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「THE・新聞配達員」第4話

これぞ芸術!
アートの世界!



テーブルの真ん中から右端の部分がもう
私の中で存在していなかった。
天動説を知った後の地平線の向こう側の如く。



ありきたりの下品さを突き抜けて
上品で高貴な左端組は
一番この街で美しいものを見に行こうとしていた。



優さんが黙ったまま少し考えていたが
ニヤリとしてから言った。



「よし二手に別れよう。
お前らはカラオケに行って来い。
こっちは別で動くから。」





この人も「いつもと違う」ということが
好きなのかも知れない。




芸術家の集まる街で
二十歳の小僧が言った提案を
軽く飲んでくれるなんて
なんて素敵な人達なんだ。




全くいやらしい感じがしない。
アート慣れしているのだな。





弟くんはカラオケの方に行ってしまった。
残念だ。
兄貴が外で待っていたからだ。
兄貴が二次会から合流したようだ。



パチンコでもして待っていたのだろう。
それに彼女が心配なのだろう。
全く弟に似ていない明るくて
スケベそうな顔をしていた。




竹内は完全に右端組に寝返っていた。
一番初めから右側に居たような顔で。
歌う気満々である。



女の子達にそのモダン建築家の歌声を聴かせるがいい。





騒がしい奴らが私達のことなど
一切気にせずに盛り上がりながら
消えて行った。





これでやっと
芸術に集中できる。



「さて、行こうか。」
優さんと優子さんと坂井と私で
新宿のストリップ劇場を目指して歩いた。





どこにそれがあるのかは
優さんが知っていた。





いざ新宿歌舞伎町へ。
歩いていける距離みたいだ。





着いたようだ。



「歌舞伎町一番街」と書いた
大きなアーケードが見えた。




大阪の新世界に似ている。




優さんのおかげでなぜか
スムーズにストリップの劇場に着いた。





優子さんは自分が女だとバレないように
長い髪をキャップの中に全て隠して
男っぽくしていた。



格好もちょうどTシャツとジーンズだ。





「よし、俺はそこらへんで待ってる。
お前らで行って来い。」



「じゃあ行ってくるね!」



どうやら優さんは入らないようだ。
奥様の手前では見れないのか。
夫婦では入れないルールでもあるのか。
それとも、もうすっかり見飽きてしまったのか。
分からない。



遊園地のジェットコースターに
乗り込むように私達三人は、
狭い入り口から中に入った。




暗すぎて全然周りが見えない。
ステージからの明かりが唯一の光だ。



その明かりを頼りに
ステージからだいぶ離れた後ろの方に
少し空いているスペースを見つけた。



我々三人はそこで
立ったまま観覧することにした。



優子さんの左に私。
優子さんの右に坂井がいる。



遠くのステージを見た。
真ん中よりちょっと右に天井から床へと棒が一本あった。
その棒を使って華麗に踊っている薄く透けた衣を身に纏う女性がいる。




ステージのピンク色のライトが青色に変わり、そして
緑色に変わってから赤に変わって、またピンク色に戻っていく。
女のダンサーが踊りながら少しずつ服を脱いでいく。
鱗が剥がれ落ちていく人魚のよう。




軽やかに華麗に踊っている
女性ダンサー。


そしてついには服は無くなり
全てが露わになった。



何も纏っていない人魚は
棒の周りをくるりと回ったかと思ったら
床に座り両足を広げた。
体の中まで見える。



裸の女性を見ているのに
興奮していない私。
体も反応していない。
いやらしさが全くない。



これがアートか。



二人はどうだろうか気になった。



裸の女性を女性が見るというのは
一体どういう感じなのだろうか。



気になって横にいる優子さんの顔を
チラリと覗いた。




ステージの明かりで見える
優子さんの横顔を左横から見た。





なんて、顔をしてるんだ!
これこそ芸術作品だ!
これ以上の被写体はないくらいに
その顔からは特別な雰囲気が醸し出ていた。





それはまるで
小さな子供がお祭りの花火を見ているかのような
純粋な眼差しだった。





ステージからのライトで
優子さんの顔が青くなったり赤くなったり
ピンクになったり黄色になったり
しているのをしばらく呆然と見ていた。





ステージから目を逸らさずにずっと見ているその大きな瞳。
真っ直ぐステージを見ているその横顔はまるで
遠くの地平線を眺めているナウシカみたいだ。





ステージの上のダンサーが
一番大切な部分を見せ始めた所で
坂井が目を閉じたまま「ちょっと俺、外で待ってる。」
と言って出て行ってしまった。





私はステージのダンサーよりも
それを見ている優子さんの姿に感動していた。





ダンサーはもちろんプロで
何の恥ずかしさも纏わずに
裸で踊っていた。




やがて音楽が止まって
ステージは終わったかに見えた時、
司会者のようなオッサンが
マイクを持ってステージの上に
上がってきた。



私は視線を優子さんからステージに戻した。




「それでは最後はお楽しみのジャンケンタイム!
挑戦者はいるか!」





舞台の下で手を挙げている汚いおっさん達が
息巻いている。




「はい!そこの人とそこの人!ステージへどうぞ!」




司会者から指名されたうす汚いの紳士達は舞台の上にあがった。




なぜかジャンケン大会が始まった。
その間にステージのど真ん中に布団が敷かれた。




ジャンケンで勝った汚ないほうのオッサンが
腕を上げて俯き加減の顔で無表情に喜んでいる。





司会者が言った。
「それではお楽しみの時間!こちらにどうぞ!」





男が舞台の上に敷かれた布団の上に行くと
先程ステージで華麗に踊っていた女性ダンサーが
裸のまま布団の上に仰向けに寝そべった。
そして両足を三角に立てた後、それを開いた。
こちらから女性器が丸見えである。
そして男がその間に入っていこうとする。





「ごめん。私ちょっと外に出てるね。」





優子さんが私の肩を持ちながら下を向き、
少し吐きそうになりながら
出口に向かって出て行こうとした。





しまった!
私は何が起きているのか把握したくて
急な展開に驚きながらもステージの上に集中してしまっていた!
優子さんのことをすっかり忘れていた。





私には舞台の上の続きよりも
優子さんの方が大事である。



せっかくの芸術が台無しになった舞台は
もう見るに値しない。




「大丈夫?」
と言いながら後を付いて出て行った。



「大丈夫、大丈夫。」



二人で出口に急いだ。





そして外に出た。




たいして中と変わらない
暗くて散らかっている街で
深呼吸した。




「最後のは気持ち悪かったなー。」
次に何が起こるかがわかったからだ。





あれはアートでも何でもない。
あれさえなければ最高のアートだったのに。
なぜあんな呼び物が最後にあるのか。




優さんと坂井がお店の外の自動販売機の前に居た。
優子さんにお茶と私に缶コーヒーを手渡してくれた。




「おかえり!どうだった?」




「ビックリしました。貴重な体験が出来ました。
連れてきてくれてありがとうございます。」



「いやいや、こんな二次会頼んだやつ初めてだよ。帰ろうか。」



「はい。」



「おい、優子。大丈夫か?」



「うん。大丈夫だよ。帰ろう。」



「大丈夫か?シンドそうだな。
4人だしタクシーでも拾うか。」



女性の裸に興奮しなかった初めての夜だった。



そして、
女性の裸を見ていた女性の健気な横顔が瞼の裏に焼き付いてしまって
多分一生消えることは無いだろう。



〜〜〜〜〜〜


ある夕方。
夕飯を食べ終わってから一度自分の部屋に
洗濯物を取りに帰った。

そしてまたお店に戻って
洗濯機に洗濯物を放り込んでから
明日の朝のチラシを整えるという
合理的な動きしている自分に
一人で気持ち悪めに、ほくそ笑んでいたら
二階から誰か降りてくる足音が聞こえた。

タッタッタ!
軽くて楽しそうな足取り。
由紀ちゃんだった。

私はキリッとした顔に変えて言った。

「どうもどうも。」

「あ、どうもどうも。」

なんか、よそよそしい二人。

このあいだの新人歓迎会後、初の会話だ。
新人歓迎会中は一切会話が無かった私達。

せっかく部屋まで遊びに来てくれたりして
仲良くなったのに、
フレンド具合は逆戻りしてしまったかもしれないと
少し心配していた。

由紀ちゃん達が先輩達とどんな会話をしていたのか?
二次会はどんな感じだったのか?
盛り上がったのか?
いや盛り上がるはずは無いだろう。
私には妙な自信がそれにはあった。

なぜか詳細を知りたいとも思わなかった。
そんな私のよそよそしい冷たい考え方が
気軽に話しかけづらい空気を作っていたのかもしれない。

お互い別々の体験をした新人歓迎会という時間。
それをお互いが意識している。

そんなのが私たちの間に見えない空気のように
遠慮という名で詰まっていた。

しかし元気と明るさの子、由紀ちゃんは
あっという間にそんな空気を突破してきた。
芯の強い子だ。

由紀ちゃんが私に聞いてきた。

「どうだった、そっちは?」

「あ、二次会っすか?
いやぁ〜、ものすごく良い体験が出来ましてね。」

「あー!なんかすごい所に行ったって優子さん言ってたなー。」

「うん。でも見てすぐ帰ったし、芸術だし・・・」

「ふーん。」

なんなんだ?
なんで私は本当の気持ちを隠さないと
いけないのか?

二人は、まるで古くからの付き合いでもあるかのように
同じ日の同じ時刻に違う場所で過ごすことになってしまった
お互いのイベントの模様を話し合って、
お互いの溝を埋めていこうとしていた。

私はどの子からも嫌われたくなかったのだ。

「そっちはどうやったん?カラオケに行ったんやったっけ?」

「そう!行った!もうめちゃくちゃやってん!聞いてくれる?
大野先輩がさぁ、もうグラスは割れるし、飲み物はこぼすしで・・
暴れまくってさー!」

「うわぁ。大変やってんな。歌は歌えた?」

「歌えた!私カラオケ好きやねん!真田くんは?」

「いやあ、人前で歌うのはちょっと。タンバリンが専門なもんで・・」

「はははっ!見てみたい!今度みんなでカラオケ行こうよ!」

「カラオケぇ?」

「嫌?」

「いや・・」

「嫌なんだ・・」

「いや、違う違う!そっちの【嫌】じゃなくて、
『いや〜その〜あの〜』の方の【いや】を言っただけで・・」

「どういう意味?」

「えーと、『いやー、しかし今日も暑いでんな!』の
最初の【いやー】のほうやんか!」

「よく分かんないんだけど・・・」

「ところで、みんなって誰と誰と・・・」

行くメンバーを聞こうとしたその時、
お店に細野先輩が現れた。
一人だった。

私と由紀ちゃんは会話を止めて
細野先輩を見ていた。

細野先輩は、お店の奥の部屋に声を掛けて
肩から掛けられる紐が付いているダサい色と形のカバンを
所長から受け取っていた。

そして中身を確認してから
私に声を掛けてきた。

「あー。ちょうど良かった。今いける?」

「えっ?はい!」

細野先輩が珍しく私に声をかけてくれるなんて
大人の仲間入りが出来るのかと思ったけど
違った。

「今から集金に一件だけ行くんだけど一緒に行こうか。
そろそろ教えなきゃいけないし。」

細野先輩が集金業務を教えてくれる。
今月から集金をしなければならない。
集金業務をするお給料のコースを選んだからだ。

集金業務は毎月25日から始まる。
みんな自分の配達区域を集金して回る。
いつも配達する家を回るのだから簡単だろう。

これでお給料が2万円アップ!
楽勝だぜ!

集金をしない者の区域は
自分の区域を持たない先輩達が回る。

25日から回り始めて月末までに一気に終わらせる。
もちろん完全には終わらないらしい。

月を越えて毎月1日に来てくれとか
5日に来てくれとか指定してくるワガママな客も居るそうだ。
まあ給料日が人それぞれなのだから仕方がないか。

逆に20日や23日に早く来てくれと
言うめずらしい客もいるそうだ。

そんな今日はまだ23日。
細野先輩はそんなワガママな客のために
自分のスケジュールを調整して来ていたのだ。
そしてこれからは私がする番だ。

さて、集金の手順としてはまず、
何色か名前も分からない色の
ダサい集金カバンをお店から預かる。

その中には
釣り銭と領収書の束が入っている。
野球や美術館の招待券の束も入っている。

領収書は家の数だけあり
だいたい全部で200件分くらい。
新聞代は3850円。
総額77万円ほど集金することになる。

こんなカバンひとつで大丈夫か?
襲われたらカバンを真っ先に捨てて逃げよう。

もちろん無事に集金が終われば、
その集金カバンをそのままお店の
所長か優&優子さんに返還するだけで良かった。

「じゃあチラシ終わったら行こうか。
サクッと終わらせて帰って来よう。」

「はい。」

ピーピー。
ちょうど洗濯も終わったようだ。

先輩と私は自転車に向かった。
由紀ちゃんがいってらっしゃいと言って
控えめに腰のあたりで小さく、
こちらに手を振ってくれているのを
見逃さなかった。

なんか特別扱いされてる気がして嬉しい。
彼氏になった気分だ。

温かい気持ちになった。

自転車に乗って、
1個目の信号待ちで細野先輩が言った。

「お金もらってお釣りと領収書を渡すだけだから
集金なんて簡単なんだけど、時々ややこしい客が居るからさ。
そのややこしいのだけ教えとく。
今日はそのややこしい日。」

なるほど。
私よりややこしい人が居るんだな。

前カゴに積んだ洗濯物が袋から出ないか
気にしながら自転車を漕いだ。

「着いた。いきなりややこしい客で悪いけど来月からは一人で頼む。
俺も来月からは違う区域に行かなきゃならんから。」

「はい。」

そこは一軒家だった。広い玄関だ。
東京のど真ん中でこの一軒家はなかなかのお金持ちだろう。
車を二台は停めれそうな玄関横のスペースには何も停まっていない。
そこに私たちは自転車を停めた。
私は細野先輩の自転車の横にピッタリと停めた。
贅沢な土地の使い方。

細野先輩が呼び鈴を押した。
丸くて小さな白いボタンだ。

押すとジリジリジリーと家の中から音がした。
細野先輩は長めにそれを押した。
指を離すと鳴り止むから押し続けなければならない。

しばらくすると、
家の中から声が聞こえてきた。

「おー!細野か?開いてるぞ!入れ!」

おじいさんの声だ。でも力強い。
腹の底から声が出ている。
細野先輩が来るって分かっていたみたいだ。
そうだ。
向こうから23日に指定してきたんだった。

明るいナチュラルな茶色で出来た木の門を開けて
少しの庭を通って家の玄関まで来てまたベルを押した。

「開いてるぞ!」

細野先輩は玄関のドアを開けた。

しばらくすると白髪の老人が浴衣のような
お召し物で現れた。

70歳くらいだろうか。
大きな木造の一軒家。
凝った内装。
この東京のど真ん中でこの庭と家の広さ。
敷地の面積の広さ。
家の中のしっかりとした木で出来た内装。
鬱蒼と茂る庭の木々。
得体の知れない屋敷のような作り。
ちょっぴり腐敗したお金の匂いがした。

すでに玄関の下駄箱の上に用意されていた
銀行の封筒を手に取って
「失礼します。」と言って中身を確認している細野先輩。
なるほど。
もうすでに新聞代を用意してくれているのだな。
ではすぐに終わるのだろうと思った私が間違いだった。

ご老人は目が悪かったのか細野先輩の後ろに居た私に
気づいていない様子。

気を使って先輩が私を紹介しようとしたら
やっと私に気が付いた。

「ん?なんだ?新入りか。
もうそんな時期か。1年経ったのか。
早いな。名前はなんていう?」

「真田と言います。よろしくお願いします。」

「関西訛りだな。どこだ?」

「大阪です。」

「真田丸か。『関東勢は百万も候へ、男は一人もなく候』だな。
家康を倒しに来たのか?わっはっは!」

真田幸村の事を言っている。
たまに年寄りから言われる話だ。
徳川家康が切腹を覚悟するくらいの
凄い勢いで戦ったそうだ。
先祖でも何でもなかった。

「まあ入れ!上がっていけ!茶でも飲んでいけ!」

細野先輩は何一つとして受け入れず拒否の空気を全身から出して
黙々とさわやかにクールに集金業務を遂行していく。
古新聞を入れる袋を下駄箱の上に置いていた。

余計な誘いに乗らず、
自分の時間を大切にしている感じが全身から出ていた。

「では来月からは真田が来ますんで、よろしくお願いします。」

細野先輩はそういうと
領収書を佐久間さんに手渡した。

同時に私にタスキを渡した。
いやバトンかそれとも印籠か。

「細野よ。お前は辞めるのか?」

「いえ、まだ学校が残っているので辞めません。
別の区域の担当になりますので。」

「なるほど。いつでも遊びに来いよ。
おい真田よ。お前もいつでも来ていいからな。
昼間でもいいぞ。いつでも良いからな。」

よくしゃべりそうな強気で江戸弁の下町の
感じの根っからの東京育ちの人っぽい。

私には未開の人種だ。

草木で鬱蒼と覆われている庭。
多分三階建ての不思議な家。
他に住んでいる人の気配が無い。
謎だらけだ。

からくり屋敷みたいだ。
家の中を見学させてほしいかも知れない。

一人暮らしなのか。
奥様は居ないのだろうか。
子供や孫は居るのだろうか。

モタついている私の背中を押すように
細野先輩が「ありがとうございました!」と言って
逃げるように自転車に飛び乗った。
着いてくのにやっとの私。

「・・・ん・・で・・・な!」
佐久間さんがまだ何か言っていたが、
もう聞こえなかった。

何もそんなに急がなくてもいいのではないかとも思った。

佐久間邸が見えなくなってから
いったん自転車を止めて私を待つ細野先輩。

そして追いついた私に忠告してくれた。

「あそこの家は捕まると長いから
ささっと済ました方がいい。
俺はああいうの苦手なんだ。お茶とかはいいや。
まあ君は好きにしてくれていいけどさ。
でも気を付けた方がいい。
何を言ってくるかわかんないからね。
次があるからって言って、すぐ出てった方がいいよ。」

「はい。そうします。」

そう言いながらも
あの屋敷に興味津々ではあった。

来月からは一人で行かなくちゃいけない。
無事に業務を遂行できるか自分を心配した。

お金持ちだから興味があるというわけでもなく
【いつもと違う】ということに興味がある。

芸術的な匂いが
あの屋敷からはする。
少し酸っぱそうな匂いが。

蛍光灯の明かりが無かった。
ほのかな間接照明だけで構成されていた。

ぬくもりのある家の作りなのに
家自体はなぜか寂しそうだった。

ロックな庭にブルースを歌う木々達がむせび泣く家。
これでもしクラシックが流れていたら、さっさと帰ろう。

急いで漕いだ自転車の前カゴで
洗濯物たちが笑っていた。

そして次の月。
23日。

私は紐の付いた、
牛乳を少し飲みすぎた時の便の色のカバンを
たすき掛けにして自転車に乗り、
佐久間さんの家に向かった。

一人だ。
もう20歳だぞ。
すっかり大人だ。
こんな業務は簡単だ。
相棒の自転車が居る。

夜の7時。
私は自転車を佐久間さんの家の玄関に停めて
呼び鈴を長めに押した。

ジリジリジリジリ!

「おう!真田か?入れ!」

ちゃんと名前を覚えてくれている。
これは只者ではないぞ。

(細野)だった部分をちゃんと(真田)に
変えてくれている。
ボケていない。
老人だと思って見くびらない方がいいかもしれない。

今日のお召し物は浴衣ではなく、
茶色いズボンに白いシャツだった。

今日を意識したのだろうか。
見た目は少し背中の曲がった老人だが
中身は若いのかもしれない。

「まあ、入れ!上がっていけ!
お茶を淹れてやる。飯は食ったのか?カレーがあるぞ!
そうだ!良いものを見せてやろう!
どうせ音楽家でも目指しているんだろう?」

な、長くなりそうだ・・・


靴を脱いで
佐久間さんの家の中に入った。

ヒノキの良い香りがする。

「風呂にはもう入ったのか?
下宿には風呂がないだろう。いつでも入りに来ていいぞ。」

「ヒノキ風呂だ。ちょっと見てみろ。」

私が話す間は見つからない。
こちらから質問しなくても
見事に屋敷を案内してくれた。

玄関からすぐのところに風呂があった。
ここからヒノキの匂いがしてたのだ。

なんと風呂全体が全て木で出来ている。
ヒノキなんだろう。
初めて見た。

家の風呂と言えば
団地育ちの私にはプラスチック製の
水色の正方形の浴槽しか見たことがない。
銭湯でも温泉でも陶器のようなタイルだ。

佐久間邸は木のお風呂。
なみなみとお湯が張られて湧いている。
ちょうど入り頃の様子。
ちょうどお風呂に入るところだったのか?
それとも私のために入れてくれているのか?まさか!
そこまで考えているわけないか。

「すごいですね。めっちゃいい匂いしますね。」

「関西人だな。これは匂いではなくて香りだ。」

こ、こだわりが深い!
だからお金持ちなのかもしれない。

「今、入っていくか?タオルならここにあるぞ。」

「いえ、そんな、いきなりお風呂に入るなんて・・・仕事中ですし。」

「そうか。仕事中か。固いな。ではお茶くらい飲んでいけ。
こっちだ。」

命令口調なのに嫌味な感じも偉そうな感じもしないのが不思議だ。

台所があるダイニングキッチンに来た。

ここも木で出来ている。
今度は深くて濃いめの艶のある茶色だ。

アンティークと呼ぶのかもしれない。
テーブル。食器棚。広い台所。
その横には黒く光ったアップライトのピアノ。
6人座れるテーブル。

天井に照明は無く、ピアノの上とスタンドライトが
部屋全体をほのかなオレンジ色に染めていた。
テーブルからは外が見える。
大きなガラスでできた庭に続くドア。
庭にも所々にほのかな明かりが置かれている。

テーブルの上にはポットと急須が置いてあった。
飲みかけのお茶と湯のみとお菓子が置いてある。
何かの書類も置いたまま。
台所の上にも色々置かれたままで、
生活感が出ている。

「私は一人だ。妻は5年前に亡くなった。娘が曙橋の方に住んでいる。」

キョロキョロと辺りを見回していた私に
整理整頓されていないことを説明しているような説明だった。
女性による整理整頓された感じが家の中には感じられなかった。

私は自分の四畳半を懐かしんだ。
なぜあんな狭い部屋に帰りたくなるのか。

早速お茶を淹れてくれた佐久間さん。
ポットのお湯を急須に注いでいる。

「腹は減ってないか?」

「はい。お店の夕飯を食べたばかりで。」

「そうか。」

美味いお茶だ。
こんな美味いお茶があるんだと思った。
きっと高いのだろう。
すごくまろやかでトロミのある緑茶だった。

お茶を飲みながらガラス戸の向こうの広い庭を
眺めていたら、佐久間さんがピアノの前に座った。

「どんな音楽を聴くか知らんが、その源流を知るべきだ。」
と言ってクラシックの曲を自らの手で弾き始めた。

本物のピアノの音が鳴り響いた。
音に勢いがある。
遠慮のない心で弾くと、こんなにも音は
勢いがあるのか。
とろみや艶もある。
高級なお茶と同じ演奏に感動した。

ところどころ、つっかえる指。
佐久間さんは弾きながら言い訳をした。

「最近練習していなかったから指が動かん。」

決して歳のことを口にはしなかった。
練習していないのにこれだけ弾けたら上手い方だろう。

マイナー調の暗い曲がこの家の雰囲気にピッタリだ。

「月光だ。知ってるか。」

私はクラシックなら帰ると心に誓っていたのに
あまりにも素晴らしい旋律に頭が空っぽになった。

「源流をもっと知った方がいいぞ。」
そう言いながら目をつむってピアノを弾いている佐久間さん。

私は立ち上がって佐久間さんの目の前にある譜面を見るために
ピアノに近づいた。

おたまじゃくしがいっぱいだ。
難しい曲なのだな。

【月光・ベートーヴェン】と書いてあった。

佐久間さんは目をつむって弾いている。
私は佐久間さんの指と譜面の音符を拾った。

「後ろで座って目をつむって聞け。
譜面なら後でたっぷり見せてやる。」

その通りだった。
一体いつ目を開けていたんだろう。

私はきしむ木の床の音がならないように
そっとテーブルに戻って目をつむった。

佐久間さんは本気で弾いている。
ちょっと弾けるから弾いてみたのではない。
真剣に心を込めて弾いている。
まるで舞台の上で弾いているかのように
身振り手振りが曲の雰囲気に合っている。
エンディングの音に一つ一つに力を込めて
弾ききった佐久間さん。

私は拍手した。
大きくて長い拍手を。
1万人分の拍手に聞こえただろう。

「少しつまづいたが、まだ弾けるな。よし、譜面を見せてやろう。
これがすごいんだ。裏に値段が書いてあるだろう?」

と言って楽譜本を渡してくれた。

値段を見た。「1圓」と書いてある。

「1円??」

「そうだ!1円だ。確か初任給が40円くらいの時だ。
これが初めて私の親から貰った譜面だよ。すごいだろう。」

「すごいですね。」

「どれ。もう一曲弾いてやろう。」

今度は【別れの曲】というショパンの曲のページを開いた佐久間さん。

目をつむって弾くのに譜面は一応開いていた。

私はまた感動した。
ピアノが欲しくなった。
自分の指もああなることを望んでいるように
お茶を持つ手が少し興奮で震えている。

「私の演奏は下手くそだからCDを貸してやろうか。こっちに来い。」

そう言って演奏をやめて立ち上がり
奥の部屋に歩いて行った。
私はついて行った。

廊下を少し歩いて突き当たりの左奥の部屋に入った。
寝室だ。
ベッドがありテレビがあり、
CDがわんさかと並んでいた。

「どれがいい?クラシックは聞かないのか?今どんな音楽を聴こうが
これが大元だからな。一度は聞いておいて方がいいぞ。」

ん〜。
さっきまでの感動がなくなった。
CDとなると途端に興味がなくなっていく。
生のピアノの音だったから感動したのだ。
CDは多分借りても聞かないだろう。
でも私は嘘をついた。

「これを聞いて勉強します。家に帰って聞きます。
さっき弾いてくれた曲のCDを貸してください。」

「おーそうか。さすが音楽家だな。よし、ではこれとこれと・・・
これもいいぞ。これも持って行け。」

自分の部屋にCDを聞く装置が無いことは言わなかった。

私は4枚のCDを大事そうに持って部屋から出て
「ではそろそろ、失礼します」と言って
帰ろうとした。

「ちょっと待て。こいつらも貸してやろうか。」

少し小さくなった佐久間さんの声の変化に気が付いて
振り向いた私。

佐久間さんは、
ベットの下の収納部分の引き出しを引っ張り出していた。

そこには黒いビデオテープたちがズラリと並んでいる。

どうやらエロいやつだな、これは。
真っ黒で何のタイトルも書いていない。

こんな大人を超えた大人から
エロビデオを借りられるとは
東京おそるべし。

エロビデオは見たいけど
どんどんと自分をさらけ出していくご老人に
少し得体の知れない奇妙な感じがしたので
私はわざと困った顔をして見せた。

佐久間さんは私の顔を見て真剣に応えた。

「彼女がいるのか?だったら怒られるな。やめとくか。
それとも、ここで見ていくか?」

幾つになっても必要なものがあるのか。
不変の真理。

ジリジリジリジリ!

その時、
玄関の呼び鈴が鳴った。

佐久間さんが言った。

「ん?こんな時間に誰だ?」

佐久間さんは
大きく息を吸ってから大きな声で言った。

「誰だ?」

表から女性の大きな声がした。

「すいませーん!〇〇新聞でーす!
真田くん居ますかー?」

優子さんだ!

遅いから迎えに来たんだ!

私は佐久間さんに言った。
「お店の人です!」

別に悪いことは何もしていないのに
少し焦せりのある話し方をしてしまった。

「おうっ!そうか!もうそんな遅い時間か!すまんことをしたな。
今日はもう帰れ。またいつでも来るんだぞ。」

「CDにお茶にピアノに、ありがとうございました」

「いやいや、そんな真剣に聞いたやつは久しぶりだ。」

私の前に誰か真剣に聞いたやつがいるのか・・・

玄関の外に出ると、優子さんが居た。
めずらしく怒っている感じがする。

時間はまだそんなに遅くはない。
いつもならまだお店にいる場合もある。

でも確かに一軒だけしか行かない予定の集金業務にしては
時間がかかりすぎだ。

しかし、
なんでそんな睨んでくるんだ。

優子さんが佐久間さんに言った。
「ごめんなさい!こんな遅くまでお邪魔して。」

佐久間さんが言った。
「いや、私が引き留めたんだ。全然悪くない。」

「では、失礼します!」

優子さんがペコっとお辞儀をしたので
私もした。

そして私に言った。

「帰るよ。」

「はい。」

バイクのヘルメットをかぶって
バイクを押し始めた優子さんの後を
自転車を押して、ついて行った。

しばらく歩いて佐久間さんの家から離れたところで
優子さんが行った。

「心配するからあまり遅くならないで。」

「ごめんなさい。」

「うん。私、先にお店で待ってるから。」

「はい。すぐ帰ります。」

エンジンをかけて優子さんは怒った顔のまま
バイクを走らせて行った。

私は自転車を漕ぎながら思った。

ちょっと泣きそうな顔にも見えた。
本気で心配してくれたのかもしれない。
申し訳ないな。
自分一人で生活しているわけではないのだな。
気をつけよう。

しかし、あのご老人は只者ではない。
歴代の学生が私のように捕まったんだろう。

しかし優子さんの、あの怒りよう。
過去に何か事件でもあったのかな。
聞きずらいな。
それも気をつけよう。

しかしビデオを借りれなくて残念だ。
きっと裏ビデオに違いなかったからだ。


〜〜〜〜


朝焼け空が好きだ。
新聞配達をしているからよく見ることができる。

でも新聞配達を始めてから好きになったのでも
よく見るようになったのでもなかった。

以前から私はよく空を見るためだけに外に出かけた。
新聞配達をする前から私は夜型だった。
一晩中起きて、外をフラフラとしていた。

やがて夜空が白むと自分の時間が終わっていくような
寂しい気持ちになった。

街に住む人々や家族達や社会がもうすぐ起きてくる。
だから今度は私が寝る番。
みんなにバレないように生きる。

そんな私の時間とみんなの時間の間の空が一瞬だけ焼けるのだ。
時には赤く、時にはオレンジに。
黒い空が蒼く薄まっていく。
深い紺色になったり
見事な紫色になったりして。

毎日微妙に違う色の朝焼けや夕焼けの空を見て
ボーッとするのが好きだ。
なんで好きかは答えられない。
分からないから。

私のどこが好きかと聞かれたことがあるが
答えられなかった。
分からなかったから。

一瞬の素敵な空を見せてくれる地球は好きだけど、
地球のことなど何も知らない。
内部の事情なら、なおさら。

いつも素敵な笑顔を見せてくれる君が好きでも、
君のことなど何も知らない。
内部の事なら、なおさらだ。

東京でも空が綺麗に見える場所がある。
配達の途中だけど、そこで自転車を止めて
立ち止まって私は朝焼けの空をしばらく眺める。

なんとも言えない時間。
自分が何者でもなくなる瞬間。
街にも誰にも名前などなくなる時間。

ただの一枚の風景。
見えているもの全てが風景であり何者でない時間。
名前があるとすれば、それは「風景」だ。
ただただパンを焼くトースターのように太陽が空を焼いてゆく。

地球のどこに居ても
焼けた空を見ることが出来る。

今、私は東京・新宿区に居る。
都会だ。
そんな都会のど真ん中で新聞配達をしている。

毎朝だ。
決まったルートだけど同じような場所のようでも
同じ場所などひとつも無かった。
色んな道を縦横無尽に自転車で走る。
色んな家がある。
色んな建物がある。

そして、
色んな匂いがする。
朝の生まれたての新鮮な空気を吸える公園や住宅街。
夜の残りの生臭い空気なら商店街や繁華街で吸える。

色んな色のポストがあり
色んな形のドアがある。

綺麗のから汚いのから
いい匂いのやつから臭いやつまで。

可愛いのやらオシャレなのやら
カタブツな真四角のやらアーミーカラーのまで色々。

そこをめがけて
私は朝夕のニュースを届ける。
新聞紙を届けるのではない。
新鮮なニュースを届けているのだ。
オマケで新聞紙が付いてくる。

商店街を通って
大きな家並みを通って
雑居ビルをおそるおそる通り抜け、
マンションのエレベーターに乗って
団地の階段を駆け上り、
文化住宅の階段で足音を消す。
病院や施設の中や交番にも配達をする。
そして途中の公衆便所で用を足す。

色んな人々の生活のシーンをくぐり抜けていく。
毎朝の2時間。
夕方も1時間ほど。

朝は人がいないからスイスイと配達ができるが
夕方は大変だ。
なんせ人が多い。
朝のようにはいかない。

信号も守らないといけないし、
人をひくわけにもいかない。
エレベーターも待たなければならない。

暗いけど人が少ない閑静な住宅街は少し静かすぎて怖い。
商店街や繁華街は夜なのに明るいけど、酔っ払いや夜働く人や
私のように命の時間を無駄遣いしている若者がたむろしている。
夜なのに明るくて賑やかだけど汚くて臭くてうっとおしい。

そんなバランスの良くとれた都会の街を
自転車で新聞配達をする毎日。
全く別の事を考えながら。
妄想が進む。

ジーパンのポケットに入れている
小さなメモ帳がすぐいっぱいになる。

よしっ!
この商店街を抜ければコンビニがある。
そこで少し休憩だ。
いつもの小休憩。
缶コーヒーを飲むのだ!
よし!もう少しだ。!

その時だった。

私の3メートル先くらいに
どさっと上から何か落ちてきた。
歩道と車道を隔ててくれている背の低い植物たちに
覆いかぶさるように。

黒い物体。ゴミ袋かな?
誰かが上からゴミを投げ捨てたのか?
ひどい奴が居るものだ。さすが都会。
上を見た。

10階建てくらいのマンションが立ち並んでいる。
マンションの窓しか見えない。

おや?
すぐ2階の窓が全開で開いている。

やばーい。もし住人と目があったら何言われるか、
わかったもんじゃない。

すぐに歩道の方に目線を戻して、私はまた黒い物体を見直した。
生垣の方を心配したその時、その黒い物体はゴミ袋ではなく、
人だということに気が付いた!

なんてことだ!
長い髪!女の人だ!
ということは?
人が上から落ちてきたということになる!
たいへんだ!

誰か他に見た者はいないのか?
周りを見渡してみた。
誰もいない。
この大都会・東京で夜中の4時。
なんで見渡す限り誰も居ないのか!

この都会のど真ん中で
こんなに人口密度の高い場所で
今、人が上から落ちて来た瞬間を見た者は
私ひとりだった。

飛び降り自殺か?
私は自転車から降りて、急いで上から落ちてきた黒い服の女性に近づいた。
30代か40代か分からないくらいの女性だった。

死んでるのかな?
こういう時は体を揺すってはいけないと聞いたことがある。
うつ伏せになっている女性の体。
ちょうど植木と植木の間にあるので突き刺さってはいない。
血は出てない。

「大丈夫ですか!」
声をかけたが全く反応がない。

もう一度上を見上げた。

マンションの2階の窓が全開に開いていて、
カーテンがヒラヒラと出たり入ったりしている。
あそこから落ちたのか?
だとしたらまだ低いほうかもしれない。
助かるかもしれない!
とにかく救急車だ!
コンビニだ!

私はコンビニに走って店内に飛び込んだ。
「すいません!人が!人が落ちてきて倒れてて、
上から降ってきて、死んでるか生きてるか分からなくて、
とにかく救急車を!」

私より少し年上くらいの若い男のアルバイトが
「どこですか!」と言ってきてくれた。

私とアルバイトさんは走ってコンビニを飛び出して
黒い服の女の人の元へ行った。
「大丈夫ですか!」
アルバイト先輩は平気でその女性の上半身を持ち上げて
大きな声で話しかけた。
でもやっぱり反応はなかった。

アルバイトさんは
「救急車を呼んでくる!」と私に言って
走ってコンビニまで戻っていった。

私はまた上から落ちてきた女の人を見た。
生きていてくれ!頼む!
私は恐る恐る手首に触れた。
おしっ!脈がある!
わずかに脈を打っている!
生きてるぞ!
早く来てくれ!救急車!

アルバイトさんが戻ってきた。
「今救急車呼んだから!15分くらいで来るって!
俺ちょっとレジがあるから、君待っててくれる?」

「はい!分かりました!」

私も仕事中だったが、新聞達は行儀良く自転車で待ってくれている。

もう一度上を見た。
やはりまだ2階の窓は全開で
黒いカーテンがヒラヒラと風で揺れていて
室内は見えない。

やはりこの窓から落ちたのだろう。
別の人の家ならば、そろそろ窓を閉めるはずだ。

でも飛び降り自殺にしては
2階からではどうしようもない。

足を滑らせて落ちたのか?
いや足ではない高さの窓だ。
窓に腰を掛けていたのかな。
それで落ちてしまったのか。

酔っ払ってるのか?

いやもう、そんなことよりも、
生きていてくれさえすればいいと
私は祈るばかりだった。

チリンチリン。

自転車に乗った警察官が一人でやって来た。

「おー、ここか。」

そう言って自転車のセンタースタンドを立てて
停めてから私に聞いて来た。

「通報をしてくれたのは君かな?」

「いえ、コンビニの店員さんです。それより、
この人まだ脈があるみたいだから早くなんとかしてください。」

「君が第一発見者だね?」

「はい、そうですけど・・・」

「もうすぐ救急車が来るから大丈夫。
先に私が来てしまったみたいだが、
私は・・・」

もどかしくなって、思いの丈をぶちまけた。

「脈があるかないか知りたかったからこの人に触ったけど大丈夫でしたか?
上から落ちて来たんですこの人!多分あの2階の窓が開いたままだから
あそこから落ちたんだと思います!死んじゃうかもしれないからなんか応急処置って出来ないんですか?」

「まあまあ落ち着いて。もう救急車が来るから。
なるほど。上から落ちて来たんだね。その時、君はどこに居た?」

「どこ?どこって新聞配達中だったけどコンビニで
休憩しようと思って・・・この辺りに居ましたけど・・」

3メートル向こうを指差しながら
まだ女の人の脈があるかどうかもう一度、
脈を測りたくてしょうがなかった。

「なるほど。新聞配達の途中だったと。」

なんで私の状態を知る必要があるのか?
もしかして疑われているのか?

そう思った時、かすかに救急車の
サイレンの音が聞き取れた。

どんどん音は大きくなり
眩しい赤い光を放ちながら
救急車がコンビニの前で止まった。

救急隊が勢いよく出て来て
コンビニの中に入っていってしまった。

すぐにさっきのアルバイトさんと
外に出て来た。

「こっちです!」

アルバイトさんが走ってこちらに来た。
救急隊も走った。
私も心では走っていた。
警察官のおっさんだけは鼻をほじるように
何かを書いていた。

私は救急隊にも同じことを興奮して言った。

「脈があるかないか知りたかったからこの人に触ったけど大丈夫でしたでしょうか?上から落ちて来たんですこの人!多分あの2階の窓が開いたままだから、あそこから落ちたんだと思います!早くしないと死んじゃうかも!」

救急隊の一人がすかさず女の人の腕をとって
脈を取った。

「まだ、かすかだが脈がある。大分弱っている。急がないと。」

そう言って、もう一人の救急隊の人に指示を出した。
さすがである。
おっさんとは、エライ違いである。

突然肩を叩かれた。
私はビックリして後ろを振り返ると
警官のおっさんが言った。

「処置は救急隊に任せて
君は第一発見者だから色々と聴かないといけないことが
あるんだよ。仕事中だと言っていたが、大丈夫なのかな?」

本当だ。
新聞達をすっかり忘れていた。

「事情は大体分かったから、後は君の住所と連絡先と
新聞屋さんのお店の住所と電話番号を教えてくれるかな?
それを聞いたら終わりだから。すぐ済むよ。」

おっさんは専用の記入用紙みたいな白い紙を
自転車の後ろの白い箱の中から出して来て、そう言った。

私は興奮したままだったので冷静なおっさんに少し
怒りを覚えながら住所を言った。

最後に質問した。

「あの人が無事助かって生き延びたかどうかって
僕に連絡って来ないですか?」

おっさんは言った。

「来ないね。もし何かあったら新聞屋さんに連絡するから
一応新聞屋さんの人にこの件のことは話しておいてね。
新聞配達、大変だね。」

そうだった。
またまた忘れていた。
まだ配られていない新聞達のことを。

大丈夫だ。
空はまだ黒いから、
間に合う。


〜〜〜〜〜


早く誰かに言いたくて配達が早くなっていく。
それでも新聞を入れ忘れることなど無い私。
本当にこの仕事に向いているんだと思った。

どれくらい配達時間が遅れたんだろう?
時計が無いから分からない。

空の色で判断してみる。
いつも空が白み始める場所より
大分手前で白み始めた。
45分くらいか?
1時間は遅れてない感じだろう。

いつもコーヒー休憩をしているコンビニの時間
プラス30分間くらい。

配達が終わったので、余った新聞を見た。
いつも通り2部余りだ。予備で持ってきた2部。
入れ忘れは無いだろう。
完璧だ。

お店に帰った。
まだ自転車を停めるスペースが2台あった。
私より遅い奴が一人居るみたいだ。

食堂から食器を洗う音が聞こえてくる。
優子さんだ。

「おかえりー!遅かったね。どっかで寝てた?」

「いやいや、聞いてくださいよ!上から落ちてきたんですよ!」

「何が?」

「人が!」

「人?」

「そう!人!人です人!黒い服の女の人がドサって!」

「あちゃー。もう経験したんだねー。」

「えっ?」

「私もあるよ。ピューって落ちる瞬間を見たことが・・・・・
ぎゃーーーっ!!」

「わーーーっ!!」

優子さんが急にギャーと叫ぶから、こっちも驚いて叫んでしまった。

「思い出しただけで、気持ち悪ーい!見て!鳥肌が・・・」

本当だ。立派なサブイボだ。

そうか。
こんな都会のど真ん中に住んでいたら
飛び降り自殺のひとつやふたつ、
誰でも見てしまうんだな、きっと。

慣れるしかないんだな、わっはっは!

笑ってる場合ではない。

「お店の住所を警官に聞かれたから言ったんで、連絡くるかもです。」

「はーい。でも大変だったね。よくその後配達できたね!連絡くれたら良かったのに。」

確かに。コーヒー代は持っていたから電話は出来た。

「あ、おかえりー!」

「ただいま」

細野先輩だった。

「ギャーとかワーとか何の話?」

「真田くん、もう見たんだって!飛び降りだって!きゃー。」

「あー。俺も見たことある。2回ある。東京じゃ、めずらしくないからな。しょっちゅうだよ、そんなの。」

「そんなことないよ!そんなこと言ったら本当だと思うじゃん!
そんなことないからね!真田くん!」

「は、はい。」

もう二度と見たくない。

(確かに2階だったから良かったけどもっと高い所からだったら
私なら鳥肌どころでは済まないぞ。)

夕刊の時も同じ道を通った。
何事もなかったかのように
生垣達が昼間の顔をして
歩道と車道をきちんと分け隔ててくれていた。

夜の事などもうすっかり忘れたような顔をして。

上を見た。
2階の窓は閉まっている。
黒いカーテンが見える。

あの黒い服の女性は助かったのだろうか。
あの2階の窓がその女性の部屋なのだとしたら
尋ねれば分かる事か。

いや、私にそんな勇気は無い。
生きていたら返事があり、
もし死んでしまっていたら
その部屋からは何の返事もないか、
別の誰かが出てくるだろう。

どんな関係か聞かれたら
私はなんて言えばいい?
その黒い服の女性のことなど
全く何も知らない。

ただ助かったかどうかが知りたいだけだ。

しかし、
私が結果を知るというそれに、
意味があるのかという疑問が浮かんでしまった。

私のせいで生き延びたのかもしれないし、
私がこの道を通らなくても生き延びたかもしれない。
私が通ったから死んだかもしれないし、
私が通らなかったから死んだかもしれない。

私が生まれてこなくても
あの人は生まれてきて、生きて、そして死んでいく。
私が存在しなくても。

そんな究極的な哲学者になりながら
ブツブツと夕刊の配達を終わらせて
お店に戻った。

先輩たちが「飛び降りなら俺も見たことがある話!」で
女の子達のウケを狙っている横を
スッと通り過ぎて
お店の外を出た。

早く自分の部屋に戻りたかった。
この気持ちはギターにしか沈められないだろう。
曲を作るなら今だ。

するどい目つきで帰り道を歩いていたら、
酔っ払いの男が二人肩を組んで
道に面した一軒家の玄関のドアの前に居た。

男二人で肩を組んでるなんて気持ち悪いなと思って
チラッと見たら、
なんと一人はチョッパー大野だった。

「おー!真田丸じゃねえか?なにしてんだよ?
こんなところで。」

こっちが聞きたい。
普通に帰り道だ。
だいたいここはまっすぐ新聞店から下宿の部屋の一本道じゃないか。

「さあ今日はたらふく飲むぞ!」

肩を組んでいたもう一人のおっさんが言っていた。
30代後半か40代に見える。

こんなところに飲み屋があったのか。
普通の家っぽくて、わからない。
確かに御食事処と書いてある。

大野先輩は一体何をやってる人なんだ?営業かな?
ベーシストの仕事をもらうために営業しているのかな?
いや、このおっさんの顔は全く音楽とは関係ない顔をしているぞ。
ただの飲み仲間かな?

おっさんが言った。

「スナック行きたいなー!ゆりちゃん居るかなー?なんてね!」

「居ないっスよ!やめてくださいよ!冷やかすの!」

下世話な会話だ。
こんなおっさんにはなりたくない。
早く帰ってギターだ。

「おい真田丸!一緒に行くか?飲もうぜ!」

確かにお酒が必要かもしれない。
まずは飲むとするか。

お店の暖簾とドアを開けて
入っていく二人の後ろをついて行く私。
これでまた名曲を作りそびれてしまった。

〜つづく〜

いただいたサポートで缶ビールを買って飲みます! そして! その缶ビールを飲んでいる私の写真をセルフで撮影し それを返礼品として贈呈致します。 先に言います!ありがとうございます! 美味しかったです!ゲップ!