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「THE・新聞配達員」第6話

朝刊が来るのを待っている。

午前2時。
そろそろ朝刊がやってくる。

新聞が60部で一つの袋に入った梱包を
たくさん積んだトラックがやって来るのを
待っている。

トラックからお店の中までその新聞の塊を運ばないといけない。
誰かが運ぶのではなくみんな全員で運ぶのだ。
だからみんなは新聞が来る少し前にお店に来て
新聞が来るのを待っている。
毎朝毎朝待っている。

そのトラックは
少し早く来る時もあれば
遅くなる時もある。
選挙の時や大きなニュースがあった日は
遅い。

そんな愛しい新聞を待っている間、
仲の良い者たちは
おしゃべりをする。

朝っぱらから盛り上がる。
いやまだ深夜かもしれない朝の少し手前の時間。

ひとりで作業台の上に座り
静かに待っていた新人の時代は終わった。

昼間ちゃんと活動している者は
寝起きなのでぼーっとしていて
話はしていない。

でもほとんどの奴らが
夜の続きである。
夜の続きでここに居る。

夜ずっと起きておいて
ここに来て
朝刊を配り終えて
食事をしてから
睡眠をとるのだ。

夜の延長。
夜が少し延長しただけだ。
そう思えば辛くもなくなる。
なんせ朝早いわけではないからだ。

しかも仲間がこんなにもいる。
みんな若い者ばかりだ。

私は新聞を待っている間の
おしゃべりの相手を変えた。

チョッパー大野から逃げ出したのだ。
もう飲みにも行ってない。
嫌われ者にはなりたくない。

今は松本先輩とほぼ毎朝
昨日見たテレビの話や
好きな漫画の話をしている。

なぜかこの人となら朝から盛り上がれる。
時間が早朝なだけで、
気持ちは夜の続きである。

漫画と漫画の時間の間に
配達をしに来たのである。
いや、
美味しい優子さんのご飯を食べるその前に
そのためにひとっ走りしにいくのである。

しかしお店の中に全員は入れない。
入れたとしても、ぎゅうぎゅうなので
私たちはいつもお店の外の
自転車の横に座って話す。

「いやいや昨日のごっつええ感じ見た?」

挨拶などいらない。
いきなり本題である。

「テレレ、テレレ、テレレレレレレ♪」

「板尾係長やろ!ブクブクブクって水から顔出してきて、
ひと言言うやつ!
オモロイなぁーあれ。なんとも言えんなー。」

松本先輩は一個下の19歳。
広島出身だから関西よりだ。方言の壁が薄い。

「真田くんもやってみたらええやん、銭湯で!」

「いやいや、番頭の閻魔大王のおっさんにやってもらいたいわ。」

「ギャハハハ!それ最高!」

「ブクブクブク〜、『女湯しか見てまへん』」

暗い自転車置き場の奥で盛り上がっていたら
チョッパー大野の声がした。

「うっす」

「あ、おはようございます」

「・・・・・」

私は一応挨拶したが、松本先輩は無視。

私と松本先輩の間には入れない感じの
チョッパー大野。
本当は私と話したいのに、
横目でチラリと松本先輩を見るだけ見てから
お店の外に面した道路に出て、
トラックが来る方向に首を曲げて
腰に手を当ててから
遠くの方を睨みつけていた。

キマっていた。

そんなのは一切気にせずに盛り上がっている松本先輩。

「キャハハ!先輩それウケる!」

あららら?
お店の中から由紀ちゃんの笑い声が聞こえてくる。

私たちに負けじと盛り上がりを見せている。

由紀ちゃんも最近は
同期の二人(の女の子)とではなく
先輩と喋っている。

志賀先輩さんと。

同期の女の子の3人のうち
由紀ちゃんだけは二人から離れて
女子先輩と話している。
盛り上がっている。
なんか私と似ているな。

気になるな。あっちに入りたいな。

こんな学校のような模様をしたお店の中の時計が
2時20分を指していた。

「来たぞー!」

篠ピーこと篠原先輩の声が道路から聞こえてきた。

みんな立ち上がって外に行く。

トラックの後ろに並ぶ。
女子は一個。男は二個。新聞の梱包を運ぶ。
一回では終わらないので新聞を作業台に置いたら
またトラックに並ぶ。

私の手前で終わってしまった。
北海道出身の大学生だ。最後に一個を持っている。
彼が二個持っているなら一個手伝うのに、
彼は一個しか持っていない。

それを私が奪えば彼は手ぶらになってしまう。
でも今私は手ぶらだ。

手ぶらでお店の中に戻るのか?
なんかゴミでも拾おうか?
そんなちっぽけな悩みを拾っているうちに
みんなお店の中に入ってしまっていて
私だけまだ外にいた。
いつものことだった。

自分の区域の作業台に戻って
まず新聞のPPバンドを切る。
その切ったPPバンドの2本を
両端で結んで長い1本にした。
それを二つ用意する。

とても大切なものであるが、一旦邪魔なので
そこらへんに置いておく。

ただみんなも同じことをしているので
どれが誰のPPバンドか分からなくなったり
人のを使ってしまったり
自分のが一本無くなってたりして
特にチョッパー大野の声が大きくなる。
「おい!俺のヒモだぞ!」

さて、
裸になった新聞の谷間にチラシを挿入していく。
もちろん、その前に必ず指サックを装着する。
右手の親指と人差し指に装着完了である。

親指で新聞を開け、
その瞬間には人差し指でチラシをズラして
掴み、新聞に挟み込む。

15部くらい入れたら一旦その新聞を
縦から横から叩いて整える。
それの繰り返し。

ここからがさっきのヒモの出番だ。
完成した新聞を全ては自転車に積めないので、
積めない分は車で運んでおいてもらう。

ちょうど自転車に積んだ新聞がなくなる頃に
配達するマンションの入り口付近にポツンと
置いてある。
もちろん屋根がある所でないと雨の日に困る。
その場所を中継場所と呼んでいる。

中継場所で新聞をまた自転車に積んで再出発する。

その中継場所に車で先回りして、
この新聞を置いていってくれるのが
細野先輩の仕事だ。

細野先輩が軽のバンのドアを3枚とも開けて
外で待っている。
全員の分を先回りしないといけないので急いでいる。

自転車に積むより先に細野先輩に中継場所に置く新聞を
完成させて渡さなければならない。

私の場合は60部を2個。
中継場所も2箇所だ。

60部チラシを入れたところで床に散らばっている紙を
新聞の上に乗せてマジックで【6区真田】と書く。

そしてヒモだ!
足元に置いておいたヒモが・・・

ない!

すぐ後ろで作業している竹内を見た。

「おい竹内、それ俺のヒモちゃうか?」

「え?いや俺んだよこれ」

どれどれ。

「おい、この結び目は俺のや。」

「あ!そうだ!なくならないように洗濯機の横に挟んでたんだった!」

私たちのすぐ横に居る洗濯機から黄色いヒゲが生えている。
何か面白いものに喩えている暇は無い。

「俺のドラミちゃんを早く返せ。」

「ドラミちゃん??」

PPバンドで作ったヒモで出来上がった新聞を縛る。
PPバンドは硬いので手を切らないように注意が必要だ。
でもキツく縛らないと新聞がばらけてしまう。

完成したらすぐ外に持って行って細野号に乗せる。
車の中で細野先輩が降ろしていく順番に新聞を
積み替えている。

それを後もう一個だ。

もちろん、みんなも同じことをしている。
とにかく早く出発しなければならないのが
このお店のルールだ。

みんな真剣だ。
スピーディーだ。
一言も話しなどしない。

片付けもしない。
梱包のビニールやら当て紙やらがもう床のそこら中に
散らばっていて足を滑らせてしまいそうだ。

私は最初、これを片付けようとした。

そしたら優子さんが言った。
「散らかしてていいの。それより早く出発して!
片付けは後で私がやっとくから!」

誰一人片付けない。
捨てるためのゴミ袋もない。
足元に要らないゴミが秋の落ち葉の様に
積もっていく。

とにかく早く出発することだけを考える。
そして早く出発する。

早く出発さえしてしまえば
あとはなんとかなるものだ。

早い者で10分。
遅い者でも20分で準備を終わらせて出発する。

細野先輩に2個、中継分の新聞を出して
自分の自転車にも積んだ。
最後に優(すぐる)さんの所に行く。

優さんは【紙分け】といって
メインの新聞以外の特別な新聞たちを
各区域ごとに数を数えて用意してくれる。

いろんな新聞がある。
スポーツ新聞に地方の日日新聞。
それと数々の専門紙。
株式新聞とか農業新聞。
工業新聞、産業新聞、小学生新聞に中学生新聞。
英字新聞に化学工業新聞に釣り新聞なんかもある。

「はい!6区!」

そう言って優さんは
私に諸紙(しょし)と呼んでいる新聞たちをくれる。

その諸紙たちを私は配る順番に並び替える。

「スポ・スポ・農業・スポ・産業・産業・株・スポ」

声に出しながら順番に並び替えて自転車に積んだ!
出発だ!

「いってきます!」

「いってらっしゃい!」

自転車を漕ぐ。
一軒目に着いた。

さてさて、
あとは体が勝手に配ってくれる。
頭の中は妄想を始めるとするか。

私はポケットの中に
いつも忍ばせているメモ帳があるのを
そっと確認した。

ズボンのポッケの膨らみを。

いっぱい膨らめ!


〜〜〜〜〜


夕刊を終えて夜ご飯を食べていた。
豚の生姜焼きだ。ご飯が進む🍚。
ススム君と呼ばれても構わない。

そんな能天気な幸せモードで飯を食らっていたら、
食堂の外から女の子たちの笑い声が聞こえてくる。

「キャハハ!本当だ!真剣だ!」

「しんけんくんだ!ハハハ」

一体何に盛り上がっているんだろう?
気になるが、ご飯は今食べ始めたばかりだ。
途中で席を立って「どうしたの?」とは
聞きに行けない。

でも食べ終わる頃にはもう居ないんだろうな。

あら?
由紀ちゃんが食堂に顔だけ入れてきた。

「ねえねえ真田くん!ちょっと。」

そう言って手をクイクイとしている。

「えっ?なになに?」

私は色んな物でいっぱい詰まった口でたぶんそう言いながら
急いで箸を持ったままスリッパを脱いで
食堂から出た。

麻里ちゃんも千尋ちゃんもいた。

掲示板を指差して笑っている。

「これ!見て!真剣君だって!」

その紙には拡張デー(新人)という題名が付いていた。
今度の土曜日だ。
各人がペアになって記されている。
1区7区 麻里ちゃんと千尋ちゃん
5区8区 坂井と竹内
4区6区 由紀ちゃんと真剣
いやいやいや。

真田が『真剣』になってしまっている。
真田が真剣になるべきなのか?
それとも
もっと、真剣に生きろというメッセージなのか?

そう思っていたら
ちょうど優子さんが食堂から出てきた。
聞いてみよう。
きっとこの字は優子さんの字だからだ。

「あっ、優子さん!
僕の名前、間違ってますけど、、これ僕ですよね?」

女の子達がさらに笑う。

優子さんが言った。
「あ!ホントだ!しんけんくんになってるね!ハハハ!」

「ハハハ」
「ハハハ」
「ハハハ」

あれれ?
優子さんは掲示板を見るだけ見て少し笑って
また食堂の中に戻ろうとしている。
つまり修正する気なし!

ははーん。わざとだな、これは。
さっきのリアクションからして
わざとではないにしても
『もっと真剣に生きたら?』という意味が
ちょうど都合良くこの間違いに込められているから
瞬時に修正するのをやめたのか?

少しでもそんな気持ちが伝わればいいと思って
「真剣」を残して去っていったと。
つまりはそういうことだ。
私は勝手にそう思うことにした。

私はもっと真剣に生きるべきなのだ!

音楽だ!

この前いつギターを弾いた?
それだけでは不十分すぎる。
人前で歌うのはいつだ?
いったいいつだ!
いつになるんだ!

自作曲はいつになったら出来るんだ!
片っ端からオーディションを受けるのはいつだ!
路上で冷たいコンクリートに座って
缶詰の缶を見つめながら歌うのはいつだ?

いったい、いつ始めるんだ?

ていうか、
このお店の誰一人として始めてないじゃないか?
それを!
ロックを!

そんな背中をこちらに向けて優子さんは
食堂に消えていった。

私は真剣くんのままの紙を
お箸を持ったまま眺めていた。

恥ずかしくなってきたので
部屋に帰りたかったが、
お箸を持ったままだった。
食事も途中だ。

しかもタイトルが『拡張デー』だ。
一体何をするんだろう?

自己拡張か?
耳たぶに穴でも開けるのか?
まさかな。

区域が書いてあったから
きっと新聞の勧誘でもしに行くんだろう。

勧誘だと聞こえが悪い。
拡張だと世界が広がるイメージだ。

このお店のエリアは決まっているが、
新聞を読んでくれるお客さんが増えて
広がっていくんだ。

そうか!

私自身もそうすべきなんだ!
自分の歌を作ってギターを抱えて
一軒一軒の家を回って
「すいませ〜ん。ちょっと自作曲があるので
聞いてもらえませんか?お時間1、2分で結構ですので・・・」

やはり自己拡張ではないか!

そんな優子さんの
隠れたようで隠れていないメッセージを
ガッチリ掴んだ私は
ガッツリお箸を掴み直して
食堂に戻って残りを食べ尽くした。

もうすっかり誰も居ない食堂で一人。


〜〜〜〜〜


土曜日になった。
拡張デーである。

今年の新人のみが集まった。
みんな初めてである。

私ははっきりと言った。

「要するに新聞の勧誘に行くということですね。」

優子さんが説明してくれた。

「それは難しいから、今回は少し違うの。
みんな拡張は初めてだから、新しく新聞を取ってもらいに行くんじゃなくて、もうすでに今配達している家に行くの。」

「ほう。」

「それで、そこに行って『〇〇さんもうすぐ契約が切れるので引き続き継続お願いします!ってお願いしに行くのが今日の拡張デー。」

「なるほど。それなら簡単ですかね?」

隣に居る由紀ちゃんに聞く形で言った。

「私この前暇だったから先輩について行ったの。
ごめんね、初めてじゃなくて。」

「なに〜!経験済かいな!」

「うん。いつも集金に行ってる所だから誰が出てくるか
顔まではっきりと出てくるしさ。それで
その人に『今度の7月で新聞の契約が終わるからまた引き続き契約してください』って言うの。簡単でしょ?」

「そうですねぇ。」

優子さんの笑顔が満天だ。
「だいたいの人は1年契約してくれるからね!」

やっと優さんの出番が来た。
「10年でもいいぞ。」

それを聞いて由紀ちゃんが言った。
「私が後ろから付いていったら2年くらいになるかも。」

2年か。
その責任は取れないな。
私は2年後ここに居ないだろう自分の後に
拡張デーに参加する後輩に会釈した。

「さて、1時間だけだぞ。14時までには戻って来いよ。
夕刊だからな。」

「はーい。」

坂井と竹内は返事せずに出て行った。

「あー!ちょっと待って!
粗品のタオルと洗剤が物置にあるから
持って行って。契約もらったら1個ずつあげていいから。」

「はーい。」

我々のチームも自転車に乗った。
私の自転車のカゴにタオルと洗剤を入れた。
私の区域に行く事にした。

由紀ちゃんが後ろから付いて来てると思ったら
自転車を漕ぐ足が、ぎこちなくなる。

信号待ちで近々契約が終わる人のリストを見た。
優しそうな人ばかりではないか。
佐久間さんが載ってないのでホッとした。

一軒目に着いた。
自転車を停めて早速インターホンを押した。

出てこない。

留守のようだ。

二軒目。
ここも留守だ。

持ち時間は1時間しかない。
しかしお昼なのに、みんなどこに行ってるんだ。

三軒目。
「はーい。」
出た!いつもの女の人だ。

「あら?どうしたの?集金じゃないよね?」

「こんにちは!」
由紀ちゃんが後ろで言った。

「あら?可愛い子ね。彼女を紹介しに来たの?」

「いや、彼女とかじゃないです!」

私はまだ一言も話してない。

「妹さん?」

「兄妹でもないです。仕事の仲間です。ほらっ、真田くん?」

おしっ!出番だ!
「今日は新聞の契約がもうすぐ終わるから引き続き継続してもらえないかなーと思いまして・・・えー・・・ふたりで・・」

「あー、はいはい。もうそんな時期なのね。いいわよ!
もう1年更新でいいわよ。」

やったー!
あっさり決まった!

喜んでいる場合ではない。
カードと呼ばれる新聞契約書に印鑑を押してもらわないといけない。
名前と住所も書いてもらう必要がある。

私は集金用のカバンから、その契約カードとボールペンを
取り出そうとしていたら由紀ちゃんが言った。

「あのー、すいません。
今日はふたりで来たので二人分って事でもう1年って
契約お願い出来ませんか?」

「えーと、2年ってことね。んー。
いいわよ!いつも頑張ってるからね。あなたも新聞配達してるの?」

「はい!別の所ですけど。」

「大変ねぇ。しっかり者の彼女さんが居て良かったわね、あなた。」

私と目が合った。
彼女という事にしたら倍になるのか。しめしめ。

「彼女ではないんです。」

やはりそこは否定する由紀ちゃん。

「でもあなたあれでしょ?ブツブツ・・・」

なんか急に声が小さくなったので聞こえなくなった。
由紀ちゃんと何を話しているのか分からない。

私は粗品のタオルと洗剤を自転車に取りに行かないといけない。

「すいません。ちょっと自転車から粗品を取ってきます。」

「あー!ありがとう!助かるわ!」

由紀ちゃんは完全に女の人側に立って、
こちらを見ている。

女同士で息が合ったのだろうか。
分からない。

私は玄関のドアを開けて外に出た。
空気が美味い。
深呼吸しながら歩いて
自転車の前カゴを見た。

みんな良い人達なのに
一人になるとなぜかホッとする。
気持ち良い風に吹かれて
そんな気持ちになった。
私は急に周りの風景を見たくなった。

周りを見渡してみた。

登り坂の途中にあるこの家。
同じような家が立ち並ぶ住宅街。
同じようで違う街並み。

なぜこの人達は、
この土地に住むようになったのだろうか。
知らない。

毎日2回来る家。
また後で夕刊の配達に来る家。
そして
私も由紀ちゃんも偶然同じ年度に同じ店に来た者同士。
そんな奇跡の一つ一つが重なり合った形の新聞の契約更新。

偶然が偶然を呼んで重なってこうして今ここにいる。
タオルも洗剤もどこかで作られたものが偶然
ここに居る。
決して粗末な物ではない。

なんか神妙になる。
自転車のカゴの中のタオルを手に取った。
粗品と書いた袋の中で眠っている。
タオルも洗剤も粗末な物ではない。
奇跡たちが重なった奇跡の塊である。

そんなことを考えながら
ふぅーと深呼吸してから
タオルと洗剤を持ち直して
家のドアを開けた。

楽しそうに話をしている二人がこちらを向いた。

「ありがとう。2個もくれるの?」

「はい。2年も契約してくれたんで。」

「また契約するから、また2年したら二人でおいでね。」

素敵な笑顔で言ってくれた。

嬉しそうな由紀ちゃんが
「はい!また来ます!」と言った。

私はなぜか泣きそうな顔を見せないように
もうドアの方を向いた。

変な風に吹かれて
心がおセンチになってしまっていた。

2年か。
2年後にはもうこの街にはいないだろう私。

2年も契約した由紀ちゃんが悪いわけではない。
むしろ素晴らしい楽しさをくれた。
しっかり者だな。
いつも私はそんなしっかり者の女の子に引っ張られ
守られる弱虫。

「ありがとうございました!」

「気を付けてね!」

「はい!この人はまた後ですぐ来ますから!」

そういって由紀ちゃんは私を指差した。

「あー。夕刊ね!もうそんな時間なのね!買い物に行かなくちゃ・・・
それじゃあね!」

忙しそうな人だ。
活動的だ。快活で元気な人だ。
真っ直ぐな人。

「どうしたの?大丈夫?」

顔を隠すようにして動いている私の後ろから
由紀ちゃんが心配してくれた。

「あ、うん。なんでもな・・・いこと無い!すごいね!
本当に2年になったね契約!お見事です!」

「イエーイ!」

由紀ちゃんがそう言って右手でピースした。
たぶんピースサインだ。
2年契約できたから「2」としているわけでは
ないだろう。

私も右手を上げて手のひらを広げて
勢いよく振りかぶった。

由紀ちゃんはすぐに気が付いて
私達はハイタッチした。

パチンッと良い音がした。
初めてのハイタッチ。

「いやー、由紀ちゃん。ナイス!堂々としてましたね!」

「うん。なんか真田くんが居たら安心できるし。」

「安心?」

「うん。なんか真田くんが居たら和むというか安心というか
何だろう。癒し系?ホッとするというか。」

「そんなぁ。ただぼーっとしてるだけやで俺。」

「それがいいのかもね。そんなこと話してたんだ。さっきの人と。」

「そうかー。急に仲良く話し出したから女の人にしか分からない話でも始めたのかと思った。」

「んー、そうだね。女の人にしか分からないのかもね。」

「ん?何が?」

「いや、なんでもない!早く帰ろう!もう2時になるよ!」

「うわ、ホンマや!優が痩せてしまう!」

「ははは!痩せるんだったら遅刻しようよ!優子さん喜ぶよ!」

「いや腹空かしすぎた反動で、めっちゃ食うから
俺たちの分の飯無くなるで。急げー!」

「キャハハ!もしご飯なかったら私が作ってあげるよ。」

「マジで」?やったー!」

坂道なので自転車を押しながら歩く私たち。
話しながらなので息が荒くなっていく。

「真田くん!青だよ青!早く渡ろうよ。」

「えっ?うん。おわっ!」

少し自転車がよろけた。
前カゴから袋に入ったタオルが地面に落ちた。
自転車のハンドルを持ったまま片手で拾った。
「粗品」と書いてある。

さっきまで悲しげだった粗品の文字が
今は楽しそうにしている。

良かったんだ、これで。
正直に2年後の事を思って泣いていたなんて
言わなくて良かった。

先を思っても仕方ない。
昔を懐かしんでも仕方ない。
今を楽しもう。

新聞は毎日配られ続けるのだ。
私は毎日生きるのだ。


〜〜〜〜〜


「おかえりー!」

優子さんの笑顔がまぶしい。

「ただいまー!」

由紀ちゃんの元気がこぼれる。

「どうだった?契約してもらえた?」

由紀ちゃんがとびきりの笑顔で
優子さんに向かってピースした。

私は急いで集金カバンからその契約書を取り出した。

「ほらっ!見て!2年も契約してもらえたんです!くぅ!」

「うわ、ほんとだ!すごいね!」

麻里ちゃんと千尋ちゃんも帰って来た。

「ただいまー!」

「おかえりー!どうだった?」

「一軒だけ契約してくれたー。」

「おかえりー。良かったね。私達も一軒だけ取れたー。」

私は女子の盛り上がりにも混ざることが出来る生き物なので
「わーい」とか「イエーイ」とか「すごーい」とか言って
その輪の中に居た。

その時、
坂井が戻って来た。
一人だった。

お店の中を見て坂井が私に言った。

「あれ?竹内はまだ帰ってないの?」

「竹内?っていうかなんで一人なん?」

「いや、どこも留守でこのままだと契約取れないだろうからってアイツが
自分の区域に行ってくるってお互い自分の区域を回ることになって。」

「ほうほう、二手に分かれる作戦に出たんやな。仲悪いしな。」

「いや、悪くない。でも留守ばっかで取れんかった!」

その時勢いよく自転車が入ってくる音がした。
竹内だ。
ハーハー言いながらお店に入って来た。

「ハーハー。あー、なんとか一件契約取れたよ。6ヶ月だけだけど。
なんか留守ばっかじゃん。坂井は取れたの?」

「んや、取れんかった。っていうか顔も見れんかった。」

「なんだよ。二人で一枚かよ。ハーハー。」

なんとか滑り込みで契約して来た竹内。
アイツはサラリーマンになっても生き延びていけるだろう。

「みんなチームで1枚やで。良かったな!ゼロ内。」

「ゼロじゃないって。1枚取ったじゃん。6ヶ月だけど。」

「6ヶ月ということは0.5やからゼロと一緒や。」

「なんでよ?真田くんは取れたの?契約?」

「おー、もちろん。しかも2年契約を結んできた。24ヶ月やからゼロ内くんの4倍やね!」

「すごいじゃん。さすが真剣くん。真剣になったらすごいんだね。」

「うぬっ」

お互いの名前で傷つけ合っていたら優さんが現れた。

「全員契約取れたんだな。なかなか優秀だな。
よしっ!これは、そうだな。ご褒美に飯でも行くか?」

「マジっすか!やったー!」

私が横で素直に喜んだので
話は前に進んだ。

「マジだぞ。さっそく明日の晩にしよう。
何が食べたい?」

そうか。
明日は日曜日だから
夕刊がないからお店の夕食も無い。
だから食事に連れて行ってもらえる絶好のチャンスだ。

「配達の道中に気になる店が何個かあります!」

私がそう言うと、みんなも言った。

「そうそう!あるある!行ってみたいお店あるよね?」

「あるー。」

「5区にアメリカンなステーキ屋さんない?」

私はなぜか坂井の区域である5区にある
気になるステーキ屋さんの話を持ち出した。

私は6区だけど5区は隣。
配達はしないけど通る道がある。

「あー!あるある!スッゲーデカい肉が出るらしいよ。」
竹内が言った。

「食ったんか?」

「いや、食べてない。」

優さんが食いついた。

「そこはTボーンステーキが美味いんだ。しかもボリュームが凄い。
確かこれくらい・・・」

そう言って手でステーキの大きさを
ラグビー選手のように表現してくれた。

「それデカイですね。食べてみたい・・・」

「よしっ!そこにするか?女子は?そこでいいのか?」

私はサッと首を左に向けて
女子全員の目をまばたきせずに直視した。

「んー、いいですよー」

代表して由紀ちゃんが言ってくれた。

よしっ、決まりだ。

そして次の日の夜。

赤や青のネオンチューブが看板になっている
派手なレストランの前に8人は居た。

アメリカン・ステーキハウスだ!
海外に憧れていて洋楽ばかり聴いていて
変わった事にしか興味がない童貞野郎憧れのレストランだ!

お店の作りはイカダ。
丸太小屋だ。
ログハウスと言うのだろう。
カントリー風を全面に出したお店だ。
アメリカの田舎には、こんな店がゴロゴロあるのだろう。

店内に入った瞬間、
お腹が鳴り響いた。良い匂いがする。
匂いだけで白飯を1杯は食べられる。

案内されて席に座りメニューを見た。
ベタついたメニューが更なる食欲をそそった。

高い!どれも高い!そしてデカい!
フォルクスの倍の値段が付いている。
どれもデカくて鉄板から肉が
はみ出しているのが周りのテーブルからも見えた。

メニューの右上に輝く主役が載っていた。
これが名物のTボーンステーキか。
600gと書いてある。
全部食べきれる自信はある。
でも何か足りない。

「先生、僕ビールを飲んでみたいんですけど。
ステーキに合うビールなんてこの世にあるんでしょうか?」

「なんだ!毎日飲んでるんじゃないのか?んー、いいぞ。
真田はハタチだからな。1杯だけだぞ。」

「あ、私もビール飲もう。」

優子さんがそう言って、
私だけが目立たないように付き合ってくれたようだ。
でも、ビールが飲めるという羨ましさを感じている者は
一人も居なかった。

みんなはあまり来たことのない場に
大人しく、会話が無かった。

注文を終えてオシボリで手を拭きながら
優さんが言った。

「ここの店って新聞配ってたっけ?」

「いや、配ってません。」
坂井が答えた。

「そうか。これだけ食べるんだから新聞取って下さいって
言って契約もらって来いよ坂井。」

「えー?」

「10年契約でいいぞ。」
私は優さんの真似をして口を挟んだ。

「毎週食べに来ます!って言っとけば?」
竹内も言った。

「ホンマや。【毎週日曜日はステーキの日】とかいいな!
でもさ、新聞の契約取れたらご飯に連れて行ってもらえるんなら、
毎週やってもいいけどな、拡張デー。」

「ん?なんだって?」

優さんが私に聞き返してきた。

「いやー、先生!メシ連れて行ってもらえるんなら
毎週でも行きます拡張デー。」

「いつからお前の先生になったんだ俺は。
ん?待てよ?」

何か思い付いたらしくて
考え事を始めた優さん。

しばらくテーブルは沈黙が続いた。
店内に流れるアメリカのカントリーミュージック。
周りの人達の会話。
ただようステーキの素敵な香り。
非日常がまるで映画の中に居るように周りに流れていた。
今日はみんなが主役だ。

「俺たちのチームは2年契約取ったからステーキ2枚食べられるから
一人1枚ずつ食べられるけど、麻里ちゃんと千尋ちゃんのチームは1枚を
半分ずつやで。竹内と坂井に至っては半分のサイズを半分ずつや。」

私はビールで調子づいてきた。

みんなあまり私の話など聞いていなかった。

ビールを1杯だけに留めて食事を終えた。
ステーキは平らげた。
脂ギッシュな体で部屋に戻った。
速攻で銭湯に行った。
みんなも同じ考えだったらしく
銭湯で会った。

私は飲み足りない分のビールを
コンビニで買って帰って
部屋で飲んだ。

楽しい日曜日だった。

そして次の日の夕方。
夕刊を配り終えてお店に戻った。

掲示板の前で何人かが青い色の紙が貼ってあるのを
見ながら盛り上がっていた。

「ただいまー。何それ?」

私は誰に言うでもなく、そう言ってから
掲示板に貼ってある青い紙に
書いてある文字を読んだ。

【拡張コンクール開催!】

契約カード1枚につき1ポイントとして
ポイントに応じて景品が出ます!
さあ、みんなで拡張だ!

5ポイント           食事会
100ポイント     ディズニーランド
300ポイント          テレビ
500ポイント          自転車
700ポイント         温泉旅行
1000ポイント        ハワイ旅行
(ポイントは累計で使ったら無くなることとする)

みんながんばれ!!

近藤

考えたな。先生。

よく見たら青い紙ではなく
色鉛筆で青く文字の周りを塗っている。
そして空いた所々にビールの絵やらハワイを思わせる
南の島にビーチパラソルが突き刺さった絵やらが🏖
書いてあった。

優子さんが書いたのだろう。
楽しそうな絵だ。
上の方には🌈虹が描かれている。
優子さんの楽しい心がそのままに映し出されていた。
この一枚で、お店が明るくなった。

いつの日かみんなでハワイに行く日が来る事を
想像してみた。

楽しいんだろうな。きっと。
このメンバーとこのお店がまるごとハワイに
瞬間移動したらいいのにな。
先のことなんかもう考えたくなくなっていく。

「みんなでハワイで新聞配ろうぜ!」
思わず私はガッツポーズで言ってみた。

「えー!嫌だ!なんでハワイにまで行って新聞配るんだよ!」

その場に居た全員に反対された。

そうか!
みんなはハワイに行くことを想像していて、
私はハワイの方がこっちに来ることを想像していた。

みんなは旅行で行くのだな。
私はすぐに住みたくなる。

悪い癖だ。
でもじっとしていたらお尻が痛くなる。
そんなお尻のせいにして。


〜〜〜〜〜


休日のある日。
早めの銭湯。

べたついた体を早くサッパリさせたかったのだ。
寝汗と自慰行為によるベタついた体をリセットだ。

それに早くビールが飲みたかった。

銭湯から出て足早にコンビニに向かおうとしたら
向こうから歩いてくる二人組に声を掛けられた。

「真田くんじゃん!もうお風呂?」

目が悪い私。
よく見たら志賀先輩とキャップを深く被って
下を向いている優子さんではないか。

「ホントだ。真田くんだ。サッパリしてるじゃん!」

「真田くんサッパリしてるじゃん!」ではなくて
「真田くんサッパリじゃん!」に頭の中で変えてみた。

私の全てがサッパリなような気がしてきた。
今からコンビニで大量にビールを買うのを見られたくない。

「もう何時だと思ってるんですか?良い子は寝る時間です!」

「ははは!真田くんって面白いね。ねえ、そこにお好み焼き屋さんあるの知ってる?」

以前チョッパー大野と来たことがある白ご飯と味噌汁が無いお店だ。

「一回食べにきましたよ。大野と。」

本人が居ないから呼び捨てにした。

「やっぱ大阪の人はお好み焼きには敏感なんだね。」

志賀先輩が言った。

「今から二人で行くんだけど、一緒にどう?」

優子さんが下を向いたまま低い声で言った。

「行きます!」

即答した。
缶ビールから生ビールに変更だ。
こんなに近い距離でビールが美味しく変更できる事に気が付いた。
いかに自分の視野が狭いかを思い知らされる。

「いらっしゃいませ」

なぜか私が先頭で暖簾をくぐった。

「3人です。」

「こちらへどうぞ!」

席についてようやく優子さんがキャップを脱いで
明るい顔を見せてくれた。
まるで海の底から浮かび上がってきたかのようだ。

「はー!よしっ!飲むぞ!あのくそ優!」

声がいつも通りの大きい声になった。
そして珍しく人の悪口を言っている。

まあ夫婦なら喧嘩もするものなのだな。
私の両親も仲が悪い。
いつでもポジティバーの優子さんでも
さすがに夫への不満はあるようだ。

「優さんと喧嘩でもしたんですか?」

「うん!飯まだか?飯まだか?ってうるさいんだよねー!
一食くらい食べなくたって死なないっつーの!」

「それで黙って家から抜け出して来たんだよねー!」

志賀先輩が説明してくれた。

「ゲッソリ痩せやがれ!なんてね!」

「一日で痩せないよ!あのデカさ!」

なるほど。
それで見つからないように
キャップを深く被って下を向いていたのか。
これはビールが進みそうだ。

「たまには息抜かないとね!すいませーん!
ミックス焼きがえーと3つでいい?あと生ビールが2つと烏龍茶1つと、
ジャガバタとシシトウとホタテとゲソと・・あと何食べる?
じゃんじゃん頼んでいいよ!」

大丈夫かな優子さん?

「志賀さんは飲まないんですか?」

「私、お酒飲めないんだよねー。」

「ははは!ホント飲めないんだよ、この子!
真田くん聞いて!この前ね・・・」

まだ飲んで無いのに盛り上がる我々。

「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」

私はつい反応して言ってしまった。

「あと、白いご飯と味噌汁ってありますか?」

意地悪な私が出た。いや、一応聞いて見たのだ。
もしかしたら新メニューで登場してるかも知れないから。

「は、えーと、少々お待ちください。」

店員さんは私の顔を見て思い出したようだ。
私はすぐ取り消した。

「あ、いや、やっぱりいいです。無くて大丈夫です。」

優子さんが言った。

「やっぱ大阪の人ってお好み焼きにご飯と味噌汁食べるんだね。
テレビでやってたよ。お好み焼きがご飯のおかずになるの?」

「完全におかずにしか見えませんけど。」

「なんでー?お酒のつまみでしょ?
イカ焼きとかたこ焼きとか焼鳥みたいに。」

「たこ焼きもおかずです。『おかん!ご飯は?』って家なら言いますね。」

「ハハハ!」

このテーブルだけ盛り上がっている。
我々のテーブルと椅子だけ昇降機能が付いているかのよう。
盛り上がればどんどん上に上がっていく気分。

店員さんが遥か足元から上を見上げて
ビールを渡してくれた。

「ねえねえ聞いて!この前ね、
しーちゃん(志賀先輩)がお酒を飲もうとして口だけ
近ずけて飲むのはやめたの。
でも匂いを思いっきり嗅いだじゃん?しーちゃんたら、
その後、酔っ払いみたいになってんの!匂いで酔ったんだよ!ハハハ!」

「いやぁ、ホンマやでぇ。」

志賀さんがイントネーションが滅茶苦茶な大阪弁風で答えた。

「またそれがコーク・ハイって言うやつ?もう見た目コーラじゃん!飲めるかなって思ったんだよねー。匂いでダメだった。ホントに頭痛くなったんだ。」

「へぇー。匂いだけで頭まで痛くなるなんてよっぽどですね!で、酔ったらどうなるんですか?先輩は。」

「ははは!ずっと笑ってんの!ずっとだよ!全然誰も話してないのにずっと笑ってんの!おもしろかった!」

「ハハハハハハ!あーまた笑いが止まんない!ハハハ!」

大きな瞳を片方だけ閉じて苦しそうに、でも楽しそうに笑っている。
見ているだけでこっちも笑ってしまう。

「何が面白いの?ハハハ!」

優子さんもつられて笑っている。

志賀さんってこんな人なのか。
もっと真面目な人かと思っていた。
明るくて楽しくて可愛らしい。
可愛らしい?
いかんいかん。彼氏がいるじゃないか。

「お待たせしましたー!」

「お、来ましたよ。ミックス焼き・・・って、
まだ笑ってるんですか?先輩。」

「ハハハ、なんで敬語なの?
同い年じゃん!真田!お前も笑え!ハハハ!」

やべえ。惚れちまいそうだ。
あっと言う間に心のドアを蹴り破って入って来られた感じがたまらない。

「ははははー!あー!お腹が苦しい!ホントに空気で酔った!」

「今度は空気かいな?」遠慮なく言ってみた私。

「空気というか、その場の雰囲気で酔えるんだねぇ私は。あー。」

だいぶ笑いが収まってきているようだ。

「美味しそうに飲むなぁ。匂わせて。」

私が飲んでいたビールを手を伸ばして持ち上げた。
まだ半分入っているビールのジョッキに小さな顔を入れて匂う志賀先輩。

「うえぇ〜。」

「うわっ、吐かないでくださいよ。先輩。」

「いいなぁー。お酒飲めて。」

「飲めなくても酔えるんだったら、その方が最高じゃん!」

さすが優子さん。良いこと言う!

「ところで真田くんってさ。好きな子とか彼女とかいないの?
いるんでしょ?大阪に置いてきた彼女とか。」

「いないです。」

一気に笑いが収まり、テーブルは元に位置へと降りきった。

「本城とかどうなの?可愛いでしょあの子。」

本城?あー。由紀ちゃんの苗字か。忘れてた。

お酒のせいで私の本心が現れた。

「僕には忘れられない人がいて、
とてもじゃないけど新しい恋なんて出来ません!
もう恋なんてしないなんて言います絶対に!」

「♪どんな時も〜どんな時も〜」
歌い出した志賀先輩の歌詞と曲は、ごちゃついた。

私達はだいぶ酔ってきたようだ。

優子さんがもう何杯目か分からないビールを飲み干してから言った。

「ねえ!だれ?どんな人?そんな彼女が居たんだね?まだ好きなんだぁ。
大阪にいるの?年は幾つなの?どんな感じの人?ねえねえ?誰に似てるの?」

「いや、まだ好きとかでは無・・・」返答につっかえた。

忘れていたのに思い出した瞬間に蘇ってきた恋心。
もう好きじゃないかと聞かれたら
まだ好きかもしれなかった。
いや忘れられないのとまだ好きなのとは違う。
昔好きだったゲームを思い出したら付いてきたその時の興奮。
でももう今そのゲームをしてもその感情はやって来ないだろう。
ぶつぶつぶつ。

しまった!ビールのせいで思考が絡まり過ぎて
もうどうでもよくなってきた。

この会話の内容の全てが目の前の二人の記憶という録音装置によって
記録されて由紀ちゃんに流されてしまうというのに!

でも、もう遅い。
そろそろ返答する時間だ。
まあ、少しくらい女の影があったほうが魅力も増すかもしれない。
私では無理かな?
やはりもう遅い。
言ってしまえー!
えいっ!

「ショートカットでいつでも笑顔でそんな雰囲気は優子さんみたいで、
その人が忘れられていないのかもしれないから心に新しい風が吹くのを風の全く当たらない場所で待って・・・」

早口で言っている私。

「この人、優子さんのことが好きだって言ってるよ。どうする?」

しーちゃん先輩は飲めないくせに言葉はストレートばかりだ。
優子さんが言った。

「私も真田くんのこと好きだよ。そろそろ帰ろっか。」

お好み焼き屋さんを出て夜の散歩のように
三人並んで歩いた。
私が真ん中だった。
右の腕に優子さんが当たり、
左の腕にしーちゃんが当たったり当たらなかったりした。


大人な二人が私を慰めるように。
子供の私にはこれで充分だった。



〜〜〜〜〜


また月末の集金業務。
いつ行っても会えない人が居る。
夜しか家に居ない人も居る。
昼間しか家に居ない人も居た。

月末に会えない人も居る。
月初に来て欲しい人も居る。
月の半ばに来て欲しい人も居た。

なんだかんだ言って、
ずっと集金の事を考えているような気がする。

「あの家の人、今日行けば居るんじゃないか?」
とか
「お、電気ガンガンに付いてるじゃないか?居るねぇ。」
とか。

だから昼間、眠い目をこすって自分の部屋を飛び出して
お店で集金カバンを貰ってから、自分の配達区域に自転車で行く。

おや、なんか見たことのあるシルエット。
体のライン。

私と同じくらいの身長で
痩せている身体にピッタリとした黒いジーパンを
履いている。

顔を見た。
大野だ。
チョッパー大野先輩だ。

なんでこんな所に居るんだ?

夜なら飲みに来てるのかも知れないが
真っ昼間だ。
ジーパンの上にはちゃんとした襟の付いたシャツを着ている。

あやしい。

なんかそわそわしている。
すぐ目の前にあるフジテレビにオーディションでも受けに行くのか?

やっとこっちを見て私と目が合った大野先輩。

「おー。真田丸じゃねえか。あー、集金か。」

私がたすき掛けしているカバンを見て
すぐに集金をしているとわかった大野。

そういえば最近、おとなしい大野。
以前のように朝食の時に二階から
ベースギターを弾く大きな音も
聴こえなくなった。

チョッパー大野の異名がなくなってしまった。

すっかり静かになり、目立つこともしなくなり、
飲みに行っているのかも分からなくなってしまった。
そんな大野が少しパリッとした服装で昼間から、
こんな道のど真ん中に堂々と立っている。

只事ではないな。

「どうしたんすか。先輩は。」

「いや、ちょっと人を待ってんだ。」

そう言うと、
何か話したそうに自分の足元を見ながら
足を歩道のヘリの上に登ったり降りたりしている。

「ちょっと、コーヒーでも飲むか?」

「はい。」

人を待ってはいるが、
なかなか来ないのだろう。
待ちくたびれた所に私が現れて、
ちょうど気が紛れた様子だ。

すぐそこの自動販売機にお金を入れて
私に目で合図した大野。

私は好きなコーヒーのボタンを押した。

「いただきまーす。」

もう一回お金を入れて自分の分も買った大野。

さっきまで踏みつけていた歩道のヘリを
今度は椅子にして座り、缶コーヒーを開けた。

「そうか、ここ6区だな。集金大変だな。
どこの家に行くつもりなんだ?」

「田中さんが居ないんですよ。」

「あー。田中さんか。
確か朝刊の時に部屋の電気付いてるよな?」

おー、さすがベテラン。
8年も居ると、どの区域も網羅してしまっている。

「いいんじゃね?朝刊の時にピンポンしたら?
集金でーすってさ!」

「え?いいんすか?4時くらいですけど・・・」

「いいよ、そんなの。気にすんなよ。
来られんの嫌だったら自フリ(銀行口座からの自動振替)にしろって。
って言うか、こんなに苦労するんだったら新聞止まってもいいじゃん。」

ほー。
いつもの調子が出てきた大野。
さすがロックンローラーである。

「先輩、今日休みですか?」

「ん?あ、あー。そうそう、休み。」

自分の状況を思い出して
紳士に戻った大野。

大野の手には大きな紙袋。
高そうな買い物をした時に入れてもらう丈夫な袋だ。

「チッ、帰るかな。」

「誰か待ってたんですか?」

「んー・・・」

煮え切らない感じを突破するのは得意な方の私は言った。

「前に一緒に飲みに行った時にオッサンが言ってた彼女のゆ・・
ゆ・なんとかさんが、、、」

「わー!なんで知ってんだよ!」

「いや、なんとなく、そんな気がして・・・」

またしばらく地面や自分の足の動きを見る大野。

コーヒーを飲み干したら帰ろうと思う私。
この後、夕刊があるのだから仕方ない。
夕刊を配りに、またここに戻ってきたら
まだここに居るのかな?

「実は俺、子供がいるんだ。」

「ゴボッゴボッ!!」

「どうした?大丈夫か?」

「ゴホッゴホッ・・コーヒーが・・喉に・・
ンンン!こ、こどもですか?いきなり?」

「いや、いきなりじゃない。もう1年になる。」

いきなりの大野の告白に驚いた。

「今日でちょうど1年だ。誕生日なんだ。
でも留守だな。また来るとするか。」

なんて顔してるんだ!
大人の事情というものは、こんなにも
人の顔を魅力的にするものなのか!

彫刻家が丹精込めて彫り上げた作品のような顔をして
大野が言った。

「まあ、真田丸にもいずれ素敵な彼女が出来るよ。
そんで子供が出来るんだ。可愛いぞー。」

おい。
結婚はどこに行った?

私はあまり事情が飲み込めないまま
もう時間がない事を告げた。

「あ、夕刊だな。すまん。ここで俺に会ったことは
誰にも言わないでくれよ。また飲みに行こうぜ。」

カッコいいんだか
カッコ悪いんだか
分からないけど、
大野が若い割には色々と経験が豊富であることが分かった日。

その日、大野先輩は
「チョッパー大野」を捨てて「ベテラン大野」を
襲名した。

〜つづく〜

いただいたサポートで缶ビールを買って飲みます! そして! その缶ビールを飲んでいる私の写真をセルフで撮影し それを返礼品として贈呈致します。 先に言います!ありがとうございます! 美味しかったです!ゲップ!