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「群青」2月号から考えた:絵は踏めない

  序

全てのアクションを終えたのちに報告という形で自分の考えや立場を明らかにしようと考えていましたが、本件に対する誤解や論点の錯綜などが少数ではあるものの見受けられたため、僕のごく個人的な経緯と解釈について書き残しておきたいと思います。

まず、件の記事が「問題」として認知された以上、本件にあまり関係のない「群青」の仲間に対して、何らかの損害が生じてしまうことを恐れています(ないとは思うけど)。

現在進行形で私的な事情について書くことを快く思わない方はいらっしゃると思いますが、あくまで理性的に整理をする必要があると考えます。「うだうだ言ってんじゃねーよ」と言われるかもしれないですが、なかなか会うことができない、特に「群青」に関わる仲間に前もって自分の意図や考えを伝えておく必要があると思い、公開に踏み切りました。



  問題はどこから来たのか

事の初めは、西川火尖さんのご指摘だった。

http://syuuu.blog63.fc2.com/blog-entry-1257.html

僕はこの直前に火尖さんとバッティングセンターで遊んでいたので、そういう意味でもビビった。

(↓僕の打撃フォームはこちら。)


冗談は置いておいて、「群青」2月号の櫂未知子代表(僕は「櫂さん」とずっと呼んできたので、以降はそう書きます。本稿はあくまで、僕の個人的な発話と思考の形式により展開します。民事訴訟のような書き方をしたくないし、敵だとも思いたくない。)による作品評は会員への発送直後に確認していたので、正直そこから2週間ほど経ってこういう取り沙汰のされ方をするとは夢にも思わなかった。

まず、初読時点で、

・若い人

・群青から推薦で俳人協会に入会した

・現在、無季俳句も作っている

という人物を俳人協会から退会するよう促す内容で、状況証拠からして「俺のことやん・・・(他にも複数いるけど)」と思い、当事者であると認識した。その2月冒頭で既に、2月中には何らかのアクションを取らなければならないな、と考えていた。

櫂さんの主張としては、

・「群青」は同人誌だが、若い人の多さゆえに俳人協会から特別推薦枠を得た。

・協会の成り立ちを考えれば、無季の句は歓迎されないのは自明。協会員は「有季定型のよい句」を詠むべきである。それを拒むのであれば、退会されたい。

・「群青」は学生の協会入会金や年会費を負担してきたため、退会に際してはこれまでの援助を全額返却されたい。

という内容に要約できる。この点、「2月号の当該記事(作品評)全文を読んだ上で判断するべきだ」という意見もあるだろうが、この部分は”作品の評”ではないので当該記事の文芸的装飾は省いた上で、事実ベースで記載することをお許し願いたい。

ただ一点、「『群青』は学生の協会入会金や年会費を負担してきた」とあるが、この櫂さんの書き方は誤解を招く。実際には、学生の入会金・年会費は「群青」の運営費から支出されている訳ではなく、あくまで櫂さんの個人的な金銭援助に過ぎない。櫂さんは「群青」の運営費のために自己資金を用意しているが、その「群青」の運営費によって賄われるのは「学生の合宿参加費用の一部軽減」のみである。本人の言う通り「『お金を払って指導する』という、俳壇では稀なシステム」だし、その恩恵を僕はいままで受けてきた。それは金銭的にも僥倖であったし、感謝してやまない。この点、現時点での僕には到底真似できないこと。櫂さんに甘えていたのである。



  問題は何か

さて、本件には複数の論点があり、それが絡み合った形で存在している。見落としている点があるかもしれないが、自分なりに整理してみた。


①櫂さんが、個人的に若手の入会金や会費を援助していることの是非

②俳人協会理事の肩書きを持つ櫂さんが、「俳人協会の会員は『有季定型のよい句』を目指して詠むべきである。それを拒むのであれば、退会するべきである」と実質的に無季俳句を作る作家の排除を主張したことの是非

③櫂さんが、「群青」内の無季俳句の作家の退会に際しては、それまでの援助を即時返金するよう主張したことの是非


それぞれについて、僕の考えを述べる。

①と③については、あくまで「櫂さん⇆会員」の個人間の紛争に過ぎない。

まず①は、今回の議論の本旨にはあまり関係ないだろう。いわば結社における同人推挙のアナロジーと考えれば、推挙基準や方法に対する会員間の不公平があるなら問題になるが、それは今回の論点ではなさそうだ。仮に不公平が存在しているなら、それは組織内部から批判されるに過ぎない。

③に関しては、これによって実質的に、「金銭的価値」と「句作上の制約(無季禁止)」を天秤にかける形で会員(例えば、僕)に選択させる構造が擬制されたこと、が問題視されるだろう。ここに関しては、それぞれの価値観の問題だと思う。

僕は当事者だし、これまで櫂さんから金銭的な恩恵を受けたことは事実なので、退会(協会にしても群青にしても)するなら即日振込を行うのは当然かな、と思う。そのお金で、新たに協会員になった人がそこで頑張ってくれれば、それが一番だと思う。

もちろん、「かわいがられてたんだから、因果応報」と見る向きもあるだろう。それもそれで、真理だ。金銭が絡むややこしさを意識せずに、僕はその立場を受け入れていたんだから。

一方で、このような選択肢の提示の仕方が「下品だ」と感じる方もいただろう。また、思想・信条と金銭を取引することは、道徳的に堕落していると見做されうる。


(僕はどっちかっていうと、金銭的な負債を思想の株主持分に変換するという点で、デット・エクイティ・スワップ的だなと思ってた。)


とはいえ、突き詰めれば「櫂さん個人」と「会員個人」それぞれの振る舞いに対して第三者がどう感じるか、だけの問題。本件をもって、櫂さん・会員それぞれとの接し方が変わる人もいれば、そうじゃない人もいるだろう。それだけだ。


問題は②だ。これがもっとマクロな問題を包摂していたため、同人誌内の紛争が衆目のもとになったのだろうと思う。この問題は、さらにブレークダウンできる。

1. そもそも、俳人協会の会員は『有季定型のよい句』を目指して詠まなければならないのか?

2. 目指していない(無季俳句を作る)場合、即時退会しなければならないのか?

1. に関しては、「有季定型が中心・重視される」というのは自明だし、組織として明確・明瞭な方針を打ち出すことは重要だ(第一、そういうもののない組織は組織の体をなさないだろう)。とはいえ、規則に無季禁止と明示されているわけでもない、協会賞・新人賞等の傾向と選評から推定されるだけの言から、理事たる櫂さんが「無季禁止」と我々会員に強いることには、僕はやっぱり納得できない。

そもそも俳人協会の設立に関わった西東三鬼の無季句はどうなってしまうのか(そのころには有季定型に回帰していたとはいえ)。っていうか、優れた有季定型一物仕立ての句って、限りなく無季俳句に漸近しませんか?(※1)


おそらく、本件最大の普遍的な論点はココだ。協会という、俳壇全体にかかわるシステムの解釈にかかわるからだ。誤解を恐れずに言えば、俳人協会新人賞選考会での高柳克弘『寒林』の無季俳句問題の再燃に過ぎない。かねてからの埋火に「『群青』内の民事的紛争」という薪が投下されたものだと解釈している。

内部でなんらかの協定があるのなら、公表したほうがみんな幸せだろうと思う。そうしない限り、この埋火は鎮火しないだろう。情報の非対称性は即時に解消すべきだ。それがパレート改善に思えて仕方がない。協定などないというのであれば、疑いの目を向けたことを謝罪する。と同時に、僕が退会を促される妥当性もなくなるだろう。

そもそも僕は場合に応じて「無季や非定型のよい句」目指しているのであって「有季定型のよい句」だって書きたいと思っている。


2. に関しては、規定上は退会の義務はないだろう。推薦は結社の代表者の意向が必要だが、退会・除名に関する思想的な制約はないはずである。

ごくごく個人的な話だが、俳人協会の総会で西嶋あさ子さんに「無季俳句とかも作るんですけど、ここにいていいんですかね・・・」とこぼしたことがある。「好きに作ればいい。のびのびと」と言ってくださったその言葉に、実は結構救われたものだった。

入会当初は「無季俳句作ってもいいのかな」と内心ビクついていた部分はあったが、櫂さんからも「無季は禁止」と事前に言われた覚えはない。そもそも、実質的に推薦のきっかけとなったであろう第7回石田波郷新人賞受賞作には、無季俳句を入れている。

正直なことを言うと、この点に関しては「今さら!?」という気がしてならない。妥当性があるならば退会するけれども。



結局、「そもそも、俳人協会の会員は『有季定型のよい句』を目指して詠まなければならないのか?」という話題については、今後何度も繰り返すだろうと思う。会員が忖度しない限りは。

念のため書いておきますが、僕は俳人協会を敵視したり、崩壊させたいと睨んでいる訳ではありません。お世話になっている方も多いし。別に望まれていなくても、協会に在籍していたらいけないのでしょうか。もちろん、会費は払う。

余談ですが、「群青」2月号とその執筆者には著作にかかわる権利があるはずで、それを評論における引用ではないレベルで無断公開する行いは、謹まれてしかるべきだと考えます。


           まさか、こうなるとは・・・。



  これからどこへ行くのか

3年間「群青」で一緒にやってきた青本瑞季(「里」所属)が、「群青」を辞めた。その理由は、本人のアイデンティティに関する個人的な問題に端を発するので、今回のような無季俳句をめぐる議論とは(直接的には)関係ない。

しかし、彼女も僕と同様に俳人協会に推薦された身であり、そんな彼女が群青を退会したというのが、やや感情的な筆致の当該記事の背景にあるのだろうと直感する。そこで一種の「絵踏」を設えたのだと思う。

今回の記事を受けて、更に青本柚紀(「里」所属)も「群青」を去った。


いま、僕の机のえには3つの選択肢が用意されている。

「俳人協会」を退会することと、「群青」を退会することはイコールではない。「俳人協会」を退会しいくらかの金銭を支払えば、「群青」に無季句を載せ続けることも、一応は可能だろう。

しかし、「季語を適当に扱って」「よく考えずに無季俳句を選択している」という評価を受けているという事実が、胸に迫る。あまり個人名を出すのはよくないかもしれないが、谷雄介さんがその無季俳句や構成的な連作が評価されているのはそれを徹底しているからで、一方で僕のようなボーダーレスを志向するスタンスは、中途半端なものだと受け取られているのだと思う。

櫂さんや共同代表の佐藤郁良代表とは目指す俳句は違うだろうし、そこに作家としての意見対立はある。けれども、中学2年生で当時の友人に半ば騙されて俳句をはじめて以来、途方もない時間をお世話になった。俳句の文脈で言えば、僕にとって産みの親な訳で、人間として対立したかった訳じゃない。作品ではない部分で、これまで不義理を働いてしまった部分もあるかと思うけれど。

2年前の8月にいろいろあって、約1ヶ月弱の海外逃亡の末、句会に顔を出さないようになり、作品評で取り上げられることもめっきりなくなり、副編集長から降りた上、現在も日頃の生活上の要請からなかなか編集作業にも協力できず、他の学生メンバーに負担がのしかかっている状態でこのようなことを書くのも申し訳が立たない。

これまで「群青」のあり方に疑問を抱く部分もあったが、櫂さん・郁良さんが自己資金を持ち出して運営している志は誰にも否定できない部分だと思う。

なにより面白いメンバーと刺激し合う時間は幸福だったし、本件を経てそういう仲間が損をするような状況にはなってほしくないと切に願っている。

お世話になった方々のこと、会ったことはなくても作品やお手紙を通して言葉を交わした方々を思い出すと、心の底では、僕は「群青」が好きだったのだろうと、いま改めて、感じています。

でも、現状では、「俳句界に望まれる若手を育てたい」のではなくて、「俳人協会に望まれる若手を育てたい」になっている気がしてならない。

それは、これからも俳句を書き続けていきたい、ひとりの人間として、承服しかねる、ということ。

これだけは、伝えておかなければならないと思います。


(※1)1961年に現代俳句協会から俳人協会が分裂した背景として、当時の現代俳句協会の中枢にいた、中村草田男ら旧世代と、金子兜太ら「戦後派」世代の世代間対立がありました。その上で、特に草田男の「前衛俳句に対する拒否反応」が作用し、角川源義の支援等を背景として、旧世代が前衛俳句排除を旨とする「有季定型」をメルクマールに連帯して俳人協会を設立したという政治的な経緯があります。この点、2018年当時の私の歴史認識は、旧世代に属する西東三鬼個人の過去の作風を反例としたものにとどまり、団体としての方針を問う論理としては弱いものであったと省みます。「有季定型」句以外の排除が、今は亡き旧世代による、分裂の経緯を踏まえた俳人協会の1961年以来の”伝統”であることを”尊重”するお立場として、櫂さんは発言されていたものと理解します。その上で、令和に元号が移り変わった現在もなお、それが協会として明示されるべき方針なのか、そうでない櫂さん個人の信条なのかという点に関しては依然として曖昧かつ疑義はあるものの、本件について私見では、現在、俳人協会が組織的に必ずしも有季俳句を排除する取り扱いを徹底している訳ではないように見受けられています。2018年当時の経緯を存在しなかったことにはしませんが、結果的には個人レベルでの係争であったに過ぎず、現時点で櫂さんに対する疑念も時間の経過とともに霧消していることを付記しておきます。(2023年10月20日追記)

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