えていたに違いない。
いや、お店の全員が唱えているに違いない。
「ごはんの呪文」を。


〜つづく〜


↓第3話

いただいたサポートで缶ビールを買って飲みます! そして! その缶ビールを飲んでいる私の写真をセルフで撮影し それを返礼品として贈呈致します。 先に言います!ありがとうございます! 美味しかったです!ゲップ!